直子

 電車が家の最寄り駅に着き、改札から出ると雨が降っていた。傘は持ってきていなかった。

 今日は散々だな、と思いながら早足で歩く。仕事でちょっとしたトラブルが発生し、予定外の仕事への対応に追われた結果、通常業務を終えるのがいつもより遅くなってしまった後の帰り道だった。

 家に近づくにつれ、由佳のことが頭をよぎる。今日はちゃんとごはんを食べただろうか。部屋の前に食事を置いておいても、近ごろは食べてくれないことが多い。内容が気に入らないのかとメニューを色々と工夫してみたりもするのだが、効果は得られていない。ドア越しに食べたいものを訊ねても、返事は返ってこない。

 あの子が私とほとんど口を利いてくれなくなったのはいつからだろう。たまに部屋の外で顔を合わせても、由佳は無言で私の横を通り過ぎていく。声をかけても、ぼうっとした顔で頷くだけだ。

 このままでよいとは、もちろん思っていない。親として、学校には行ってほしいし、せめて挨拶くらいはまともに返してほしい。

 けれど、あの子が現在のような状態になってしまった一因は自分にあるのだと思うと、どうしても強くは言えない。由佳の不登校が始まったころ、私はちょうど元夫との離婚調停の真っ最中で、なかなかまとまらない話し合いや弁護士との打ち合わせ、加えて当時仕事が忙しい時期だったこともあって、物理的にも精神的にも、由佳に寄り添ってやる余裕を充分にもてなかった。

 あのとき、私がもっとあの子のそばにいてやれていたら。あの子の心の声に耳を傾けることができていたら。もしかしたら、今とは違う未来が訪れていたのかもしれない。そう思うと、あの子の現状にあれこれ口出しをする権利がはたして自分にあるのかどうか、自信がもてなくなってくる。そして、私とまともに口をきいてくれない彼女の態度が、その問いへの答えであるように思えるのだ。

 ……いや、そうじゃない。本来それは権利などではなく、むしろ親としての責任、義務であるはずだ。もっともらしい言い訳で誤魔化しながら、私はただ逃げているだけなのだろう。あの子と正面から向き合おうとした結果、はっきりと拒絶されることを恐れて――。

 強まる雨の気配を頭に落ちる水滴の感触で感じながら、朝も通った細道に入る。そこで後ろから声をかけられ、振り向くと藤田さんが立っていた。

「こんばんは。なんだか今日は、よく会いますね」

 藤田さんはそう言って笑い、差していた傘に私を入れてくれた。

「折りたたみなので、ちょっと小さいですけど」

「いえ、……ありがとうございます」

 今朝も一緒に通った道を、朝とは反対方向に並んで歩く。私よりも頭ひとつ分ほど背の高い藤田さんは、私に合わせて傘の位置をかなり下のほうまで下げてくれている。元夫は男にしては背が低いほうだったので、その身長差は私にとって新鮮な感覚だった。

 向かいに住んでいるとはいっても、藤田さんのことを私はほとんど知らない。関わりといえば、今朝のように、たまたま道で会ったときに駅まで一緒に行くくらいだ。数少ない知っていることのひとつは、彼もまた数年前に離婚を経験しているということ。離婚した者同士、仲間意識をもつというようなことは特にないのだけど、彼の落ち着いた佇まいや他人に対して一本線を引いたような関わり方からは、やっぱりこの人も自分と同じ経験をした人なんだなと感じることがある。

「肩、濡れてないですか?」

 傘の位置を気にしながら藤田さんが訊ねる。「ありがとう。大丈夫です」と答えつつ、彼のほうに少しだけ自分の身を寄せた。

 家の近くまで来たところで、道の先に誰か人が立っているのに気がついた。よく見ると、田代たしろさんのようだ。田代さんはうちの二つ隣の家に住んでいる男性で、正確な年齢は知らないが、おそらく六十代くらいだろうと思われる。仕事が休みの平日に外に出ると、近所を散歩している姿をよく見かける。仕事はしていないようで、いつもなんだか不機嫌そうな顔をして歩いている姿はときに不気味に見え、個人的にちょっと苦手にしている人だった。

 田代さんは私たちのほうを向いて立っていた。あいかわらず不機嫌そうな顔をしており、傘を差しているとはいえ雨の中なにもない場所に立ち尽くしている様子はどこか異様だった。俄かに恐怖を感じ始めたところで、「着きましたね」と隣から藤田さんの声が聞こえた。見ると、そこはもう私の家の前だった。

「ありがとうございます。助かりました」

「いえ。こちらこそ、助かりました」

「え?」

「五十嵐さんのおかげで、今日は帰り道が寂しくありませんでした」

 そう言って少し笑うと、「それじゃ、おやすみなさい」と藤田さんは向かいの家へと歩いていく。その背中に「あの」と声をかけた。

「――いえ、その……おやすみなさい」

 おやすみなさいと頭を下げ、去っていく藤田さんを見送る。自宅のほうに向き直り、バッグの中に手を入れる。いつもと同じ場所に入っている鍵が、なかなかうまく取り出せなかった。

 閉じたドアの内側で、ふう、と息を吐く。私はいったい何を言おうとしていたのだろう。いま私が向き合うべき相手は彼じゃないだろうに。

 靴を脱ぎ、廊下に上がる。電気が消えたままの暗い階段に目をやった。

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