第8話

 南断層帯のざらついた空気が、ふっと軽くなった気がした。


 ミライさんの後ろをついて歩いているうちに、気づけばボクとロコットは、さっきまでの断層のきしみや咆哮から遠ざかっていた。

 さっきまで頭上をうろついていたモンスターの影もなく、足元の岩肌は落ち着いた灰色に戻っている。


「移動中に襲われないのは、ありがたいですね」


「んー、まあね。南断層帯のモンスターは気まぐれだから、気づかれる前に抜けちゃうのが一番だよ」


 ミライさんは肩越しにそう言うと、スマホ型デバイスを軽く持ち上げる。

 指先が画面をなぞるたびに、目の前の景色が少しずつ薄くなっていく。


「じゃあ、ハヤトさん。場所を変えて話そ。ここだと、また変なのが降ってきそうだし」


「変なのって表現、軽すぎませんか」


「実害がなければ、だいたい“変なの”でまとめてるから大丈夫」


 なにが大丈夫なのかはよくわからない。

 ロコットが小さく「ワフ」と鳴いた。


 視界が一度真っ白になり、足の裏から伝わる感触が岩ではなく、柔らかい何かに変わった。


────────


「……これは」


 腰が、沈んだ。


 見下ろすと、深く沈み込むフカフカのソファ。

 体重を預けると、ゆっくりと押し返してくる弾力。

 目の前には分厚い一枚板のテーブルが置かれ、手前側の角には小さな花瓶まで飾られている。


 部屋の壁一面には大型のモニター。

 天井の照明は直接目に入らないよう、柔らかい光だけを落としていた。


「ここは……応接室ですか」


「うん。ワタシのカスタムチャットルーム。ナンバー3の応接室バージョンだよ」


「ナンバーがいくつあるんですか」


「十まではあるかな。気分で使い分けてるの」


 サラッと言われたが、十個の部屋を趣味で作る発想がまずよくわからない。

 ロコットはソファの端に前足を乗せ、そのまま半分沈んでいった。

 耳だけが上に残っていて、なんだか不思議な生き物みたいに見える。


「ロコット、沈みすぎだぞ」


「ワフ」


「気に入ってもらえたなら何よりだよ」


 ミライさんは向かい側のソファに座り、足を組んだ。

 その姿勢だけで、この部屋の主人だということがわかる。


「じゃあ、まずはワタシのほうからね」


 そう言って、ミライさんはスマホを操作した。

 目の前の大型モニターが起動し、システム音が軽く鳴る。

 画面にはステータス画面らしきウィンドウがいくつも並び、その中央にひときわ大きなスキル欄が表示された。


「これが、今のワタシのメインスキル」


 二本の剣のアイコンの上に、文字が浮かび上がる。


【二刀流の神・阿修羅】


 阿修羅の文字は、深い青色で脈打つように光っていた。

 その下には小さな文字が続く。


【神格化済】

【オクトパスブルー強化済】


「二刀流スキルが神格化して、こうなったんだよね」


「……有名なんですか」


「うん。ワタシが隠しても、どうせ動画勢とか検証勢が騒ぎ出すからさ。だったら最初から“こういうものです”って出したほうが、楽なんだよ」


 あっけらかんと言いながらも、その声の奥には、どこか開き直りに似たものが混じっていた。


「でも、強いですよね。見ただけでも、なんというか……」


「強いよ。火力だけで言えば、今のワタシの阿修羅に勝てる物理スキルは、そうそうないと思う」


 ミライさんは、そこで一度言葉を切った。

 ほんの少しだけ視線を落とす。


「ただね」


 その一言に、空気が少しだけ変わる。


「燃費が、悪いんだよね」


「燃費」


「フルで阿修羅を回すと、エナジーチャージは一分と持たない。連戦なんて到底無理。レイド級のボス戦だと、ワタシが火力を出し続けるためだけに、パーティメンバーの財布が泣くレベル」


 モニターには補助スキルやパッシブスキルの欄も映っていたが、そのどれもが阿修羅の消費を完全には支えられていないようだった。


「ワタシ、一応セブンスアローの物理枠でランキング1位だけどね。強いだけじゃダメなんだよ。安定して“出し続けられる強さ”じゃないと」


「……維持するほうが大変なんですね」


「うん。落ちたくないっていうよりさ、“ここまで来た責任かな”って思うときがあるんだよね」


 ミライさんの横顔は、ゲームのアバターなのに、妙に現実感があった。

 若い顔立ちと落ち着いた目つきが、少しちぐはぐで、その差が余計に胸に残る。


(トップって、孤独なんだな)


 思わず、そんな言葉が浮かんだ。


「まあ、そんなわけで。オクトパスブルーを一個使って強化したものの、燃費問題はまだ解決してない。強くなった分だけ、消費も跳ね上がったからね」


「なるほど……」


「そこで、さっきから気になってる人が、ひとり」


 ミライさんの視線が、テーブル越しにボクをとらえる。

 冗談めかした口調なのに、その目にはさっきの断層帯と同じ鋭さがあった。


「ハヤトさん」


「はい」


「ペットの神格化。何が光って、どんな“選択肢”を引いたのか。聞いてもいい?」


 やっぱり、そこに来るか。


 心臓がひとつ、余計に跳ねた。

 ロコットがボクの膝に顎を乗せてくる。

 丸い瞳が、じっとこちらを見ている。


(ここで全部話すわけにはいかない)


 頭のどこかでそう判断しながらも、言葉がスムーズには出てこない。

 チャンスと同時に、危険も大きすぎる。

 トロッコの神格化と、その選択肢。

 オクトパスブルーの取得。

 そして今の採掘スタイル。


 どれかひとつでも間違えれば、ロコットが“ただのペット”ではいられなくなるかもしれない。


 ボクは息を吸い、別の言葉を探した。


「……それより、ひとつご相談があるんですが」


「相談」


「はい。エナジーチャージのことなんですが」


 ミライさんの眉が、わずかに動いた。

 一瞬だけ押し黙ったあと、ふっと肩の力を抜いて笑う。


「そっか。やっぱり簡単には教えてくれないよね。神格化の中身は、情報そのものが武器だし」


「すみません」


「謝る必要ないよ。ワタシだって、本当にヤバい部分は誰にも言わないし。聞かれた側が話題を変えるのは、ここではよくあること」


 軽くそう言ってくれたことで、胸の中の緊張が少しほどけた。


「で、エナジーチャージ。相談があるって言うからにはいくらでも作れるってことでいいかしら?」


「はい。いくらでもは言いすぎですが、MP消費を気にしないで作れる環境は整えました」


「普通は、そこにいちばん悩まされるんだけどね。オクトパスブルーで強化したのは鍛冶スキルのMP消費軽減を選択したってことね」


「はい。自分としては昔のゲームのことを思い出して、MP消費軽減100%のセットを作ることは当たり前のことだと思って選択しました。それがまさかこのゲームでは自分だけだと思っていなかったです」


 ミライさんが、テーブルの上に肘をつき、身を乗り出す。


「面白い人ね。で、エナジーチャージについて詳しく聞かせて。どのランクまで作れるの」


「一般的なエナジーチャージなら、クズ鉱石で十分です。ヴァイオレットミスリルを素材にすれば高級版を作ることも……」


「ヴァイオレットミスリルの……高級エナジーチャージ」


 さっきまでの落ち着いた口調が、そこで少しだけ崩れた。

 ミライさんの声に、露骨な食いつきが混じる。


「それ、本当に」


「素材さえあれば、いけると思います。MP消費を気にせずに回せる環境なので」


「ちょっと待って。ワタシが今普段使ってる中級エナジーチャージ、一本あたりの市場価格知ってる」


「だいたい、相場は見ました。家のローンがどうこうって、誰かが露骨な例えをしていました」


「ああ、それワタシだね。多分どこかで喋ってる」


 ミライさんが苦笑する。

 その笑いには、さっきまでの強がりと本音が混じっていた。


「ワタシ、一日のレイドとデイリー合わせると、中級エナジーチャージを二百本くらい使うの」


「に、二百」


「軽い日でそれくらい。重い週だともっと。阿修羅の火力は、そういう“支え”の上に立ってる」


 トップランカーの維持費は、想像以上にえげつなかった。


「もし、ハヤトさんが安定供給できるなら、それだけでワタシにとっては“命綱”なんだよね」


「そうなんですか」


「そうなんだよ。だから、さっきの一言で、ワタシの中の世界地図だいぶ変わったからね」


 ミライさんは、テーブルを指先でトントンと叩いた。

 リズムを刻むようなその音が、ボクの鼓動と奇妙に合っていく。


「ただ、問題がひとつ」


「問題」


「素材。クズ鉱石版ならまだしも、ヴァイオレットミスリルを一人で採取は厳しいでしょ」


「はい。さすがに、あれを自力で集め続けるのはきついです。南断層帯に通えば取れなくはありませんが、ボクはあくまでスローライフ志望なので」


「じゃあ、こうしよっか」


「こう」


「ヴァイオレットミスリルは、ワタシが集める。南断層帯も、それ以外の場所も、阿修羅で駆け回れば、必要数くらいはなんとかなる」


「そんな、トップランカーが素材集めなんて」


「トップだからこそ、早く集められるんだよ。強みは使わないと損でしょ」


 さらりとした言い方が、妙に説得力を持って胸に入ってくる。


「その代わり、ハヤトさんはエナジーチャージを作る。クズ鉱石版も、高級版も。配分は相談するとして……まずはワタシに優先的に卸してくれるなら、悪いようにはしない」


「悪いようにはしない、ですか」


「うん。トップランカーの人脈、情報、パーティ招待枠、安全な狩場の案内。欲しいものがあれば、相談くらいには乗るよ。ワタシと知り合いになって損することって、そうそうないと思うけど」


 それは、押しつけがましい提案ではなく、ひとつの選択肢として静かに差し出されたものだった。


「ハヤトさんは、スローライフ派なんでしょ。戦うのは好きじゃないけど、ロコットと一緒に、この世界を歩きたい人」


「まあ……そんな感じです」


「だったら、戦う役はワタシがやる。支える役をハヤトさんがやる。そういう関係、悪くないと思わない」


 ロコットが、ボクの手の甲を舐めた。

 ざらりとした感触が、妙に現実的だった。


(ロコットが狙われるより、ずっといい)


 神格化の中身を隠すことと、誰かと手を組むことは、矛盾しない。

 むしろ今のままひとりで工夫しているほうが、いつかどこかで足元をすくわれるかもしれない。


「……ボクみたいな初心者でも、役に立てるでしょうか」


「今の時点で、かなり立ってるよ。ワタシが本気で欲しいものを作れる人に、“初心者”なんてラベルつかないから」


 言い切られると、照れくさい。

 四十五歳になって、ゲームの中で褒められて、こんなふうに戸惑うとは思わなかった。


「わかりました。素材の手配をミライさんがしてくれるなら、ボクはエナジーチャージの生産に集中します」


「オッケー。じゃあ、今この瞬間からワタシたちは“利害一致組”だね」


「ずいぶんストレートな名前ですね」


「わかりやすさ重視だから」


 ミライさんは、そう言って立ち上がる。

 その動きには、さっきまでの重さよりも、少しだけ軽さが戻っていた。


「じゃあ、ハヤトさん。最初の素材、取ってくるね」


「今から行くんですか」


「阿修羅は二刀流じゃない。四刀流なの。攻撃力も4倍。素材集めは、強い人の特権だよ」


 軽く手を振り、チャットルームの扉へ向かうミライさん。

 扉の前で、ふと振り返った。


「ハヤトさんの神格化。いつか教えてくれる日が来るといいな」


「……そのうち、話せるようになったら」


「無理にとは言わないよ。時間をかけて信頼してもらえるように、ワタシも頑張るから」


 そう言って、ミライさんの姿は扉の向こう側に消えた。

 応接室には、ボクとロコットだけが残される。


 柔らかな照明が、テーブルの木目を静かに照らしている。

 さっきまで賑やかだった空間が、急に広く感じられた。


「ロコット」


 名前を呼ぶと、ロコットがソファからずるりと滑り落ち、ボクの足元に座り直した。

 尻尾が、ゆっくりと左右に振れる。


(本当に強い人って、こういう人なんだな)


 自分の強さだけで押し通すんじゃなくて、誰かの弱さも、自分の弱さも、ちゃんと見ている人。

 そういう人に“頼られて”いることが、少しだけ誇らしかった。


「ボクたちも、頑張るか」


「ワフ」


 ロコットの短い返事が、応接室の静けさに優しく混じった。

 新しい関係の始まりを告げる、小さな合図みたいに。

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