第一部第三章:猜疑の要塞都市
第21話
ランドクルーザーの分厚いフロントガラス。
そこに叩きつけられる泥混じりの雪を、無骨なワイパーが重苦しい音を立てて拭い去っていく。ゴムがガラスを擦るその単調なリズムだけが、沈黙に支配された車内を満たしていた。
ストラゼツを脱出してから三日。
ラデクとイルゼの間には、目に見えない、だが分厚い氷の壁が立ちはだかっていた。
助手席に座るイルゼは、もう数時間も口を開いていない。
膝の上で組まれた白磁のように細い指先は微動だにせず、ただ窓の外に広がる荒涼とした雪原を、感情の一切が抜け落ちた瞳で見つめ続けている。
その沈黙の原因が、昨日の昼に起きた襲撃にあることは明白だった。
またしても現れた
飢えた狼のように襲いかかってきた彼らを、ラデクは前回同様、一人も殺さずに無力化した。
銃を使えば一瞬で終わる制圧を、あえて危険な近接格闘のみで行ったのだ。
だが、その甘さには代償があった。
制圧の最中、相手が放った散弾の一粒がラデクの左肩を浅く抉り、乱戦の中で古傷の右膝を強打した。圧倒的な力で一方的に蹂躙すれば、間違いなく無傷で済んだはずの戦いだった。
それをあえて泥仕合に持ち込み、自ら傷を負ってまで「不殺」というブレーキを踏み続けたラデク。そんな彼に対し、イルゼは非難の言葉すら口にしなかった。
戦闘後、包帯を巻くために彼の傷口を見た彼女は、ただ一言だけ呟いたのだ。
「……非効率ね」
感情の乗らない、事実確認のような響き。
手当をする手つきは丁寧で優しかったが、その言葉はどんな罵倒よりも深く、鋭く、ラデクの胸に突き刺さっていた。
「……見えてきたぞ」
ラデクは車内に澱んだ空気を無理やり振り払うように、前方を指差した。
地平線の彼方、低く垂れ込めた鉛色の空の下に、黒々とした巨大な影が横たわっている。
地方中核都市クラドノ
かつては製鉄と重工業で栄え、国の心臓部とも呼ばれたこの街は、今やその姿を異形へと変えていた。
空に向かって伸びる無数の煙突からは、環境規制などとうに忘れた黒煙が黙々と吐き出され、雪空を汚している。
街の外周を囲むのは、廃車になったバスやトラック、瓦礫を無秩序に積み上げて作られた急造の
それはかつての人類が誇った、美しいガラス張りの魔導都市とは対極にある姿。
鉄と錆と、そして「何としてでも生き延びる」という浅ましいほどの執念だけで塗り固められた、巨大な要塞だった。
「あれが、クラドノ支部……」
イルゼが窓ガラスに張り付くようにして呟いた。
彼女の瞳に映るのは、安息の地にたどり着いた希望の色ではない。
厳しい現実を突きつけられた、確認作業のような冷徹な色だった。
「噂には聞いていたけれど、想像以上に酷い有様ね。……あんな防壁じゃ、スプリガンの本隊が来たら半日も持たないわ」
彼女は冷静に、身内であるはずの拠点の脆弱さを分析した。
それは決して悪口ではない。
これから自分たちが命を懸けて守らなければならない対象の、あまりの頼りなさを憂いての言葉だった。
「ああ。生き残った人間たちが、行き場を失って鼠のように寄り添っている最後の砦だ。……文句を言うなよ」
ラデクはハンドルを切り、都市へと続く幹線道路に入る。
道中には無数のバリケードと、スプレーで乱雑に書き殴られた看板。
『停止せよ』
『引き返せ』
『ここには何もない』
それらは敵である人工精霊に向けたものではない。
同じ人間――助けを求めてやってくる難民や、火事場泥棒を狙う略奪者を拒絶するための威嚇だ。
都市の入り口、巨大な検問所の前には、武装した兵士たちが殺気立った目で待ち構えていた。
彼らが手にしているのは、手入れの行き届いていない古びた自動小銃と、どこかからかき集めてきた旧式の魔導杖。
人工精霊が登場する以前に、ごく一部の特権階級だけが使っていた骨董品だ。もはやまともな威力など期待できないだろう代物を、彼らはすがるように握りしめている。
ラデクが車を停めると、即座に数人の兵士が銃口を向けて近寄ってきた。
「降りろ! 両手を頭の後ろへ!」
怒声と共に、運転席のドアが乱暴に開けられる。
凍てつく外気が、暴力的に車内へと流れ込んできた。
ラデクは抵抗する素振りを見せず、ゆっくりと車外へ出た。イルゼもそれに続き、無表情のまま両手を上げる。
「所属は? 目的はなんだ! この車はどうやって手に入れた? 盗んだのか!?」
指揮官らしき男が、ラデクの体をまさぐりながら詰問する。
その目は血走り、頬はこけていた。
極限状態のストレスと、慢性的な睡眠不足。
ここにいる人間たちが、どれだけ追い詰められ、余裕を失っているかが嫌でも伝わってくる。
「盗んでいない。俺の持ち物だ。……俺たちはストラゼツから来た。ユリアン・ホラーク博士からの要請でな」
「ホラーク博士だと? ……ッ、嘘をつくならもっとマシな嘘をつけ。ストラゼツなんて田舎に何がある」
男は鼻で笑うと、部下に顎でしゃくった。
「スキャンだ。汚染されていないか調べろ」
兵士の一人が、塗装の剥げた弁当箱ほどの大きさの携帯型スキャナーを持って進み出る。
魔力波形を読み取り、対象が人間か、あるいは何らかの形で人工精霊の干渉を受けている「汚染者」かを判別する機械だ。
「動くなよ」
まずはラデクの体にスキャナーが当てられる。
しばくの静寂の後、乾いた電子音が鳴り、緑色のランプが点灯した。
「……チッ、男はシロか」
指揮官は舌打ちした。
何か因縁をつけて、この希少な車両や物資を没収したかったのかもしれない。ラデクはその浅ましい視線を、涼しい顔で受け流す。
「次は女だ」
兵士がスキャナーをイルゼに向ける。
イルゼは同じ組織の人間として、疑われることは不服だった。だがこれが都市を守るための必要な手続きである以上は仕方ないと割り切り、大人しく従う。
機械が彼女の胸元にかざされた。
『…………』
音はしなかった。スキャン完了の電子音も、汚染を告げる警告音もしない。
ただ、耳鳴りがしそうなほど不気味な無音が、数秒間続いた。
「おい、どうした?」
兵士が怪訝そうに手元のディスプレイを覗き込む。その画面には、波形も、数値も表示されていなかった。
ただ黒い背景に白抜きの文字が、点滅することもなく静止していた。
< ERROR : 測定不能 / 測定対象外 >
背筋が凍るような、冷たく静かな拒絶。
「……なんだこれ」
兵士の声がわずかに震えた。困惑、疑念、そして本能的な恐怖。
故障ではない。
機械が「目の前にあるものが何なのか理解できない」と匙を投げたような、不吉な表示がそこにはあった。
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