第27話 白の余韻に立つ声

白いものが生まれた瞬間、通路の空気がひとつ分、抜け落ちたように感じた。


光は線ではなかった。

落ちるのでも、走るのでもない。

通路そのものを白紙に重ねるように、ゆっくりと沈む“光の層”だった。


触れた壁は削れも割れもせず、ただ色も影も境界もまとめて消えた。光に触れた部分だけ、世界から切り離されるように白く溶ける。


奥にいた構造体は抵抗すらできなかった。核の輪郭がひと呼吸ぶん揺らいで、存在順位の下へ落ちるように崩れ落ちた。


音も衝撃もほとんどない。その静けさがかえって、光の巨大さを際立たせる。


光が通路を抜けるまで、三秒もなかった。時間だけが別の速度に切り替わったようで、空気が動く気配さえなかった。


やがて白がほどけ、粉のような残滓がゆっくり浮遊した。触れれば消えるほど軽いのに、空気の重さだけは変わったままだった。


私は一度、深く息を吸った。遅れていたのは自分の呼吸だ。


(……これが、星ノ宮の出力……?)


胸の奥で、恐怖とも驚愕ともつかない“脅かすほどの美しさ”がかすかに揺れた。


星ノ宮はただ、静かに掌を下ろしていた。呼吸は浅いが乱れていない。あれほどの力を使ったとは思えないほど落ち着いた姿だった。


少しして、白がほどけた。


灰色の壁が戻り、切り傷だけが、その場面が本当にあったことを示している。床には細い亀裂と、粉になった光片が薄く積もっていた。朝の教室で黒板を消したあと、黒い板の上にだけ残る粉塵を思い出す。週に一度しか顔を合わせない同級生の、消えかけのチョークの字をぼんやり眺めているときの、あの静けさに似ていた。


揺れは、もうどこにも残っていない。


二歩ほど前に、星ノ宮が立っていた。

肩で静かに息をしている。大きく乱れてはいないが、指先にかすかな震えがある。掌の前にあった光は完全に消えて、かわりに、そこにあったはずの重さだけが、手の形に沿って残っているように見えた。


彼女自身は、その震えには驚いていない様子だった。

一度、軽く息を吸い直し、ゆっくりと吐く。その仕草が妙に整っている。さっきの落下が、偶然ではないことが、その呼吸だけでも分かった。


少し離れたところで、透羽が壁に片手をついていた。

杖を支えにしながら、深く息を吐く。倒れ込むほどではないが、使った分だけ、きちんと消耗している。額にかいた汗をそのままにしているのは、拭く余裕がまだ戻っていないからだろう。


「……終わりだな」


自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。


足元の粉を避けるように、星ノ宮の近くまで歩み寄る。

彼女の視線はまだ、さっき光が落ちた場所の方を向いていた。通路の奥、崩れた輪郭の残骸が淡く消えていくあたりを、じっと見ている。


横からその横顔を見る。

汗で少しだけ張りついた淡い髪が、照明に白く縁取られていた。笑っているわけでも、怖がっているわけでもない。ただ、何かを確認しているような目をしている。


「星ノ宮」


呼ぶと、彼女は小さく振り向いた。

まだ呼吸の浅さが残っている。だが、意識ははっきりしていた。


少し間を置いてから、尋ねる。


「今の。いつからだ」


さっきの落下に名前をつける気は、まだない。ただ、その形が、今日初めて生まれたものではないと分かるだけの情報は揃っていた。


星ノ宮は一度目を伏せた。

言葉を探すというより、どこから切り取るかを選んでいるような沈黙だった。


「……ずっと前から、じゃないです」


小さく、はっきりしない言い方だったが、すぐに続きが来る。


「訓練のあとに、少しだけ、残りの時間で。

 線を、これ以上細くしても駄目で……逆に、まとめたらどうなるかなって」


そこで一度息を整える。

説明に迷っているわけではない。自分でやってきたことを人に言うのが、ただ少し気恥ずかしいのだろう。


「何回か、ひとりで試してみて。

 ここまで出し切るのは、今日が初めてですけど……形は、前から決めてました」


自分で選んだ形だ、と言っている声音だった。


やはり、偶然ではない。

それを確認して、胸の中に残っていた驚きの形が、少しだけ変わる。得体の知れないものではなく、彼女が積み上げてきた結果としての光だと分かったぶんだけ、輪郭が見えやすくなった。


「私に、黙っていたのか」


責めるつもりで言ったわけではないが、言葉だけ切り取れば、そう聞こえなくもない。星ノ宮はわずかに肩をすくめた。


「……ちゃんとできるって思えるまでは、言いにくくて。

 先輩の前で、途中で失敗するの、嫌なので」


その理由は、あまりに分かりやすかった。


悪い判断ではない。

不安定な段階で見せられるより、ある程度形になってからの方が、こちらも評価しやすい。ただ、今日の出力は、事前の想定よりずっと大きかったはずだ。


「代償は」


確認だけしておく。

星ノ宮は一度だけ視線を下に落とし、自分の指先を見た。


「……霊力、ほとんどすっからかんです。

 今は、立ってるだけなら大丈夫ですけど」


軽く冗談めかした言い方だった。

だが、立っていられるのは事実だ。どうしようもない無茶ではない。


「頭は」


「少し、ぼうっとします。でも、黒くはなってません」


その「黒く」という言い方が、教本ではなく、訓練室で交わした言葉から来ているのが分かって、ほんのわずかに視線をそらした。


異常はない。

今日のところは、それでいい。


「……分かった。ここでは、よくやった」


それだけ告げる。

それ以上の言葉は要らない。彼女が今欲しいのは、派手な称賛ではなく、「通用した」という事実の確認だ。


星ノ宮は顔を上げた。

表情は大きく変わらないが、肩の力が少しだけ抜ける。安堵というより、自分の中の線と線が、ようやく同じ場所でつながったような顔をしていた。


後ろから、小さな息が聞こえた。


「二人とも……本当に、お疲れさまです」


透羽が、杖に体重を預けながらこちらへ歩み寄ってくる。顔色は少し白いが、目はしっかりしている。彼女の補助がなければ、ここまできれいに運べなかったことは分かっている。


「日比谷もだ。無理はしていないか」


「限界の、ちょっと手前くらいです。……ぎりぎり、余裕があるって言っても怒られますか」


淡く笑うその口調は、ひどく大人びていた。

二人とも、今日で新人から一段階抜けたのだろう。


端末が微かな振動を伝えてくる。

耳元の通信に、後方からの声が入った。


『構造体の崩壊を確認。残余反応なし。隔離区、一次封鎖維持。三名の状態は』


「自立行動に支障なし。一名、霊力の枯渇が近いが、歩行には問題ない」


簡潔に答えると、向こうはすぐに要件だけに絞った声を返してきた。


『了解。任務はここで終了とする。

 二人の配属について、仮決定が降りている。現場で通知して構わないか』


「聞こう」


返事をすると、少しだけ間が空いた。

決定事項を読み上げる前の、紙の端をめくるような沈黙。


『星ノ宮日和、日比谷透羽。

 両名とも、この隔離区を含むブロックを担当する新人小組として編成。

 当面はL1〜L2の小規模対応を前提に、活動は現在位置周辺とする』


予想の範囲内ではあった。

遠くへ出されることはないだろうとは思っていたが、ここまで分かりやすい形で二人を組ませてくるとは、後方もなかなか手際がいい。


「……了解した」


通信が切れる。

通路に、また静けさが戻った。


星ノ宮は黙って聞いていた。

内容は十分に届いているはずなのに、すぐには言葉が出てこないようだった。透羽の方が、先に小さく息を弾ませる。


「じゃあ、これからも……ここで、一緒にやるってことですよね」


「……そうなるな」


当たり前の確認に、当たり前の答えしか返せない。

それでも、その事実が二人にとってどれだけ意味を持つかは、言わなくても見ていれば分かる。


星ノ宮が、ようやく少しだけ顔を上げた。


「離れない、ってことですよね。

 先輩たちがいる場所から、そんなに」


問うというより、自分で確かめている言い方だった。


「このブロックから出すつもりはないさ。今のところはな」


「今のところは、ですか」


そこだけ、わざとらしく繰り返す。

責める響きはない。そこに少しだけ寂しさを混ぜるあたりが、彼女らしい。


「先のことまで全部決めておくと、面倒になる」


本音の半分だけをそのまま口にする。

残りの半分——今の彼女たちの足元を固める方が先だ、という言葉は飲み込んだ。


星ノ宮は一瞬だけ黙って、それから、小さく息を吸った。


「……先輩」


私の方を見る。

さっきまでの戦闘よりも、少しだけ緊張しているように見えた。


「ここまで、ありがとうございました。

 訓練も、今日のことも。……ちゃんと、先輩だから、ここまでこれたので」


言葉を選びながら、それでも途中で止めずに最後まで出す。

妙に整った敬語と、その中に混ざる幼さが、彼女の年齢を丁寧に思い出させてくる。


振り返れば、そんなに長い期間ではない。

一週間に一度顔を合わせる同級生と、大して話したこともないのに、なぜか癖だけはよく覚えている──それくらいの距離感だ。それでも、積み重ねた時間が全くなかったわけではない。


「礼を言うのは、もう少し先でいい」


そう言いかけて、言葉を変えた。


「……いや。今言うなら、聞いておく」


星ノ宮の瞳が、少しだけ丸くなる。

予想と違ったのか、それともただ、こちらの言い回しに慣れていないのか。


「こちらこそだ。

 お前がここまで調整してきた分、私も楽をさせてもらった」


事実だけを述べる。

それ以上飾ると、自分の口調ではなくなる。


星ノ宮は、少しだけ俯いて笑ったように見えた。


透羽が、その横で静かに頷く。


「……よかった。先輩の前で、ちゃんと見せられて」


誰に向けて言ったのか分からないその一言が、通路に淡く溶けた。


そろそろ引き上げの準備にかかるべき時間だ。

足元の粉を避けながら出口の方へ視線を向けると、星ノ宮が、もう一度だけこちらを見上げた。


「先輩」


さっきより、少しだけ声が小さい。


「……また会えます。きっと」


何かを期待するでもなく、祈るでもなく。

ただ、そう言った。自分で、未来の位置を決めるような言い方だった。


否定する理由はひとつもなかった。


「……ああ」


短く答える。

それで十分だと思った。


星ノ宮は、それだけで満足したように見えた。

痛みの残る足で、透羽と並んで歩き出す。その背中を見送りながら、私は静かに息を整える。


光の跡はもう消えかけている。

それでも、この通路を通るたびに、今日の白さを思い出すのだろう。


そう思いながら、少し遅れて彼女たちのあとを追った。

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