第2話
西園寺の界隈で、広橋、という名前を聞いて、顔を顰めない人間はまずいない。
お家騒動の末の、一族の離散は業界内でも有名な話だからだ。
苗字を替えられる者は、あっさりと広橋を棄てて、そうできない者たちは、隠れるように一族の土地を離れた。
けれど、広橋栞は、そのどちらも選べない子供だった。
肉親である母親は、お家騒動の際すでに病院で虫の息。
施設に預けられていた栞は、死に目に会うことさえ叶わなかった。
妹の遺言だからと、姪御にあたる栞を迎え入れてくれた卜部の前妻が生きてくれていた頃はまだ良かった。
ようやく家庭の温もりを得られたと、栞が安堵した直後に、感染症を拗らせた前妻があっさりと天に召されてしまい、そこから再び栞の苦難は始まった。
愛妻が死んだのは不吉な倉橋の娘のせいだと棺の前で激昂する養い親の顔色を伺い続けること数年、後妻として娶った若い妻に夢中になった卜部は、強請られるままに散財し、いよいよ先代からの事業も立ち行かなくなると、思い出したように養い子の栞を、西園寺家当主の愛人にと差し出した。
奨学金で大学に通い始めた後も、外聞が悪いからとアルバイトを禁止されていたせいで自立することも叶わず、ひたすら息を潜めて養い親から隠れるように生きて来た栞は、当主の愛人と言われた時、初めて卜部の家から出られると希望を抱いた。
愛妻家で有名な当主が、気まぐれで囲った愛人に興味を持つとも思えなかったし、そもそも栞の容姿は十人並みだ。
養い親の機嫌を損ねないようにといつも気を張っていたせいか、子供の頃から食が細く、男性が好むような体つきでもない。
華奢と言えば聞こえは良いが、どちらかというと貧相というほうがしっくり来る薄い体を、数回会っただけのご当主が気に入るとも思えない。
卜部の家から出られるなら、後はもう、何でもいい。
縋るような思いで西園寺本家を尋ねれば、応接にやって来た当主は、栞を一瞥するなり、こう言ったのだ。
”卜部さんが一目だけでもってえらいしつこいから一応顔だけ見に来たけど……きみの相手、俺ちゃうなぁ”
資金援助のためならばと、養い親が呼びつけた老舗の伊坂呉服店に用意させた豪奢な重たい振袖が、一気に重い石のように栞の体を包み込んだ瞬間だった。
この人に要らないと言われたら、どうしたらいいんだろう?
真っ青になる栞を前に、緒巳は、ごめんごめんと愛想笑いを返す。
”栞ちゃんが、どうこうちゃうねん。俺ははなから愛人なんて持つつもりないし、そもそもこんな提案受けるつもりもない。このご時世に何言うとんねん、ちゅーのが本音。やけど、きみの立場もあるやろ?倉橋の家のことは、気の毒やった。関係ないきみみたいな子が、きっとほかにもよーさんおる。やから、出来る限りのことはしたいと思ってるねん”
”そ、それなら、どうかわたしのことを…”
この際、肩書は何でもいい、愛人でも、使用人でも、小間使いでも。
”うん、せやから、きみの居場所は俺のとことちゃうねん。ごめんなぁ”
伸ばした手をやんわりと拒まれて、今度こそ完全に打ちひしがれる。
最後の希望まで打ち砕かれて、絶望しきった表情で項垂れたまま畳を見つめた。
じわじわと浮かんでくるのは、いつぶりの涙だろうか。
”そんな……”
”ああ、そんな死にそうな顔せんといて。大丈夫やから。心当たりなら、ちゃーんとある。きみにぴったりの男がおるから、心配せんでええよ”
”は……?”
”ああ、もちろん、真っ当な男やで?変な性癖もないはずやし。なんせ弱きを守る弁護士先生やから、安心したらええ。俺から卜部さんには上手い事言うとくしな?せやから泣かんといて。若い娘さん泣かせたなんてうちの奥さんに知られられたら…”
ぶるっと大げさに体を震わせた緒巳が、涙目の栞の肩を優しく撫でてくれた。
”わたしは…ほ…ほかの方の愛人に…?”
”まさか!ちゃんと、幸せなお嫁さんになれるよ。きみが心から望むなら、やけど”
安心させるように微笑んだ緒巳が、悪いようにはせえへんから、とおどけるように言って、待たせていた車に栞の体を押し込む。
このたった数十分の対面が、自分の運命を替えることになるだなんて、栞は夢にも思っていなかった。
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