第24話
その日の夜。
廃工場の高い天井へ向かって、湯気とスパイスの香りが白く立ち昇っていく。
外では猛吹雪が唸りを上げているが、分厚いコンクリート壁に守られた構内は、冷たく静まり返っていた。
その一角。寝床であるコンテナハウスの前に広げたテーブルで、小さな青い炎が揺れている。ラデクが愛用しているキャンプ用ガスコンロの上で、使い込まれたコッヘルが静かに音を立てていた。
鍋の中で踊っているのは、先ほどの闇市で足元を見られて法外な値を吹っ掛けられた乾燥ハーブと、しなびてはいるが泥のついた本物の根菜類。
「……また、それ?」
イルゼが呆れ半分、困惑半分といった様子で鍋を覗き込む。
彼女は防寒着の襟を立て、白い息を吐きながらパイプ椅子に座っていた。
旅の途中、廃墟で雨風を凌ぐ際も彼は缶詰を温めてくれたが、今夜のそれは明らかに手が込みすぎていた。
「栄養補給が目的なら、固形食料と水で事足りるわ。……確かにストラゼツで食べた料理は美味しかったし、温かい食事が精神に良い影響を与えるのも理解している。でも、今はそんなことをしてる場合じゃないわ」
イルゼはコンロで揺らめく青い炎と、テーブルの上に並べられた食材を交互に見て、小さく溜息をついた。
「わざわざ高い野菜を買って、貴重な燃料を浪費してまで煮込むなんて……今の逼迫したリソース状況を鑑みれば、コストに見合わない。あまりに非効率だわ」
イルゼは本気で心配そうに眉を寄せていた。
美味しいものが「善」であることは、彼女も知っている。
けれど、明日をも知れぬ極限状態において、その刹那的な「善」を追求するために生存に必要なリソースを削る行為が、彼女の合理的思考回路にはあまりに危うい賭けに見えたのだ。
「単なるカロリー摂取だと思うから計算が合わないんだ。これは精神のメンテナンスだと思え。脳への報酬系刺激による、生存意欲の向上プロセスだよ。……ほら、冷めないうちに食え」
ラデクはイルゼの正論を受け流し、よそったばかりの熱いスープ皿を彼女の手元へ押し付ける。
イルゼは渋々といった様子でスプーンを運び、ひと口、またひと口と啜り――そして、ふぅ、と白く濁る息を漏らした。
「……おいしい」
クミンの刺激的な香りが保存肉特有の臭いを見事に打ち消し、じっくりと熱を通された野菜の甘みが舌の上でほどけていく。
冷たい外気の中で飲む熱いスープは、室内で食べるそれよりも遥かに鮮烈だった。凍えた内臓の一つ一つにじんわりと染み渡り、身体の芯から感覚を呼び覚ましていくようだ。
「だろ? 見た目は不格好だが、味は悪くないはずだ」
二人は闇に沈む廃工場の中、コンロの小さな灯りを囲んでスープを啜った。
周囲は瓦礫と鉄屑の山だが、今はストーブの熱とスープの温かさが、このわずかなスペースを世界から切り離された聖域のように守っていた。
「ねえ、ラデク」
「なんだ」
「どうして、こんな『無駄』なことをするの? 美味しいのは認めるけど……やっぱり、生存戦略としては合理的じゃないわ」
ラデクはスプーンを止め、苦笑した。
その瞳には、かつて研究室で融通の利かない優秀な後輩たちを見ていた時のような、諦めにも似た柔らかな光が宿っていた。
「あのな、イルゼ。……人間はエンジンじゃないんだ。ただ燃料を放り込めば動くってもんじゃない」
「じゃあ、何で動くの?」
「……『感情』だよ」
ラデクは自分の胸を、人差し指で軽く叩いた。
「美味いものを食って『美味い』と感動する。焚き火のそばで『ホッ』と息をつく。下らない話をして腹を抱えて笑う。……そうやって非効率なことにリソースを割くことで、『明日も生きてやろう』っていう気力が湧いてくる。それを『心』って呼ぶんだ」
「心……」
イルゼは自身の胸にそっと手を当てた。
そこにあるのは、生命活動を維持するために規則正しく脈打つ心臓だけだ。
だが、ラデクの作ったスープを飲むと、胃の腑から広がる熱が、何か焦燥感のように凝り固まっていた冷たい塊を、ゆっくりと溶かしていくような錯覚を覚えた。
「……悪くないわね、その『無駄』ってやつも」
ふと、イルゼが口元を緩める。
それは、過酷な旅に出てから初めて見せた、年相応の少女の――何の計算も警戒もない、飾り気のない笑顔だった。
ラデクもまた、つられて表情を崩す。
銃を磨き、車を直し、不味い保存食を工夫して極上の食事に変える。そんなささやかな日常の積み重ねが、二人の間にあった無機質な壁を、少しずつ温かなものへと変質させていた。
(……これでいい)
ラデクは残りのスープを飲み干しながら、心の中で独り言ちる。
彼女がどんな数奇な運命を背負わされていようと、今ここで笑い、温かさを感じている彼女は人間だ。誰が何と言おうと、俺だけはこいつを一人の人間として扱う。
だがラデクがスプーンを置いた瞬間、右手が意思に反して小刻みに震えた。カタリ、と皿にスプーンが当たる乾いた音が、静寂を引き裂くように響く。
「……ラデク?」
イルゼが敏く反応し、心配そうに顔を上げる。
ラデクは反射的に左手で右手を抑え込み、テーブルの下へ隠した。
「なんでもない。……少しぶつけただけた」
嘘だった。身体強化魔法の反動。
日を追うごとに、それを隠すことが難しくなってきている。
限界を超えて魔力を流し続けた神経回路が、焼き切れそうになりながら悲鳴を上げていた。だが、その痛みを彼女に悟らせるわけにはいかない。
この穏やかな時間は、砂上の楼閣のように脆い。
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