第20話 揺れ始める午前の静度
翌日も、庁舎の廊下は朝の光をまっすぐ通していた。
昨日の模擬市街地で捉えた“逆流の揺れ”は、記録では数値に残らず、曖昧なまま私の中だけに薄く沈んでいる。
報告するほどではない──だが、忘れてよいほど軽くもない。
星ノ宮は既に訓練区画の前に立っていた。
姿勢は静かで、呼吸も乱れていない。昨日よりさらに無駄がないのは、迷いを削った証だろう。
光の揺れ幅も安定していて、表情には焦りの色が一切浮かんでいなかった。
「……おはようございます」
星ノ宮が頭を下げる。声の高さも昨日と違い、深い位置に落ち着いている。
今日の基礎訓練は、昨日とは別の“確認”になる。
揺れの強弱ではなく、軸の持続力と線の安定度。
そして──昨日、影の奥でわずかに遅れて揺れた“あの層”が、再び反応を見せるかどうか。
私は訓練区画のパネルを開き、静默場の初期設定を下げた。
必要以上に抑え込むべきではない。星ノ宮の制御は、もう介入なしでも成立する範囲に入っている。
「では……入りましょう」
扉が開く。
昨日とは少し違う、乾いた光と空気の層が、その向こうに広がっていた。
庁舎の訓練区画は、冬の光を薄く刻んでいた。
静けさは硬質で、足元の影が一本の線として伸びる。
まるで教室で一番落ち着いた子が、朝だけはきちんと姿勢を崩さない時の空気に似ている。
星ノ宮が走り込みの速度で近づき、息を整えながら頭を下げた。
姿勢は昨日より沈まない。軸の揺れも目で追える範囲だ。
扉が閉じると、音がひと段落深く落ちる。
初級区画の“薄い揺れ”が壁際でほどけるのを、皮膚の下で察知する。
「……始めます」
散光片が最初に現れた。
白い破片が空気を切り、刃物より速い角度で跳ねてくる。
星ノ宮は肩を固定したまま、細い光子線を滑らせた。
線が破片を斜めに裂き、飛散した光が床の白線に散った。
反応速度は十分。
光の切断面も安定している。昨日よりずっと。
次の揺れが走る。
壁の影が細く伸び、線状異体が地を舐める速度で迫る。
“すっ”という削れる音。
星ノ宮の足が半拍だけ止まる。緊張が筋肉の表面に浮いた。
「焦らないで」
短く告げると、彼女は息を整え、即座に光子線を縫うように通した。
線状異体は一度跳ねるように割れ、影が二枚に分離して沈む。
複数の線状異体が起き上がる。
影が床を這い、角度を変えながら音を積む。
“ぱき”“ぱさ”“しゅ”——
それぞれ速度が違う。
新人なら混乱するが、星ノ宮は目を逸らさずに追う。
光子線が一瞬揺れた。
攻撃のテンポを乱したのは、異体側ではない。
彼女自身の呼吸の震えだ。
私は歩幅を変えず、指先で静默場を薄く展開する。
空気のざらつきが引き、影の動きが刹那だけ遅くなる。
星ノ宮がその一瞬を掴み、線をまっすぐ通した。
切断音が乾いて、冬の光に吸い込まれる。
「……そのまま」
声を落とすと、彼女の肩の力が静かに抜けた。
だが、一体が突然反転し、影が地面を跳ねて星ノ宮の足元へ滑り込んだ。
予測外の角度。
彼女は半拍遅れたが、軸は崩れない。
光が揺れ、壁際の金属に淡く反射した。
私は近づき、彼女の肩に触れて角度を修正する。
説明は不用。
星ノ宮は即座に体勢を反し、線を斜めに落として影を切断した。
呼吸が深く戻る。
緊張が抜けたのではない。整え直しただけだ。
授業中に騒ぐ子の横で、静かにノートを取り続ける、あの一定の気配に似ている。
揺れが沈むかと思った瞬間——
前方の空気が、逆に押し返すように揺れた。
風ではない。
線の流れが“奥から手前へ”押し返している。
初級区画では起こらない速度差だ。
星ノ宮の視線がそちらへ滑る。
私も目だけを向ける。
影の層が乱れている。形は現れないが、刻まれた線だけが残っている。
「……ここまでです」
半歩前に出て、彼女を進ませない位置に立つ。
星ノ宮は即座に理解し、頷いた。揺れない。
退路へ戻ると、揺れは薄まり、金属の匂いが消える。
冬の空気が軽く入り込み、訓練区画の重さをさらっていく。
私は最後に彼女の光の状態を見る。
揺れ幅は許容内、反応速度は向上。
昨日より“線が素直に走っている”。
「……安定しています。次段階に進めます」
星ノ宮は小さく息を吐いた。
安堵かどうかは判断しない。
ただ、歩幅が昨日より整っている。それだけだ。
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