水際の種 ―尻子玉の樹と牛鬼の影―

奈良まさや

第1話

日本に、河童は八百体しかいない。

去年から、三十体減った。


絶滅を避けるために決まったのが、

「月に三つ、人間から尻子玉を抜く」特別任務だった。


高円寺の安い居酒屋で、

ノルマ達成のビールをあおる三人の若い河童たち。

東京・埼玉・神奈川に散って働く、

特殊河童隊・都市潜伏班。


彼らの知らないところで、

すでに“別の誰か”が同じ尻子玉を狙いはじめている。

しかも、その背後にいるのは──

西日本からやってきた、人喰いの怪物・牛鬼だった。



◆◆◆ 第1章 尻子玉ノルマ達成の夜 ◆◆◆


東京・高円寺。

ガード下の細い路地にある、大衆居酒屋「みどり川」。

提灯の淡い光が風に揺れ、アルコールと焼き鳥の匂いが漂っていた。


イチは暖簾をくぐり、奥の座敷に向かった。

すでにジロとエミが座っていて、テーブルの上には生ビールが三つ。


「遅いよ、イチ!」

エミが口を尖らせる。

キャバクラ帰りの化粧のまま、金色のイヤリングが揺れる。


「ごめん。営業先で、奥さんが雑談長くてさ」

イチは座るなりビールを半分ほど飲み干した。


ジロが笑いながら、指で三を示す。

「まあまあ。お前、今月もノルマ達成したんだろ? ほら、祝杯だよ。尻子玉“3つ”、おめでとうさん」


「そっちこそな」

イチが笑い返す。


エミもグラスを上げた。

「はい、二人ともおめでとう。わたしも今月“3つ”いけた。思ったより、尻子玉って場所選ぶよねぇ。キャバクラの控え室なんて最悪だったもん、救急車バンバン来て!」


「控え室でやったの!?」

ジロが吹き出した。


「だって他にスキがなかったんだよ。店外デートの方が楽だって分かった」

エミは肩をすくめる。

「でも、みんな達成したってことで……はい、乾杯!」


三つのグラスが軽くぶつかり、泡が弾けた。


――この夜の飲み会は、のちに振り返れば、平和だった最後の“完全達成記念日”だった。



串カツを頬ばりながら、ジロが言う。

「埼玉ってさ、意外と人間の目が多いんだよな。宅配やってると、家族全員に顔覚えられて、なんか尻子玉抜きづらい」


「お前は覚えられすぎなんだよ」

イチが呆れたように笑う。

「俺は横浜の営業だから、逆に一期一会ばっかで楽。ピンポン押して、笑顔で水の試飲をすすめて……背中向けた瞬間に“スッ”と抜ける」


エミが眉をひそめる。

「あなた、それ言い方が怖いんだけど」


「仕事だから」

イチは淡々としていたが、その仕事が何なのか、人間は誰も知らない。


エミがジロに視線を向ける。

「で、ジロはどうやって抜くの?」


「夜の再配達が狙い目。居留守使ってた人が出てくるときって油断してんの。“サラッ”だよ」


三人はケラケラ笑った。

その笑顔の下で――人間三人分✖️3つの“尻子玉”が、イチの家のウォーターサーバのボトルに眠っている。



ふと、エミが言った。

「ねえ……私たちさ。どうしてこんな仕事してるんだろうね」


イチとジロはお互いの顔を見た。


イチは箸を置き、少し真顔で言う。

「……お前、河童会議のこと、もう忘れたのか?」


店の喧騒の中、エミがなぜか小さく震えて見えた。


ジロが真面目な声で続ける。

「絶滅危惧種。

 日本国内、個体数“800”。

 去年より30減ってるんだぜ?」


イチが頷く。

「このままだと、うちらの種は……絶滅だ。

 だから、上層部は“生き残るための特別任務”を作った。

 それが――」


三人の声が重なる。


「――特殊河童隊・都市潜伏班」


ジロが焼き鳥をつまみながら言った。

「俺らみたいな、ちょっと頭の回る若手が三人だけ選ばれた。

 東京、埼玉、神奈川。あえて散らしたのも、“行方不明者が集中しないように”って理由だろ」


エミは深くため息を吐いた。

「……わかってるよ。でも、私たちがやってることって、結局……」


イチが遮るように言う。

「生きるためだ。

 種を残すためだ。

 尻子玉がないと子孫が増やせない。

 これはどうしようもないだろ」


その瞬間、風が暖簾を揺らした。

まるで何かが外から覗いているようだった。



「まあまあ!」

ジロが急に明るい声を出した。

「暗くなんなよ。今月は3人ともノルマ達成だろ? 上出来じゃん。上からも評価されるって」


エミは微笑んでグラスを揺らす。

「そうだね……こんなふうに飲めるの、しあわせだよ」


イチも頷く。

「来月も、この調子でいこう」


――しかし、

妖怪再編成はすでに異変が始まっていた。



◆◆◆ 第2章 尻子玉の数、合わないんだけど ◆◆◆



“みどり川”での飲み会から三週間後。

イチは横浜のマンションの前で、汗を拭きながらため息をついていた。


今日はノルマの“来月分1つめ”を取りに来たのだが――。


「……ダメだ。留守か。」


営業先の夫婦は共働きで、今日は帰ってこないらしい。

イチは営業スマイルのまま、薄く舌打ちした。


尾てい骨を押さえて“サラッ”と抜くとき、

心臓が止まる。

死因は心筋梗塞。

尾てい骨がないことに気づくのは、司法解剖したときだけ。


それが特殊河童隊の常識だった。


「最近さ……ちょっとやりづらいんだよな」


イチはマンションを離れながら、ふと新聞の見出しを思い浮かべる。


『横浜市内で心筋梗塞による突然死、連続3件』


すべて一般家庭の中年男性。

尻子玉とは関係ない“自然死”に見える――少なくとも、人間には。


(やりすぎると……人間の世界で“パターン”が見えてくる。

 だから分散が必要なんだよ)


溜息をつきながら、イチはスマホを取り出す。

「……ジロ、エミと連絡取るか」


その足で、三人は再び“みどり川”に集まることになる。


***


高円寺「みどり川」。

午後7時。

前回と同じ座敷席。


エミはすでにハイボールを飲みながら、爪をいじっていた。

ジロは配達帰りで、汗がまだ乾いていない。


イチが座るなり、エミが言った。


「ねえ……今月さ、わたし“まだ0”なんだけど」


イチは思わず眉を上げる。

「珍しいな。キャバクラってチャンス多そうなのに」


「そう思うでしょ? でも最近、警察が来たの。

 “心筋梗塞が増えてるから飲み方注意して”って。」


ジロが顔をしかめた。

「東京でもかよ……埼玉もヤバいぞ」


「埼玉も?」

イチが聞き返す。


ジロはビールを飲み干し、声を潜めた。


「三件、“心筋梗塞”で死んでる。

 全部、俺の配達エリアで。」


エミが飲む手を止めた。

「……ジロ、それ抜いたの?」


「違う! 俺じゃねえ!」

ジロは即答した。

「“心筋梗塞”なんて人間にはよくある死因だろ。でも……」


「でも?」

イチが促す。


ジロは声を落とした。


「三件とも、遺族が“おかしい”って言ってんだよ。

 “前日まで元気だった”とか、“体温が妙に低かった”とか」


イチとエミ、二人の顔から笑みが消えた。


イチは慎重に言葉を選ぶ。


「……ジロ。

 お前のエリアで“抜きすぎた”ってことはないよな?」


「だから違うって言ってるだろ!」


ジロの声が響き、周りの客がちらっとこちらを見る。

三人は慌てて声を落とした。


「このままだと……」

エミが呟く。

「三人とも疑われるよ。

 エリアの死体が増えると、身近な人が疑われる。」


イチは腕を組む。

「尾てい骨も一緒に抜くから、司法解剖されたらバレる。

 ……今はまだ、人間は知らない。

 でも、何件も続けば、死体を詳しく調べられる」


「だから言ってんだよ……」

ジロが額を押さえる。

「俺らのノルマ以上に死体が出てるって」


エミが震える声で言う。


「でも……三人とも、今月はまだ1人も抜いてないよね?」


三人は顔を見合わせる。


沈黙。


なら、誰が抜いているのか。


店内の喧騒が遠ざかり、

どこかで氷が落ちる音だけが耳に届いた。


イチが静かに言った。


「……誰か、別の犯人が動いてる。

 それも、俺らの内部かもっと強大な何か」


エミは腕を抱きしめた。

「そんなの……聞いてないよ」


ジロが箸を握り締める。

「もし本当に別の河童が抜いてるなら……俺たちが疑われるのは目に見えてる。

 特に俺なんか、配達で毎日顔合わせてんだぞ」


イチはポケットのスマホに触れた。

震えていたわけではない。

ただ、胸騒ぎがした。


これから先、もっと死体は増える。

俺たちの範囲で。

警察も動き出す。

そして――

“本当の犯人”も。


イチは立ち上がった。


「……もう飲んでる場合じゃない。

 一回、河童村に戻って確認しよう。

 “第三の隊員”が動いてるのかどうか」


エミが不安げに言う。

「もし、上の指示だったらどうするの?」


イチは一瞬だけ、悲しそうに笑った。


「そのときは――

 俺たちが使い捨てにされるってことだ。」


外は小雨が降り始めていた。


しずくが路地の石畳に落ちる音が、

まるで 心臓の鼓動が消えていく音 のように響いていた。




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