冬の温度が寄り添う日々
第22話 冬至の廊下
庁舎の自動扉をくぐった瞬間、外気がかすかに背中を押し返してきた。
冬至の光はいつもより浅い角度で床に落ちていて、反射した金色が足元を薄く照らす。蛍光灯の白さと混じり合ったその光は、温度の境目が曖昧で、ひっそりと揺れて見えた。
入口ガラスの端に、小さな雪紋のシールが貼られている。
角が一ヶ所だけ浮いていて、誰かが指先で直そうとしてやめた跡が斜めに残っていた。
そういう“少し歪んだもの”を見ると、不思議と庁舎そのものが生活の匂いを帯びる。
普段は無機質なのに、今日はそこに誰かの手の温度がわずかに残っている気がした。
休憩スペースの机の上には、後勤課が置いた「冬季限定」と書かれた紙箱。
ホットドリンクのスティックがいくつか抜かれ、箱の口が緩い。
手に取るつもりはなかったけれど、そこにあるだけで胸の奥が少しほぐれた。
「冬至だからね、調理室ずっと混んでるってさ」
「夕方はもっとだよ〜」
段ボールを抱えた後勤課の声が、廊下の空気をやわらかく揺らす。
その気配に合わせるように、私の歩幅も自然と落ち着いた。
窓ガラスに当たる冬至の光が目の端に入り、思わず視線をそらす。
手すりに近づくと、金属の冷たさが空気越しに伝わって、指先が無意識に引っ込んだ。
*
訓練室の扉を開くと、均一な白い光が静かに広がっていた。
外の金色とは違う、無機質で平らな明るさ。
その中で、篝見先輩の影だけがはっきりと形を保っていた。
私は決められた位置に立ち、呼吸を整える。
空気が乾いているせいか、肺の奥で落ちる音がいつもより軽い。
篝見先輩が横から短く言った。
「……そのまま。呼吸を乱さないように。」
指示は最小限。
いつもと同じ声なのに、耳に届く速度が冬の空気に溶けるようにゆっくりで、私は無意識にそれに歩調を合わせた。
指先に集めた魔力の揺れが納まり、室内の白さがひとつに整う。
訓練は淡々と終わり、片付けも含めて大した時間はかからなかった。
篝見先輩は資料を閉じ、軽く会釈して訓練室を出ていく。
私はその背中を追わず、自分の喉の渇きを確かめるように廊下へ向かった。
*
自販機に硬貨を入れると、内部で控えめな音が響いた。
取り出したペットボトルの水は、指先から体温を奪うほど冷たい。
近くのベンチに腰を下ろし、ひと口含む。
冷たさが舌から喉へ落ちるまでの数秒が、今日だけ妙に長かった。
空調の暖かさが一呼吸遅れて背中に戻り、身体の温度が前後でわずかにずれる。
そのズレが、冬至らしい静けさとして胸に残る。
足元に落ちた紙切れが空調の風で転がった。
止まるまでの小さな軌跡がなぜか目にとまり、私は自然と息を浅くした。
――帰ろう。
そう思って立ち上がった瞬間、廊下の奥に人影が見えた。
篝見先輩だ。
調理室の前で、扉を見つめるように立ち止まっている。
背筋はいつもどおりなのに、肩の高さがわずかに揺れて見えた。
ひと呼吸だけ、動きを迷ったような気配がある。
扉には「使用中」の札。
中からは鍋の沸く音、まな板の乾いた音、人の声、湯気の気配――
台所の“火熱”が溢れ出すように広がっている。
その賑わいとは対照的に、篝見先輩の立つ場所だけ空気が冷たい。
境界線の手前で止まる姿は、光と温度の差で細く切り取られたように見えた。
私は歩幅を落として近づく。
声をかけようとして、足音が思ったより響き、胸が少しだけ熱くなる。
「……先輩?」
呼びかけると、篝見先輩の視線がわずかに揺れた。
驚きではなく、判断を静かに留めるような揺れ。
「調理室、今日はずっと埋まっているようです。」
淡々とした声。それでも、普段より息の混じる割合が少しだけ多い。
扉の隙間からあふれる熱気が、先輩の影を縁取る。
火の匂いと人の気配が濃いのに、先輩の周囲だけ温度が違って見えた。
篝見先輩は扉を見つめたまま、言葉を継いだ。
「昨日の仕込みが半分残っていて……家のIHも不安定で。
今日、少し進めるつもりだったのですが。」
“説明”の形をとっているのに、言葉の端にかすかな迷いがあった。
困っていると言わないけれど、困っている時の呼吸の浅さがそこにあった。
調理室から漏れる火音が、先輩の輪郭を薄くしていく。
私は胸の奥で小さな震えがおきるのを、息を整えるように押し込んだ。
先輩にも、こういう瞬間があるのだと、静かに思う。
私は気づいたら、声を出していた。
「……あの、先輩。」
篝見先輩がこちらを向く。
光の屈折が肩で揺れ、影が戻ってくる。
「もし、今日中に必要なら……
うち……同じIHがあります。小さいですけど……使えます、よ?」
言葉を出してから、自分でも驚くほど静かになった。
先輩の目がわずかに瞬き、時間が短く止まる。
「……え?」
その声音は、いつもの静けさのままなのに、
ほんのわずかだけ色が揺れて聞こえた。
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