呪いの森にて

えのぐ

第1話 湖のほとりにて

森の奥。

足を踏み入れたそこは、ただ静かな場所だった。

鬱蒼と生い茂る木々が陽を遮り、地面には斑らに光が落ちているだけ。

辺りは湿った土の匂いと草木の青臭さに包まれ、枝をかき分けるたびにその香りは強くなる。



歩みを進めるとふと、水の跳ねる音がかすかに聞こえてくる。

立ち止まり耳を澄ませば、水面を打つ小さな音が森の静けさの奥で確かに息づいていた。


——この奥に、人の気配がする。


次第に鮮明になる音と、濃くなる木漏れ日。

心なしか、空気が澄んでいく感覚さえ覚える。


目を凝らすと見えてきたのは、きらきらと揺れる湖面。

そして湖の中で水と戯れる、一人の少女の姿だった。



それはあまりにも幻想的で。

水と光を纏った少女は、言葉では言い表せられないほど美しく、触れれば消えてしまいそうな儚さで、思わず、息を呑んだ。


だから、足元への注意が散漫になっていた。

小枝の折れる乾いた音が響く。

少女の動きが止まり、ゆっくりとこちらを振り向いた。


「……だれ?」


柔らかな声が鳴り、やがて少女は微笑んだ。


——心臓が、うるさい。



「人が来るなんて、めずらしい。」


警戒されているわけではないらしい。

ほんの一瞬言葉が詰まるも、彼女の問いかけに応えるのが礼儀だろう。


「……ッ、失礼。

あまりの美しさに、湖の精かと見惚れてしまった。

私はアレン=ヴァルデンハイム。

騎士として、この国に仕えております。

以後、お見知りおきを。」


「そう。

そんな甲冑、脱げばいいのに。

水、冷たくて気持ちいいですよ。」


少女は両手に水を掬い、きらりと光る目でこちらを捉えた。

何をする気かは容易に想像できる。

足早に少女の元へ向かい、湖畔に片膝をついた。


彼女はそんな行動が予想外だったのか、ほんの少し眉を上げた。


「あいにく、水を拭えるものは持ち合わせておりません。

その手は下ろしていただけると嬉しいのですが。」


兜の面頬を押し上げ、視線を合わせた。


——これがいけなかった。


その瞬間、冷たい飛沫が目元を覆った。

やっと視界が晴れた頃には、イタズラっぽく笑う少女が私の目を覗き込んでいた。


「隙あり、です。」


恐らく兜を被っていなければ、鼻先が触れてしまう。

そんな距離に、彼女の無邪気な顔がある。



ガシャン、と耳をつんざく金属音が轟き、気付けば尻餅をついていた。


——たかが小娘に、翻弄されている。

頬が、熱い。



「……もう少し、危機感というものを持った方が良い。」


すると少女は不思議そうに首を傾げた。


「だって騎士様、女の子でしょう?

街の女の子たちはこんな風に話してたもの。」



あまりにもあっけらかんと言うものだから、聞き違えたのかと己の耳を疑った。

今までこの格好で、性別を言い当てられたことなどなかったのに。

……それも、『女の子』とは。


「なぜ、私が女だと?」


「だってわたし、今何も着てないもの。

司教様だったら、小言を言ってきたもの。」


「……ふ、なるほど。

お名前を、伺っても?」


「リリエル。」


それだけ言うと、リリエルは湖から上がり、木の枝にかけられた布で体を覆った。

そばに生えた木の実を口に含みながら。

本当に、自由な子だ。



「リリエル。

明日も会いにきて、良いでしょうか。」


「来てくれたら、うれしい。」



そう言って、お互いに微笑んだ。

——私とリリエルの物語は、ここから始まった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る