その翡翠き彷徨い【第70話 第二の予言】
七海ポルカ
第1話
胸の痛みに目が覚めた。
読みかけの本がバサリ、と床に落ちた。
周囲を見回してそれがいつもと変わらない自分の部屋だと知り安堵の息をつく。
ゆっくりと腕を伸ばし絨毯の上に落ちた本を拾い上げる。
ふと……本をテーブルに置き戻した視線の先に、その人を見つけ少年はもう一度安心したように微笑んだ。
「お戻りになったのですね、リュティスさま」
黒い術衣姿で燭台を掲げてそこに立っている。
「……どうした」
リュティスはゆっくりと部屋の中に入って来る。
積まれた書物。
費やした蝋燭のあと。
燭台をテーブルに置くと、少年は澄んだ翡翠の瞳でリュティスを見上げて来る。
血の色を知った今もその瞳はあどけない。
ようやく少年と表現出来る時代から青年へと移り変わり始めた……そんな時期の姿だ。
「お前が魘されている気がした」
少年は瞳を瞬かせて息を零した。
「……変な体勢で寝てたから」
リュティスは彼が横になっていたソファの端に腰を下ろして、手の平で彼の頬に触れた。
強い魔力の誓いで師弟関係を結んだ二人は、離れていてもお互いの心の内を交感することが出来た。
よって、触れることはその比にはならない。
「嫌な夢を見ました。……貴方の心を失う夢です」
冷たい手の平。
それでもその手の平に、彼は頬を寄せる。
「そこらの草の上で平気で寝こけるお前が変な体勢で寝たくらいで魘されるか」
曇っていた表情が少し緩む。
彼は笑んだ。
「確かに……」
「【
呆れたように言いつつもリュティスは少年の身体をそっと抱き寄せる。
「……あなたの顔を見れないなら、目なんか無くていい」
リュティスの肩に額を伏せ呟いた。
「お前はバカだな」
言葉は辛辣でも声は優しい。
リュティスの声はいつだって、そう、この心に届く。
「サダルメリク」
メリクはリュティスの身体に腕を伸ばして来た。
望めばもちろんのこと時に、瞬きで人間の命を絶つほどの攻撃力を持つ【魔眼】の射程に彼はいつも呆気ないほど簡単に入って来る。
……出会った時から、メリクはそういう子供だった。
だからリュティスはその魂を愛した。
自分を拒絶したことの無いその柔らかな魂を。
優しい手がそっと髪を撫でてくれる。
「ごめんなさい」
メリクはリュティスの肩に顔を伏せて言った。
「貴方はいつだって、僕に優しくしてくださっているのに。
……一度だって、ひどいことなんかされてないのに……あんな夢を見るなんて」
「……。」
リュティスは瞳を伏せる。
――――そうでもない。
彼はそう思ったのだ。
メリクはリュティスが焼け落ちたヴィノという村から救い出し、幼い頃から側に置いて来た少年だった。
リュティスの兄である第一王子グインエルが病死すると、城内はリュティスに王位継承権を与えたくないサンゴール騎士団が、武勇を誇る亡き兄王子の妻、アミアカルバを擁立してリュティスを王宮から排除する動きに入った。
リュティスに畏敬の念を持ち従うサンゴール宮廷魔術師団がこの動きを察知し、リュティスを逃がしたが、これをきっかけに王宮は二分され、国内でもリュティスを庇護して来た有力貴族がことごとく捕らえられた。
メリクは王宮から逃れたリュティスに帯同していたが、ニールセン砦で追撃して来たサンゴール騎士団と交戦状態になり、リュティスをサンクルジュ領に逃す為に宮廷魔術師団とメリクはニールセン砦に立てこもり時間を稼ぐ為に戦ったのだ。
サンクルジュはサンゴールの血を引かないアミアカルバに王位継承権を許すべきではないと考えるサンゴール王国最大の有力貴族ゴルディオン家が治める地である。
メルドラン王亡き後は王宮から退いたとはいえ、当主であるバルトロメオ・ゴルディオンは、誰一人として意見を言えなかったメルドラン王に対しても幾度も王家の血筋の存続を考えるよう進言した忠臣である。
だからサンクルジュに逃れればリュティスの地位と無事は保証される。
ニールセン砦の攻防戦は激しいものになり、激しい魔法攻撃に出て来る砦側に対して、アミアカルバも容赦せず王都から騎士団のほぼ全軍を差し向けてこれを包囲した。
結果として砦側は二週間の間この戦線を守ったが、やがて大軍の前に砦は陥落した。
籠城していた者は捕らえられ、二度と第二王子リュティスに組みしないという約定を結べば命は助けられたが、約定せずまだ抵抗の意志を見せる者は容赦無く処刑された。
ほとんどの魔術師が王太子妃アミアカルバに下る中、魔術師達と共に捕らえられたメリクは、かねてよりまだ少年でありながらリュティス王子の唯一の愛弟子とされ、その一番の腹心であることから、極めて武国アリステア式にまず両の脚の腱を切られて逃亡と抵抗の手段を奪われた。
命乞いを許されたのはそのあとだが、当時十四歳だったメリクはアミアカルバに、リュティスからの離反を命じられても決して首を縦に振らなかった。
アミアカルバはメリクの強い魔力とアルムに対する強い忠誠心を警戒した。
死傷を負わせても自分に下らないメリクに対し、アミアカルバは王都での公開処刑の命令を下したのである。
しかしこの命令に王都にいる魔術師、占星術師達が凶兆を見た。
メリクの首を刎ねると『恐ろしい災いが王都に降り掛る』とアミアカルバに強く進言したらしい。
そのためメリクは命だけは繋がれたが、その二月後隔離された離宮の牢からリュティスによって助け出された時には、少年はもう一人では自由に歩くことも出来ない脚になっていたのである。
リュティスが救ったが、
リュティスの為に死の際も見たのがメリクという子供だった。
メリクを救い出し、その瀕死の傷を見た時、リュティスは初めてメリクに手を上げた。
メリクとの間には強い魔力の交感がある。
つまりリュティスにはそうあれとわざわざ願わずとも、メリクの心の真実が感じ取れるのだ。
アミアカルバの前に膝をつき、彼が命乞いをしたとして、リュティスがそれを自分に対する裏切りと感じるようなことはない。
武国に生まれ、全く己の身を以って魔術を知らないアミアカルバなどに、リュティスとメリクの絆を断ち切ることは出来ないのだ。
だからリュティスはメリクが王太子妃アミアカルバの前で命乞いをし、リュティスから離反することを誓っても、無事な身体でいた方がずっと良かった。
簡単なことだ。
アミアカルバを欺いて死傷を回避出来るならそれを選ぶべきだった。
だがそれをせず、無用な意地を張ってアミアカルバごときに死傷を与えられたメリクに憤りさえを感じた。
リュティスにはもはや、信じられる人間はメリクしかいない。
そのメリクが進んで命を投げ打つことこそ、自分に対する裏切りだと感じたのだ。
だがメリクの頬を叩いた時、その心が『視えた』。
他の人間ではない。
リュティスだからメリクはそうしたのだと。
一度として肉親を含め、誰一人彼を愛し共に生きようとする人間はいなかった。
メリクの心に邪心がないことなどリュティスには容易く伝わる。
しかし、それでもメリクは一度としてリュティスに「貴方の側を離れる」という言葉を聞かせたくなかったのだ。
自分だけは、決してその言葉を口にしてはいけないと。
他の誰がそう言おうと、あの日あの絶望に満ちた滅びの村でリュティスの手によって救い出された自分だけは、例え上辺だけであろうと言葉だけであろうと、裏も表もあるがままの姿全てでリュティスに心を向けたいと願っていたことを。
メリクには偽りの言葉は存在しない。
自分の命の為にリュティスへの離反を口にしたら、それはリュティスへの想いよりも自分の命を上に見たことになる。
リュティスに少年時代から魔術を教えられたメリクは、物事の真理を見抜く力に長け何よりもそれを重んじた。
魔術師の言葉に偽りなどというものは存在しない。
祈りも呪いも全てが真実だ。
リュティスの心に浮かんだ自分に対する強い憤りと憎しみを、メリクは打たれた手の平に敏感に感じ取ったのだろう。
メリクはその日一人で泣きじゃくりながら眠った。
……頑な子供だ。
側に置くうちにいつの間にか自分に随分似てしまったと、リュティスはメリクの寝顔を見下ろしながらふとそんなことを思った。
瞬間的に感じたあの激しい怒りはすでに消え去って、リュティスに向けられた憎しみに傷ついた顔をしてるのに、リュティスの手をしっかり握っているその姿に、リュティスは初めて他者に対しての狂おしいほどの愛しさを感じたのだ。
今までメリクに対してはただ穏やかさと優しさがあった。
それで十分だと思っていた。
しかし一瞬罪のように抱いた刹那の憎しみさえもが、愛を知らずに生きて来た自分がこんなにも何かを愛せるようになるための、理由の一つにしか成り得ないことを知った。
サンゴールという国を追われても、
王位継承権を失っても、
血で血を洗っても自分は多分、生きていける。
でもメリクだけは失うことは決して出来ない。
リュティスはその日、そう確信したのだった。
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