第8話 灯火

 月曜の朝。

 智絵は、まだ街が眠りの名残を引きずる時間に、職場のドアを押した。事務所の空気はわずかな湿り気を含み、紙の匂いが静かに漂っている。コピー機の起動音だけが静寂を僅かに揺らしていた。


 デスクに腰を下ろし、ファイルを広げる。赤ペンを走らせる音が、静かな空間に小さく響く。そのとき、背後でドアが開く音がした。


「おはよう、都筑さん」


 佐伯がジャケットを肩に掛け直しながら、挨拶をする。

「ちょっとお願いがあるんだけど……」


 佐伯は少し照れたように笑い、声を落ち着けて続けた。

「この薬の説明資料、時間あるときでいいから見てもらえない?専門的なところ、私じゃ判断つかなくて」


 智絵は顔を上げ、一瞬胸の奥で冷えていたものが解け、微かに熱くなるのを感じた。

(私に……薬剤師としての知識を、頼ってくれている?)


「もちろん。見てみます」


 思ったより自然な声が出たことに、智絵自身が驚いた。


 資料には、薬の使い方や副作用の注意点が簡潔に並んでいる。だが、いくつかの表現は曖昧で、誤解を招きかねない。

(こういうとき、ちゃんと伝えることが大事なんだ。私の知識で、誤解を防げる)


智絵は赤ペンを取り、丁寧に修正を加えていった。曖昧な表現を明確にし、専門用語をわかりやすい言葉に置き換える。ペン先が紙を滑るたび、胸の奥に小さな自信が芽生えていく。ふと、視線を感じて顔を上げる。誰もいない。ただ、胸の奥で、かつて声を出すことを恐れていた自分が、再び口を閉ざそうとする気配を感じた。

(もう、監視はいらない。私の言葉は、私が選ぶ)


 智絵は静かに息を吐き、ペン先を走らせた。佐伯に資料を渡したとき、彼の「ありがとう、助かったよ」という言葉は、智絵の心の小さな勇気を、確かに肯定していた。


 その夜。

 智絵は、部屋の灯りを落とし、静かに鏡の前に立った。制服のブラウスの胸元に視線を落とす。布地は張りつめ、ボタンの隙間から影が覗いている。

(私は、ずっとこの身体を隠してきた。見られることが怖くて、縮こまってきた)


 鏡の中の自分は、長い間押し殺してきた輪郭を、無言でさらしていた。学生時代、視線を浴びるたびに心が凍った記憶がよみがえる。「目立つね」「派手だね」――そんな言葉が、刃のように胸を刺した。だから、隠した。縮めた。存在を小さくしてきた。


 でも、冴島先生は違った。彼の視線は、いつも“運転”を見ていた。努力を、判断を、変化を――それを見てくれていた。そのことが、どれほど嬉しかったか。けれど、時折、不安になる。

(先生は、私の“運転”だけしか、私の努力の証明としてしか、見てくれていないのかもしれない)


 それ以外の私――この身体、この過去、この願い――には、まだ触れていない。もっと見てほしい。もっと知ってほしい。


 その背反する思いが、胸の奥で静かに疼いていた。それは、もはや単なる憧れや尊敬という範疇を超えた、個人的な思慕の衝動だった。


 スマートフォンを手に取る。LINEの画面を開き、指先が宙で止まった。指導の時間でもない。用件もない。それでも、どうしても伝えたいことがある。この衝動のままに、彼と向き合わなければ、また元の殻に戻ってしまう気がした。少しだけ迷ってから、文字を打ち始める。


都築智絵:先生、こんばんは。突然すみません。もしよろしければ、指導とは関係のないことで、一度お時間をいただけませんか。直接、お話ししたいことがあります。


 送信ボタンを押した指先が、わずかに震えていた。けれどその震えは、恐怖ではなく、光の中へ踏み出すための合図だった。指先が画面を離れたあと、静かな部屋に心臓の鼓動だけが響いていた。

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