第3話 勇邁
佐久間から隆志のもとへ修理完了の連絡があったのは、それから一週間後。隆志はさっそく交換したLINEにより智絵に連絡を入れた。
冴島隆二:ご無沙汰しております。修理が完了したようです。明日の夕方、佐久間自動車の方にお越し願えますか。なお、費用は見積もり通りだそうです。不都合があれば連絡ください。
用件のみ。隆志らしい、簡素で、無駄のない文面だった。
智絵のスマートフォンが震えた。休憩室で画面を確認すると、そこには「冴島先生」の名前があった。鼓動が一段高まる。会えることが嬉しい。でも、怖い。二つの感情が胸の奥でせめぎ合っていた。しかし、車は取りに行かなくてはならない。今は、それ以上のことを考える余裕はなかった。
都築智絵:ご連絡、ありがとうございます。承知しました。明日の夕方、佐久間自動車へ行きます。
それだけの返信を打つのが、精一杯だった。
その夜、智絵は布団の中で何度もスマートフォンを見返した。眠れなかった。明け方、ようやく微睡んだ頃には、「恥ずかしい」「見られたくない」という感情よりも、「もっと話したい」という思いが、わずかに勝っていた。憧れ続けた知の世界へ、一歩でも近づきたいという、強い渇望がコンプレックスの重石をわずかに押し上げ始めたのだ。
夕方、佐久間自動車に着くと、隆志はすでに待っていた。アウディのキャップをかぶり、愛車TTRSの傍らに立っている。夕陽に照らされたその姿は、まるで一幅の絵画のようだ。
「すみません。今回はご迷惑をおかけして」
智絵は無意識に、身体を小さくする。
「いえいえ。講義だけとは言え、都筑さんは教え子ですからね。佐久間さんから説明してもらってもいいのですが、私がもう少し易しく説明しますよ」
隆志は、車の損傷と修理内容を、専門用語を避けつつ、理路整然と丁寧に説明してくれた。メカには弱い智絵だったが、彼の的確な言葉と、彼女自身の持つ高い理解力によって、完全ではないにせよ、状況を把握することができた。
(やっぱり、先生の説明はわかりやすい。ならば……)
代金を支払い終えた智絵は、意を決して彼に向き直った。
「本当にありがとうございました。助かりました」
「いえいえ。修理代は痛いでしょうが、都筑さんが無事で良かったです。それでは、失礼」
隆志がTTRSに乗り込もうとした瞬間、智絵は自分自身を鼓舞した。
(智絵、がんばれ!)
「あの、先生」
「うん?」
隆志は穏やかに振り返った。
「その……私、MT車に憧れていて。先生の運転が、あまりにも素晴らしくて」
「え、そうだったかい?ありがとう」
「で……どうしたら、そんなにうまく運転できるのか、知りたくて」
隆志は少し難しい顔をした。その表情に、智絵は全身の血の気が引くのを感じた。
「う〜ん。運転に関しては、研究のようにうまく説明できないですね。ほとんど感覚で運転しているから。第一、私の運転がうまいのかもわからないしね」
彼の言葉は、彼女のかき集めた勇気を打ち砕くには十分だった。
「そうなんですね……すみません。ありがとうございました」
それが限界だった。智絵は、逃げるように佐久間自動車を後にした。背中に残るのは、言えなかった言葉と、それでも少しだけ近づけたような、微かな高揚だった。
代車のアルトから、自分のハスラーに乗り換えても、智絵の鼓動は鳴り止まなかった。せっかく勇気を出したのに、肝心なことが言えなかった。その情けなさが、胸の奥でじわじわと広がっていく。
先生はきっと、私の知性ではなく、またしても不自然な体の動きや、情けない話し方ばかりを見ていた。私は結局、先生の前ではいつだって無力で、会話さえできない存在だ。このままでは、あの日の「頭の良い方だ」という言葉さえ、空虚に響いてしまう。
先生はきっと思ったに違いない。
「頭は良いが、やはり運転も会話もできない、どうしようもない教え子」だと。
自宅アパートに帰った智絵は、夕食も喉を通らなかった。だが、隆志のあの理路整然とした説明が、脳裏に焼き付いて離れない。冷静で、的確で、どこか優しかった。
(もう一度、チャンスが欲しい。先生に、ちゃんと運転を教わりたい)
直接顔を見て話すのは、まだ怖い。でも、LINEなら——一文一文、時間をかけて、精一杯の勇気を絞り出せる。
智絵はスマートフォンを手に取り、隆志のアカウントを開いた。
何度も打っては消し、言葉を探した。“お願い”という言葉が重すぎないか。“お礼”という言葉が下心に聞こえないか。彼女は、言葉の重さに怯えながら、少しずつ前へ進んだ。そして、数十分かけて、一通のメッセージを送った。
都筑智絵:冴島先生、本日は本当にありがとうございました。修理の説明、よくわかりました。実は、車のお話の続きなのですが、私の運転が下手なのは、本当に深刻な問題なんです。いつも周りに迷惑をかけていないか、気になって仕方ありません。先生の、あの理路整然とした説明を、運転でも教えていただけないでしょうか? 先生の冷静な分析力があれば、私のどこがダメなのか、わかる気がします。もちろん、お忙しいことは承知しております。 お礼はきちんと考えますので、お願いできないでしょうか。
メッセージを送った後、智絵は窓を開けた。夜の風がカーテンを揺らす。街の音が遠くに聞こえる。彼女は、ほんの少しだけ、世界と繋がった気がした。
メッセージはすぐに「既読」になった。心臓が破裂しそうだった。そして数分後、返信が届いた。
冴島隆志:都筑さん。承知しました。あなたがそこまで運転について真剣に考えているなら、私も力になりましょう。あなたは頭の良い女性だ。私のアドバイスがどこまで役に立つかわかりませんが、何らかの突破口が見つかるかもしれません。あなたのハスラーに私が同乗して、アドバイスをするという形でいいですか?でも、本当にこんなおじさんがあなたの車に乗っていいのですか?なお、お礼は不要です。教育者として、優秀な教え子の問題を解決するのは私の責務です。改めて日時を調整しましょう。それにしても、MT車に憧れる女性は最近珍しいですね。ちょっと嬉しいです。
智絵はメッセージを読み終え、スマートフォンを強く握りしめた。恐怖はあった。だが、それを上回る歓喜があった。そして、クスリと笑った。彼が自分のことを「こんなおじさん」と言ったのが、なぜか可笑しかったのだ。
隆志への距離が、ほんの少しだけ縮まった気がした。
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