【短編集】妻に愛してるって、言ってみた(少し空想板)
黄昏一刻
第1話 夜叉(やしゃ) 悠真20歳/紗良18歳
「愛してる」
控えめな声が、朝の空気を揺らす。
新婚の初夜を終えた翌朝。薄い光が布団を照らし、紗良は小さく肩を震わせる。
「……っ、な、なに言ってるの……」
頬を赤くし、布団から半分だけ顔を出す妻の紗良は、昨日十八歳になった。
昨日、籍を入れ、同じ布団で眠ったばかりだ。
嬉しさと恥じらいが入り混じるその表情が愛しくて、言葉がこぼれた。
「まだ、ちゃんと言ってなかったから」
そう告げられると、紗良は布団にもぐり、頭まで隠れた。
「……ばか……」
小さく甘えた声が、布団から聞こえた。
「逃げないでよ、紗良」
「に、逃げてない……ちょっと息を整えてるだけ……」
「息? 大丈夫?」
「う、ううん……悠真が優しくしてくれたから……大丈夫。ちょっとヒリヒリはするけど」
「あー……ごめん。でも、そこじゃなくて……」
悠真の声が少し乱れ、紗良はその意味を思い返し――頬どころか耳まで赤く染まっていく。
「……ち、違くてっ…私、そんなつもりじゃ……」
足先で布団を押し、枕に顔を埋める。
昨夜よりも幼い仕草が、胸に温かく染みた。
笑う気配に気づいたのか、紗良はそっと顔を上げる。
潤んだ目が、近い距離で悠真を捉えた。
「……多分、もう大丈夫、だと思う」
潤んでいた紗良の目が、ふと影を落とす。
「……ねぇ、本当に……よかったの? 嫌じゃなかった?」
その声音は、あの日の紗良と重なった。
「ありがとう」と震えた声。
もう、失いたくない。
悠真はそっと紗良を抱き寄せた。
紗良の体温が一気に上がるのが伝わる。
紗良の手がゆっくり伸び、悠真の頬に触れた。
「……ゆ、悠真……」
「ん?」
「……そばにいて……ね?」
掠れた声だった。
「愛してる紗良、ずっと一緒だ」
悠真がそう答えると、紗良は小さく息を吐き、そっと悠真の胸へ頬を寄せた。
新妻の温度と香りを受けとめながら、悠真は濃密だった、この二ヶ月の出来事を思い返えしていた。
*
大学の夏休みを前に、悠真は気軽な気持ちでアプリを開き、アルバイトを探していた。
ふと目に留まった「住み込み家庭教師」。
指導相手は高校生で、期間は二ヶ月。
場所は東北の山間の小さな集落。地図で調べると、端に小さく載っているだけだった。
何故か気になって応募し、面接を兼ねて訪ねることになった。
駅を降り、バスを乗り継ぎ、目的地に着いた頃には日が落ちていた。
そこに建っていたのは、闇に沈む古い大きな屋敷だった。
灯りは玄関にひとつだけで、広い敷地との不釣り合いが不安を増幅させる。
「今日はもう遅いので、お部屋を用意しております。面接は明日の朝に」
迎えた家人は控えめな口調で、反応の少ない人だった。
屋敷の中は広いのに、人の息遣いがほとんどない。
深い山の中に居るような、静けさがあった。
案内された古い畳の間に荷物を置き、布団に入ったのは二十二時を過ぎていた。
だが、眠気は訪れなかった。
どこかからか、見られている。
気のせいだと思おうとしても、まとわりつく視線は消えなかった。
──日付が変わるころ。
ようやく意識が沈みかけた瞬間、身体が動かなくなった。
手足も、まぶたも、まるで固定されたようだった。
(……金縛り?)
そう思った途端、部屋の空気が変わった。
何かが足元から近づいてくる。
畳を擦るような音。
開かない視界の端で、影が寄ってくる。
そして──
鉄のような、濃い血の匂いが鼻を刺した。
湿った吐息が頬をかすめる。
人ではない。
すぐそばにいる。
(っ……!)
声が出ない。
気配は布団の横で止まり、覗き込むように動かない。
血の匂いが濃くなり、呼吸が乱れていく。
どれほど時間が経ったかわからない。
やがて、ふっと金縛りが解けた瞬間、気配は消えた。
息を吐くと喉が痛むほど乾いていた。
結局、その夜は眠れなかった。
──翌朝。
昨夜のことを口にする勇気は出ず、寝不足を隠しながら案内に従う。
座敷に入った途端、眠気は跡形もなく吹き飛んだ。
そこにいたのは、目を疑う程の美少女だった。
白い肌は薄い光を受けて淡く色づき、黒髪は肩で揃えられている。
伏せた瞳は深い黒で、睫毛が影を作り、唇は紅を引いたように、艶めいた赤みを帯びていた。
———生徒って、この子なのか。
山奥の古い屋敷に呼ばれ、相手がこんな美少女だとは思っていなかった。
少女、紗良がゆっくり顔を上げる。
その目が悠真を捉えた瞬間、震えが走った。
その瞳は、獲物を値踏みする獣じみていた。
にぃっと赤い唇が三日月の形に歪む。
笑ったのだ。
*
家庭教師としての最初の一ヶ月は、驚くほど穏やかに過ぎていった。
紗良と悠真は、不思議な程、気が合った。
「悠真、ここ……もう一度教えて」
遠慮がちな声でノートを差し出す姿が愛らしかった。
名前で呼び合うようになるまで、さほど時間はかからなかった。
ただ、一つだけ気になることがあった。
紗良は夜になると、屋敷から姿を消す。
夕食後、ふと気づくと部屋は空で、翌朝には何事もなかったように座敷にいる。
本人に聞いても、家人に尋ねても同じだった。
「あの子は身体が弱いので、早く寝るんです」
妙な違和感は消えなかった。
ある夕暮れ。
紗良が母親と並んで裏庭へ向かうのが見えた。
気づかれないよう距離を保ち、そっと後をつける。
ふたりが入った先は、敷地の奥にひっそりと建つ古い土蔵だった。
紗良が中へ入ると、母親は鍵を外から掛けた。
金属の音が、庭全体に広がるように響いた。
母親が去り、裏庭が静まり返った頃、悠真は吸い寄せられるように土蔵へ近づいた。
木壁に耳を当てると、内側から微かな音がした。
何かを嚙み砕く音。
何かを引き裂く湿った音。
規則的に続く咀嚼の気配。
目の前の暗い土蔵が、生きているように思えた。
悠真は凍りついたように、立ちすくむ。
そのとき、土蔵の扉が「ガンッ」と内側から叩かれた。
続けざまに、木を引き裂くような爪の音。
押し殺された唸り声が低く重なり、扉全体が震えた。
「……!」
声にならない悲鳴を飲み込み、悠真は裏庭を駆け出した。
振り返ることもできず、ただ息が続く限り走った。
翌朝。
屋敷は普段と変わらなかった。
紗良はいつも通り机に向かい、家人も変わらずにこやかだった。
「土蔵には近づかないようにね。危ないから」
ふとしたように、そう言われた。
その言葉は、昨日の出来事を知っている者の口ぶりだった。
夜になっても、不安は薄れなかった。気味の悪さより、知りたいという思いが勝っていた。
深夜。
屋敷が眠りについた頃、悠真はそっと布団を抜け出した。
土蔵へ向かう足は震えていたが、止まらなかった。
鍵は驚くほど簡単に開いた。
扉がきしみながら開いた瞬間、ひやりとした空気があふれ出た。
暗い裸電球の頼りない灯りの下に、ひとりの老婆がいた。
伸び放題の白髪は乱れ、背は大きく曲がっている。
手には鈍く光る鉈。
足元には、バラバラになった鶏。
老婆はゆっくりと顔を上げた。
裂けた口は耳のあたりまで開き、口の周囲が血で染まり、赤黒い歯が無数に並んでいた。
真っ赤な目が、獣のようにぎらりと光る。
──鬼だった。
喉がひきつれ、声が漏れた。
「……っ!」
その瞬間、老婆の身体が跳ねるように動いた。
鉈を咥えて、四つん這いのままこちらへ襲いかかる。
土蔵全体が揺れるほどの勢いだった。
悠真は後ずさりし、外へ転がり出た。
薄闇の庭には紗良の母が立っていた。
悠真が助けを求めて近寄った途端、母の手の器具が光り、バチッと電撃が悠真を貫いた。
悠真の意識が闇に沈む中、後ろから足音が迫って来た。
*
朝の光が差しこみ、悠真はかすかな頭痛を覚え目を開けた。
何か、嫌な夢を見ていた気がする。
畳の匂いが広がり、座敷の天井が淡くぼやけて見える。身を起こすと、三つの影がこちらを向いていた。
紗良の父と母が深く額を床へ着けている。
その隣に紗良が座り、濡れた目で悠真を見守っていた。
「……本当に、申し訳なかった」
父の声は掠れ、母は震える手つきのまま繰り返し頭を下げる。悠真が戸惑い、言葉を探していたところ、先に父が口を開いた。
「昨夜のことについて、色々と君にも言い分があると思う。ただ、まずは説明させてほしい」
「……お願いします」
父の語った内容は、信じられない内容だった。
——むかし、この土地の荒野にひとりの女がいた。夫と幼子に恵まれた穏やかな暮らしを送っていた。
だが戦乱に巻き込まれ、夫は命を奪われ、子は病で亡くなった。
悲嘆に暮れた女は、荒野を彷徨ううちに、やがて人を喰らう鬼へと変じたという。
鬼は旅の僧によって調伏されたが、息絶える間際、僧に呪いを残した。
それ以来、僧の一族に生まれた女児は十二歳の年に異変を起こす。
髪は白く乱れ、鬼となって、夜な夜な血を求めて徘徊したと記録されている。
「……私の家には長い間、男しか生まれてこなかった。だから、この話は信じていなかったんだ。
けれど紗良が十二になった年、初めて異変が現れた。
五年間、できる限りの手を尽くしたが……私たちには紗良を救えなかった」
傍らで紗良の母が畳に伏し、こらえきれず嗚咽し震えていた。
「記録には、呪いを解く方法も残っていたんだ。
鬼女の夫の血筋と結ばれれば、呪いは断たれるとね。
探し続けていたところへ、悠真くん……君が現れた。
理由はわからないが、紗良は君を見た瞬間に確信したようだ。鬼女の夫の血が流れていると」
紗良の両親は再び深く額を床につけ、苦しげに言葉を紡いだ。
「頼む。突然で、理不尽な願いだとは承知している。だが……どうか娘と、紗良と結婚してくれないだろうか。
記録によると十八を迎える前に縁を結ばなければ、娘は本当の鬼になるらしい。
それが本当なら、紗良に残された時間は、あと一月しかないんだ」
紗良も膝を寄せ、そっと頭を下げた。
「私からもお願いします。……私と結婚してください」
悠真は、言葉を聞いた瞬間、激しく動揺した。
昨夜の恐怖、呪いの話、そして突然の願い。
すぐに返答は見つけられない。
「……ぼ、僕でいいのか。こんな……見ず知らずの僕なんかで」
紗良は顔を上げた。
頬は赤く染まり、涙がこぼれそうなまま、それでもはっきりと告げる。
「……悠真が、いいの。
理由は……多分、悠真も判ってるよね?
貴方を見た時から……私の中の“鬼”が、泣いているの。やっと会えたって…」
声が震え、喉が詰まりながら続ける。
「証明します。……どうか、一晩だけ、一緒にいて。
私が……本当に、貴方を必要としているって……わかるはず」
紗良は涙を浮かべ、震えながら訴えていた。
必死で、どこか壊れてしまいそうに。
その様子に、悠真は胸の奥が締めつけられ、反射的に答えていた。
「……わかった」
*
悠真と紗良は土蔵に居た。
夕陽が沈み、外の光がゆるやかに薄れていく。
二人きり。
闇が深々と満ちてくる。
やがて、紗良の肩が揺れた。
「……くる、かも……」
声は弱く、恐怖が滲んでいた。
紗良の指先が痙攣し、髪がふわりと逆立つ。
そして、呻くような呼吸が漏れた。
「……っ、あ……ああ……!」
紗良の白い肌に薄い影が走り、骨が軋みながら歪んでいく。
髪は一気に伸び、白く広がり、目は赤く染まっていく。
口元からは細い牙が覗き、指は節くれ立ち、爪がひどく長く伸びた。
「さ……ら……?」
悠真の問いかけに、返事はなかった。
次の瞬間、鬼女はうなり声を上げ、四肢で地を掴むように走り、悠真に飛びかかった。
「——っ!」
押し倒され、土蔵の冷たい床が背に当たる。
牙が肩へ深く食い込み、痛みに息が詰まる。
「や……め……!」
叫ぼうとした時だった。
鬼女の動きが一瞬止まった。
赤い目が揺れ、悠真を覗き込む。
「……お……まえ……さま……?」
遠い記憶を探すような、掠れた声だった。
その瞬間、悠真の脳裏に、見たことのある景色が流れ込んだ。
昨日、見た夢だった。
泣いている女、幼い子を抱く腕。
女が血塗れの自分にしがみついて、叫んでいる。
無念と哀切に気が狂いそうになる。
鬼女は震える手を伸ばし、悠真の頬に触れようとした。
「……おぉ……おぉ……」
言葉にならない嗚咽が漏れる。
紗良でも鬼でもない声だった。
悠真は涙を零しながら、その手を取った。
“誰か”の悲しみが伝わってくる。
抱き寄せると、鬼女の長い髪が肩を覆い、息が熱く触れた。
「……おぉ…おおぉぉ……あぁぁぁっ…….!」
鬼女が慟哭した。
その体は小さく震え、泣いている。
ただ、ひたすらに、泣いている。
どれほど抱き合っていたのか、わからない。
どれだけ泣いたのか、わからない。
やがて泣きつかれ、二人とも一つになって崩れていく。
夜の底で、二人は深い眠りへ落ちていった。
*
翌朝、土蔵の空気は、まだ冷たかった。
泣き疲れたように眠る紗良を抱き寄せたまま、悠真はゆっくりとまぶたを持ち上げた。
腕の中の身体は――もう、鬼女ではなかった。
かすかに震える睫毛が開く。
「……ゆ、悠真?」
紗良は自分が抱きしめられていることに気づき、慌てて後ずさろうとした。けれど、身体が強張ったのか、動きはぎこちない。
昨夜の記憶は、紗良にもまだ霞がかっているようだった。
悠真を押し倒して、牙を立て———
思い出しかけた瞬間、紗良は顔を青ざめさせ、震えた唇で言葉を探した。
「あ、あの、私……その……っ」
悠真はそっと、紗良の手を取った。
「紗良。
君は……俺を探してくれたんだろう?
ずっと、ずっと前から」
紗良の瞳の奥で、鬼女の想いが揺れていた。
悠真自身の記憶にも、燃え尽きた里のなかで抱き合った“誰か”の姿が、はっきりと焼きついていた。
ずっと昔、悠真は鬼女の夫で、紗良は夫を亡くし鬼になったのだ。
「紗良。――結婚しよう」
紗良は息を呑む。胸の奥で何かがほどけていく。
涙が溢れてくる。
「……ほんとうに? 私なんかで……いいの?」
紗良の声には、鬼女の孤独が残した傷が残っていた。
悠真は迷わず頷いた。
「紗良がいい。
前の生でも……今の生でも。
俺は、君といたい」
紗良は顔を覆い、泣きながら笑った。
陽が差し始めた土蔵の入口から、朝の光が二人を包む。
「……ありがとう」
それだけを絞り出すように呟くと、紗良はそのまま悠真の胸に頬を寄せた。
まるで、何度目かの“再会”を漸く果たせたようだった。
*
それからの三週間は、息つく間もなく過ぎていった。
本来なら数か月を要するはずの結婚の諸儀を、ふたりはその短い日々にすべて収めた。
そして――悠真と紗良の距離が近くなるほど、紗良を蝕んでいた夜の変異は、その影を薄めていった。
紗良の十八歳の誕生日、入籍を済ませた日の夜。
敷かれた布団の前で、悠真と紗良は並んで正座していた。
二人の頬は赤く染まり、どこかくすぐったい甘い沈黙が流れていた。
やがて、悠真が小さく息を吸い、紗良へ向き直った。
「……その、身体はどう?」
紗良はこみ上げるものを押さえるように、胸に手を当てた。
「……まだ、少し胸の中で暴れてるけど、大丈夫。今夜が終われば、私の中で眠ってくれると思う」
言い終えると、ふたりは目を合わせた。
どちらからともなく笑みが漏れる。
その笑みのぬくもりに、二人の距離はそっと近づき、重なりあった。
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