第3話

◆◆◆ 第5章 裏切りの河童村と、良太の仮面 ◆◆◆



岩手県・遠野市郊外。

深夜2時。


イチ、ジロ、エミの三人は、人目を避けながら山道を登っていた。

月明かりさえ届かない、湿った闇の中。


「……本当に、戻るの?」

エミが震える声で言った。


イチは黙って頷いた。


「上に確かめる。

 牛鬼との同盟が本当なのか……

 俺たちが捨て駒にされたのか」


ジロが険しい顔で続ける。


「でも、もし本当だったら――」


「そのときは逃げる」

イチは即答した。

「三人で、どこまでも」


エミは唇を噛んだ。

涙が頬を伝う。


「……私たち、何のために尻子玉抜いてきたの?

 種を守るためだって、信じてたのに」


誰も答えられなかった。


ただ、足音だけが暗闇に響く。


やがて――

河童村の入口が見えてきた。


***


河童村は、人間の世界から隔絶された場所にある。

遠野の奥地、滝の裏側に隠された洞窟を抜けた先に広がる、地下空間。


古い石灯籠が並び、

苔むした石畳が続く。

水の流れる音が、どこまでも響いている。


イチたち三人が村の広場に足を踏み入れた瞬間――


パチパチパチ。


拍手が響いた。


「……!」


三人は立ち止まった。


広場の中央に、

河童の長老が座っていた。


その名は瀬田厳蔵(せた げんぞう)。

齢三百を超える老河童で、背中には深い皺が刻まれている。


その隣には、

若い河童が二人。


河童上層部・実行班――

鬼塚(おにづか)と水無月(みなづき)。


鬼塚が薄く笑った。


「ご苦労様。

よく戻ってきたな、特殊河童隊。

 いや――元特殊河童隊、か」


イチの目が鋭くなる。


「……どういう意味だ」


瀬田厳蔵がゆっくりと立ち上がった。


「イチ、ジロ、エミ。

 お前たちの任務はもっと激しくなる」


エミが息を呑む。


「な、何を……」


瀬田は冷たく続けた。


「お前たちは真面目すぎた。

 月に三つの尻子玉を律儀に持ち帰り、人間社会に溶け込みすぎた。

 そんな”ぬるい活動”では、種は守れん」


ジロが拳を握り締める。


「じゃあ、俺たちがやってきたことは……!」


「無駄ではない!

しかし現状維持が精一杯だ」


鬼塚が冷酷に言い放った。


「俺たちはもう、新しい同盟を結んだ。

 牛鬼とな」


イチの心臓が凍りついた。


「……やっぱり、本当だったのか」


瀬田が頷く。


「牛鬼は、関東で千単位の人間を殺す。

 その過程で得られる尻子玉を、我々に分け与える。

 代わりに、我々は地下水路網と隠れ家を提供する」


エミが叫んだ。


「そんなの……大量虐殺じゃないか!

 私たちは、そんなことのために――」


「黙れ」


水無月が冷たく遮った。


「お前たちは理想主義者だ。

 “人間を出来るだけ殺さず、少しずつ尻子玉を集める”……

 そんな方法では、種は滅びる」


瀬田が杖をつきながら、ゆっくりとイチに近づいた。


「イチ。

 お前の父も、かつて同じことを言った。

 “人間と共存できる”とな」


イチの目が見開かれた。


「……父さんを、知ってるのか?」


瀬田は冷笑した。


「ああ。

 だから――殺した」


「!」


イチの身体が震えた。


「……嘘だ」


「本当だ。

 お前の父、一角(いっかく)は、人間との共存を唱え、上層部に逆らった。

 だから――粛清した」


イチの拳が血が出るほど強く握られた。


「……てめえら……!」


鬼塚が剣を抜いた。


「イチ、お前も同じ道を辿るつもりか?

 ならば――ここで消す」


ジロとエミがイチの前に立ちはだかった。


「逃げるぞ、イチ!」


だが――


ザッ。


周囲から、武装した河童たちが現れた。


包囲されている。


瀬田が低く笑った。


「逃げられると思ったか?

 お前たちは、最初から監視されていた。

 佐伯良太を通じてな」


イチの心臓が跳ね上がった。


「……良太が?」


「そうだ。

 あの男は二重スパイだ。

 警察にも情報を流し、

 牛鬼にも情報を流し、

 そして――我々にも情報を流している」


エミが絶望的な声を上げた。


「じゃあ、良太さんは……私たちを売ったの?」


瀬田は首を横に振った。


「いや。

 あの男は――誰の味方でもない」

「不思議な男だ」


その瞬間、


ドォンッ!


洞窟の入口が爆発した。


「!?」


煙が立ち込める中、

一人の男が姿を現した。


――佐伯良太。


その手には、古い巻物と、光を放つ札。


鬼塚が剣を構えた。


「佐伯良太……!

 貴様、ここで何を――」


良太は静かに答えた。


「お前たちを――止めに来た」


瀬田が目を細めた。


「ほう。

 貴様、本気で河童と牛鬼の同盟を崩すつもりか?」


良太は微笑んだ。


「ああ。

 俺には――別の計画がある」


***


良太はゆっくりと巻物を広げた。


そこには、複雑な図が描かれていた。


樹木のような構造。

その枝には、果実のようなものが実っている。


イチが目を凝らした。


「……これは?」


良太が答える。


「尻子玉の樹だ」


全員が息を呑んだ。


良太は続けた。


「人間の尾てい骨から、

 定期的に尻子玉の代替物が”実る”ようにする技術がある。まるでリンゴの木のようにな」


エミが震える声で言った。


「そんなこと……可能なの?」


「可能だ。

 俺は十年かけて、この技術を完成させた。

 これを使えば――

 人間を殺さずに、尻子玉を増やせる」


ジロが食いつくように聞いた。


「本当か!?

 それなら、俺たちは――」


だが、瀬田が冷たく遮った。


「無意味だ」


「……え?」


瀬田は杖を突きながら言った。


「その技術は、牛鬼には通用しない。

 牛鬼の瘴気は、生身の尻子玉でしか増幅しない。

 “果実から採れる代替物”など、奴らには何の価値もない」


良太は頷いた。


「その通り。

 だから――牛鬼は、俺を殺そうとしている」


イチが驚いた顔で良太を見た。


「……お前、命狙われてるのか?」


良太は静かに笑った。


「ああ。

 俺が尻子玉の樹を完成させた瞬間、牛鬼にとって、俺は最大の障害になった。

 なぜなら――

 この技術が広まれば、大量虐殺の必要がなくなるからだ」


瀬田が低く笑った。


「だから貴様は、河童村に来た。

 我々を説得するために」


良太は頷いた。


「そうだ。

 瀬田厳蔵。

 あんたたちが牛鬼と手を組めば、

 関東で何千人も死ぬ。

 それでいいのか?」


瀬田は即答した。


「構わん。

 人間など、掃いて捨てるほどいる」


「だが――河童は違う」


良太の声が、初めて熱を帯びた。


「河童は、あと800匹しかいない。このまま大量虐殺に加担すれば、人間社会から完全に敵視される。

 そうなれば――河童は本当に滅びる」


鬼塚が剣を構え直した。


「戯言を……!」


だが、良太は続けた。


「だが、尻子玉の樹があれば違う。

 人間を殺さずに尻子玉を得られる。

 河童は種を守り、

 人間も命を奪われない。

 全員が生き残る方法だ」


エミが涙を浮かべた。


「本当に……そんな方法があるの?」


良太は頷いた。


「ある。

 だが――」


その瞬間、


ゴオオオオッ!


洞窟全体が揺れた。


鬼塚が顔を歪めた。


「……来たか」


瀬田が杖を握り締める。


「牛鬼だ」


入口の闇から、

巨大な影がゆっくりと這い出してきた。


牛の頭。

鬼の身体。

瘴気を纏った、異形の存在。


――牛鬼。


牛鬼はゆっくりと良太を見据えた。


「――佐伯良太。

 貴様の命、ここで断つ」


良太は微笑んだ。


「やれるものなら、やってみろ」


牛鬼が咆哮を上げた。


「河童ども!

この男を殺せ!

さもなくば、同盟は破棄だ!」


瀬田、鬼塚、水無月――

三人は一瞬、顔を見合わせた。


そして――


鬼塚が剣を、良太に向けた。


「……すまんな、佐伯」


良太は動じなかった。


「イチ」


イチが顔を上げた。


「お前たちは――逃げろ」


「だが――」


「いいから逃げろ!

 俺が時間を稼ぐ!」


良太は札を構え、

牛鬼と鬼塚に向き直った。


イチは歯を食いしばった。


「……クソッ!」


ジロとエミの腕を掴み、

三人は洞窟の裏口へ走り出した。


鬼塚が追おうとした瞬間――


良太の札が光を放ち、

鬼塚の動きを封じた。


「逃がすか……!」


だが、牛鬼が巨大な腕を振り下ろした。


ドガァッ!


良太の身体が壁に叩きつけられた。


「ぐっ……!」


血が口から溢れる。


牛鬼がゆっくりと近づいてくる。


「――貴様の理想など、

 現実の前では無力だ」


良太は血を拭い、

それでも――笑った。


「……そうかもな。

 でも――種は蒔いた」


牛鬼が眉をひそめた。


「何?」


良太は懐から、小さな種子を取り出した。


「尻子玉の樹の種だ。

 これを――イチに渡した」


牛鬼の目が見開かれた。


「貴様……!」


良太は最後の力を振り絞り、

札を投げた。


札は光を放ちながら、

洞窟の天井に張り付いた。


「この洞窟は――崩れる」


瀬田が叫んだ。


「全員、逃げろ!」


ゴゴゴゴゴゴゴ……!


洞窟全体が崩れ始めた。


牛鬼が咆哮を上げる。


「佐伯良太ォォォ!」


だが、良太の姿は――

崩れ落ちる岩に飲み込まれていった。


***


洞窟の外。


イチ、ジロ、エミの三人は、

崩れ落ちる洞窟を呆然と見つめていた。


「……良太……」


イチの拳が震えた。


エミが泣き崩れる。


「良太さん……!」


ジロが歯を食いしばった。


「……あいつ、最後まで俺たちを守ってくれたのか」


イチは懐に手を入れた。


そこには――

小さな種子が入っていた。


(……良太。

 お前、いつの間に……)


種子には、小さなメモが添えられていた。


『この種を育てろ。

 人間を殺さずに済む未来のために』


イチの目から、一筋の涙が流れた。


「……わかった。

 お前の意志、継ぐ」


三人は立ち上がり、

夜の闇へと消えていった。

河童を絶滅から救うのは彼らしかいなかった。


だが――

 

崩れ落ちた洞窟の奥で、

何かが動いていた。


血まみれの良太が、

ゆっくりと瓦礫の下から這い出してきた。


「……っ、は……」


肋骨が数本いっている。

右腕もろくに動かない。

それでも、彼は肩で息をしながら笑った。


「……ふう。

 なんとか、助かったか、まだまだラッキーは続くな」


その声音には、乾いた諦めと、

ほんのわずかな安堵が混ざっていた。


良太は、懐に手を差し入れる。

指先に、冷たい硬質な感触。


取り出したのは、

透明に近いコバルトブルーに淡く光る小さな種子だった。


「……こっちが、本物」


手の中で転がしながら、ぽつりと呟く。


「イチに渡したのは、瘴気に馴染みやすい試作品だ。

 牛鬼を引き寄せる“灯台”にはなるが、

 あれ一つじゃ世界は救えない」


目を閉じると、

遠野の井戸端がよみがえる。


小学生の頃。

水遊びの最中、半分ふざけてイチに“尻子玉”を抜かれかけたこと。

あの時――


尾てい骨の一部だけが、

ひどく現実離れした形で、自分の手の中に残った。


「あのとき、お前が“やりかけて”くれたおかげでさ」

良太は自嘲気味に笑う。

「人間の身体から無理やり引きはがされた尾てい骨が、

 ずっと俺の“サンプル”になった」


尾てい骨。

尻子玉の殻。

その欠片を核にして、

彼は十年をかけて“尻子玉の樹”の種を培養した。


今、手の中にあるコバルトブルーの種子の中心には――

自分が人間だった頃の尾てい骨の欠片が、

静かに沈んでいる。


「人間でも、河童でも、牛鬼でもない……

 中途半端な俺にしか、作れなかったモノだ」


良太は、静かに息を吐いた。


「第二段階は、ここからだ。

 瘴気を集める“偽物の樹”と、

 本物の樹を重ねて――全部まとめて終わらせる」


コバルトブルーの光が、

洞窟の闇の中でかすかに瞬いた。


その目は冷静で、計算高く、

それでいてどこか、自分の行く末を諦めきっているようでもあった。


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