自分クインテット

沢田和早

老人と幼児


 ――いつまでこんな生活を続けるつもりなのだ。

 ――今ならまだ間に合います。決断してください。

「うるさいなあ」


 そんな自分の寝言で目が覚めた。どんな夢を見ていたのかまるで覚えていないがB級映画並みの悪夢だったことだけは間違いない。乱れた心を落ち着かせようと布団の中で深呼吸し、ついでに股間に手を伸ばす。空虚だ。


「あれからもう7年か」


 意中の企業から内定をもらい、卒論も無事提出し、あとは卒業式を待つだけとなったオレに父が話を持ち掛けてきた。卒業旅行も兼ねて一緒に山歩きをしないかというのだ。

 両親はどちらもワンゲル部出身でトレッキングが大好きだった。基本的にインドア派なオレはそんな両親の趣味に付き合うことはなかったのだが、就職して家を出れば一緒に過ごす時間はほとんどなくなる。一人っ子のオレがいなくなれば両親も寂しくなるだろう。ここは親孝行と思って付き合ってやるかと北海道へ行ったのが運の尽きだった。

 ヒグマに襲われたのだ。母は致命的な一撃を受けてその日のうちに亡くなり、連れ去られた父は翌日惨たらしい姿で発見された。オレは軽傷で済んだがキンタマを両方とも食われてしまった。

 タマ無しになったオレは人生に絶望した。卒業はしたが就職はしなかった。贅沢さえしなければ両親の死亡保険金と遺産だけで十分生きていけたからだ。そうしてあの日から7年間、ほとんど引きこもりのような状態でタマ無しの日々を過ごしている。


「今日は買い出しの日か」


 引きこもりとはいっても食料を補充しなければ生きていけない。最近は米が高いので麺類ばかり食っている。なんとかしてほしいものだと思いながら帰り道を急いでいるとしわがれた声が聞こえた。


「おまえさん、いつまでそんな生活を続けるつもりなのかね」


 見知らぬ老人だ。1歳くらいの男の子を連れている。声を掛けたのはオレではなく別人だろうと思い、無視して行こうとしたら服の裾をつかまれた。


「待ちなされ。わしはおまえさんに言っておる」

「オレに? あなた誰ですか」

「わしはおまえさんじゃ」

「はあ?」


 かなりボケているようだ。関わらないほうがいい。服の裾を引っ張って老人の手を離したが諦めずにまたつかんでくる。


「どこへ行かれる。話を聞いておくれ。わしはおまえさんなのじゃぞ」

「くだらない冗談はやめてください」

「信じぬのか。ならばおまえさんの秘密を話してやろう」


 それから老人はオレが幼稚園でお漏らししたことや、授業中に先生をお母さんと呼んだことや、今もアオハルなポエムを書いていることなど、過去の失敗やオレしか知らない隠し事を次々に話しはじめた。のみならずズボンを下げて半ケツになると右尻にあるホクロまで見せてきた。オレの尻にあるホクロと同じだ。さらにパンツを下げようとしたので慌てて止めた。きっと股間を見せるつもりなのだろう。そこにタマがあるかどうか、少し興味はあったが。


「待て。そこまでする必要はない」

「ようやく信じてくれたか。では家に帰るとしよう」


 老人は幼児を置いてよろよろと歩き出した。自宅の方角だ。これほどオレの個人情報に精通しているということは、ひょっとすると遠い親戚なのかもしれない。それに置いていかれた幼児が「ママ、ママ」と言いながらぐずり始めている。大泣きされたら厄介だ。ひとまず家に帰り詳しい話はそこで聞こう。オレはよちよち歩きの幼児を背負うとよろよろ歩きの老人について行った。


「あら、思ったより早く帰ってきたのね」


 買い物袋をぶらさげた女性が玄関の前に立っていた。近所に住む幼馴染だ。


「どうして来たんだ。今日は土曜日じゃないだろう」

「電話で頼まれたのよ、あなたを名乗るお年寄りに。小さい子がいるから紙おむつを持ってきてくれって」


 オレは老人を見た。不敵な笑みを浮かべている。


「そう、わしが呼んだのじゃ。おまえさんにこの子の面倒は見られぬであろう。中に入らせてもらうぞ」


 驚いたことに老人は自宅の鍵を持っていた。当り前のように玄関を開けて靴を脱いでいる。


「呼ばれたからって平日の昼間によく来られたな。仕事はどうした」

「何言ってるの。今日から三連休じゃない。たまにはカレンダーを見なさいよ。ところであの人何者なの。親戚の人?」

「知らないよ。オレも今日初めて会ったんだ」

「ママ、ママ」


 背中から下ろした幼児が彼女に懐きはじめた。オレたちも家の中へ入り台所へ向かう。買い物袋から食材を出していると彼女が口を挟んできた。


「インスタントや総菜ばっかり。野菜が全然足りないぞ」

「はいはい、わかってるよ」


 耳にタコができるくらい聞かされているので軽く受け流す。彼女とは幼稚園から高校までずっと同じ。最初はただの同級生に過ぎなかったが、友情は次第に恋愛感情に変わり、大学生の頃には将来を誓い合う仲になった。

 彼女は子供が大好きだった。大学で保育士資格と幼稚園教諭免許を取得し今は私立の幼稚園で働いている。「子供はたくさん欲しいなあ」それが彼女の口癖だった。オレも子供たちに囲まれて彼女と暮らす自分をよく想像したものだ。

 そんなオレたちの夢は熊にキンタマを食われたことで打ち砕かれた。タマ無しのオレは彼女の夢を叶えてやれない。別れを切り出したのはオレのほうだった。子供なんかなくてもいいと彼女は言ってくれたが、それが本心でないことはわかっていた。


「オレのことは忘れてキンタマのある男と一緒になってくれ」

「男に必要なのはキンタマじゃない、肝っ玉だよ。あたしはあなたと一緒にいたいの」


 毎日通ってきてくれる彼女の同情は嬉しかったが心苦しくもあった。そこで家に来るのは週末だけにしてくれと頼んだ。そんな関係がもう7年も続いている。


「そろそろお昼だね。あたしが作ってあげる」


 彼女の手料理が食卓に並ぶ。冷蔵庫の残り物を使った具沢山のうどんだ。


「熱いからふーふーしてあげるね」


 幼児の扱いは手慣れたものだ。横に座って上手にうどんを食べさせている。まるで本当の親子のようだ。もし彼女と一緒になって家庭を持っていたらこんな光景が当たり前になっていたのだろう。だがそれはもう見果てぬ夢になってしまった。


「子は持てずとも妻は持てる」老人は箸を置くとオレを見つめた。「子が授からない夫婦などこの世にごまんとおる。タマ無しを言い訳にしてはいかんよ。所帯を持ちなされ。彼女もまたそれを望んでおる」

「余計なお世話だ」思わず声が大きくなった。「みすみす不幸にしてしまうとわかっていて一緒になれるわけないだろう」

「一緒にならないほうが不幸だと何故わからぬ」

「これはオレたちの問題だ。他人のあんたには関係ない」

「他人ではない。わしはおまえさんなのだから」

「どうしてオレがあんたなんだ!」

「はい、二人とも止め! 小さい子の前で言い争いはご法度です」


 彼女に冷や水を浴びせられオレの過熱は一瞬で収まった。食べ終わった食器を流しへ下げに行くと老人が立ち上がった。


「少し休ませてもらおうかの」


 客間へよろよろと歩いていく。家の間取りも完全に把握しているようだ。


「おねむですか。おじいさんと一緒にねんねしましょうね」


 幼児も船を漕ぎ始めた。彼女が客間へ連れていき一時も経たずに戻ってきた。


「ねえ、本当に初めて会った人たちなの。向こうはあなたについて随分詳しいみたいだけど」

「小さい頃に会っているのかもな。だけど全然記憶にないんだ。爺さんはかなりボケているみたいだし、ひょっとすると孫かひ孫を連れて家族に無断で出てきたのかもしれない。捜索願が出ている可能性もあるし、目が覚めたら警察に連れていくつもりだ」

「でもあの男の子、あなたにそっくりね」

「そうかな。自分ではわからないけど」

「そうよ。ひょっとしてあなたの隠し子なんじゃ、あっ……」


 彼女が慌てて口を押えた。それはよくある冗談、だがタマ無しのオレにとっては胸をえぐるような一言だ。


「ごめんなさい。軽率だったわ」

「いいよ、悪気がないのはわかっているから」

「明日は土曜日でしょう。いつものように明日も来るね」

「いや、今日来てくれたんだから明日は来なくていい」

「……そう。紙おむつ、ここに置いていくね」


 寂しそうにつぶやくと彼女は帰っていった。1人になった居間がいつもより広く感じられた。











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