第4話 鹿屋
帝都が大規模な空襲に晒され、街は灰と瓦礫に埋もれた。
その爪痕もまだ生々しい3月の末、嘉三郎たちに鹿屋航空基地への異動命令が下った。
即日の命令。
背嚢にあれもこれもと詰め込むや否や、追い立てられるように土浦駅へと向かった。
「おお、貴婦人がお出迎えか」
ホームに停車していたSLを見て、田崎が嬉しそうに声を上げた。
茶色の客車を従者のように引き連れたC57。
その優美な姿に貴婦人の愛称を与えた人の感性は確かに素晴らしい。
田崎じゃなくても感嘆したに違いない。
「いいから乗れ」
だが田崎を小突いた剣にはそうした感慨はまるで無いらしい。
客車の中は行商人や荷物を抱えた人々でごった返していた。
それでも七つ釦の嘉三郎たちを見た乗客は道をあけ、席をあけてくれた。
老婆と子供までもが譲ろうとするので「これも訓練です」と剣が固辞し、嘉三郎たちは上野に停車するまでは立って過ごした。
とても直視出来る様ではなく、早く出発して欲しいと念じて嘉三郎は下を向いてしまった。
親類縁者を探すためか、大きな荷物を抱えた人達が上野で降りて行った。
蒸気を吐き出す音と、汽笛に続いて車輪が動き出す鈍い金属音と振動。
そこに嘉三郎の早鐘のような心音が重なった。
あの日想像した地獄からようやく逃げ出せた気がした。
帝都を抜けると車窓は一気に開けていった。
遥か水平線の彼方を一望したかと思えば菜の花の咲く丘、雪解け水の混じる川面のきらめき。
誠之介は子供のように窓に額を押し当てて外を見ていた。
富士山を見た時は誠之介だけじゃなく皆ではしゃいだ。
あの剣でさえ満面の笑みだった。
誠之介が窓を開けた。
関東よりも季節が早い。
少し暖かい空気が草花の爽やかな匂いを車内に運んだ。
「俺は親が居ないから、井戸と親戚の家と尋常小学校の道しか知らんかった」
誠之介の言葉に皆が黙った。
田崎にも剣にも嘉三郎にも帰る家と親がいた。
「でも予科練さ入ってメシが食えて服も下着も貰えて、今は旅まで出来てる。軍隊万歳じゃ、大日本帝国万歳じゃ」
誠之介は本当に両腕を高くあげて万歳をした。
嘉三郎たちも釣られて万歳をしてまた皆で笑った。
「おっ、鳥が飛んどる。キレイじゃぁ。なんて鳥じゃろな」
誠之介がまた外を見てはしゃぐ。
「あれはオオルリだな」
田崎が得意気に言う。
「田崎くんは物知りだなぁ」
誠之介は感心しきりだ。
嘉三郎はそんな光景にふと笑みがこぼれた。
澄み渡る青空を鮮やかな瑠璃色がひとひら舞う。
空はどこまでも自由だ。
「伏せろ!!」と剣の鋭い声が飛んだ。
短い連続した破裂音の後に空気を震わせるプロペラの音。
薄い屋根を機関銃の弾丸が貫通して窓ガラスがあちこちで割れた。
「グラマンか?」
「ああ、間違いない。零戦と同じ位置から翼の出てるヤツだ」
嘉三郎の問い掛けに剣は冷静に答えた。
「新しい方か、厄介だな」
田崎が悲観する。
「ヤツら、ついでに遊んでやがるんだ。多分どこかに爆撃した帰りだ」
グラマンには爆弾が付いていなかった。
既に落として来たのだろう。
剣が憎々しげに言った。
グラマンは2機で斉射すると戻っては来なかった。
本当に気まぐれの襲撃だったのだろう。
そしてこの気まぐれで若い女性と、老婆。老婆の下で子供が死んだ。
庇った老婆を貫通した弾が、そのまま子供を貫いていた。
傍に赤い握り飯が潰れて転がっていた。
嘉三郎は自分の握り飯ひとつを笹の包みから取り出すと子供に持たせて見送った。
帝都の空襲も今も嘉三郎は何も出来なかった。
見ているだけから伏せているだけに変わっただけだった。
想定外の出来事に道行きが遅れ、呉での一泊を余儀なくされた。
嘉三郎たちは呉の海軍航空隊の軒先を借りることになった。
呉駅に降り立つと懐かしい顔に会った。
実家の近く新聞屋の若旦那だった。
「ご両親に伝えておくよ」
そう言って手を振って別れたが、嘉三郎は軍の任務中なので行先を告げることはできなかった。
「呉航空基地は大正14年に水上機を置いたことからなるんじゃ」
嘉三郎が胸を張って話すと「おい田崎、仲間がふえたぞ」と剣に茶化された。
何とも言えない表情で黙った嘉三郎に基地を案内してくれた兵隊が「よくご存じですね」と言いかけて言葉を止めた。
そして「坂上少年?」と言い直す。
嘉三郎が顔を真っ赤にすると「そうか、予科練に入ったんだね。1年も経たないうちに随分逞しくなった」と旧友に再会したかのように嬉しそうに歯を見せた。
不思議そうな顔をする三人に嘉三郎が地元で有名な軍国少年だった話を披露した。
「キミが来なくなって皆随分心配したんだ」
そう言って彼は姿勢を正して直立すると嘉三郎に敬礼をした。
「改めてご挨拶します。自分は吉田二等水兵であります。坂上二等飛行兵曹殿、本日ご案内させていただくこと光栄であります!」
驚いた嘉三郎は「は、はい。よろしくお願いします」と何とも締まらない返事をして皆に笑われた。
釣られて嘉三郎も声を出して笑った。
その晩、予期せぬ来客があった。
急ごしらえの寝室で寛いでいると吉田が嘉三郎を呼びに来た。
訝しげに詰所へ出向くと、灯りの下に四つの影があった。
一歩、二歩と近づくにつれて胸の鼓動が速まる。
まさか──そんなはずは──。
けれど、そこに居たのは紛れもない父と母、そして佳代子と末男だった。
「きっとここだと思って」
母のセツはそう言うと、痩せ細った手で嘉三郎の手をぎゅっと握った。
煤で黒ずんだ頬に皺を寄せながら、それでも目は少年の頃と変わらぬ優しさを宿していた。
言葉が出ない嘉三郎に代わって、佳代子が「兄さま!」と声を上げた。
末男はまだ幼く、ただ恥ずかしそうに兄の袖を掴んだ。
嘉三郎の目に熱いものが込み上げた。
父の留男は背負った風呂敷から沢山のサツマイモと、手に提げた包みからは重箱を嘉三郎に渡した。
重箱を開けるとぼた餅が入っていた。
久しく嗅いだことの無い甘い香り。
(ああ、桜の季節に仏壇に供えたぼた餅を食べてこっぴどく叱られたっけなぁ)
そんな記憶さえ嬉しく思えた。
「お父さんがね、ほうぼう訪ねて回って砂糖と小豆を集めてくれたの」
その言葉に厳しいだけの父と思っていた嘉三郎は雷に打たれたような衝撃を覚えた。
自分は父の何を見ていたのだろうか。
感謝と罪悪感が同時に去来した。
すかすかの重箱により強い感情が押し寄せて遂に嗚咽を漏らしてしまった。
「兄ちゃん痛いか?どっか痛いか?」
末男が心配そうに覗き込む。
嘉三郎は末男を抱きしめると「兄ちゃんは強いから平気じゃ。大和男に生まれたなら七生報国、末男も強ぉなれ、な」と言った。
「七度生まれ変わってお国に尽くすの」佳代子が末男の頭を撫でた。
「うん!」
末男の大きな返事が静かな詰所に響いた。
「俺たちも食っていいのか?」
田崎の声が上ずっていた。
「ああ、食え。お国のために飛ぶのは皆一緒じゃけぇ」
「嘉三郎、甘い美味い、あまいなぁ」
田崎は身をよじらせて指までしゃぶった。
剣は無言でつまむと「甘いな」と目を瞑った。
誠之介は「幸せの味だぁ。こんなん初めて食うた。ぼた餅言うのか。おかしな名前だなぁ」と本当に幸せそうに笑った。
嘉三郎もひとつつまんだ。
家族が届けてくれた必死で作ってくれたぼた餅を仲間と分け合う。
もう仲間ではない、家族だと思った。
夜はゆっくりと更けていった。
甘味の喜びと四人の笑い声を包むように。
幸せな一夜が明け、再び鹿屋を目指し出立した。
呉駅のホームで「おおデゴイチじゃないか」と土浦での記憶を呼び起こす田崎の感嘆に「早く乗れ」と剣が再び小突くものだから可笑しくてたまらなかった。
旅の再開は客車ではなく貨物列車だった。
急ぎ鹿屋へ行くために貨物列車の一両を与えられた。
無数の荷物との相席というか相部屋だったが。
各々が木箱や
下関駅までだからさほどの長旅ではない。
そこから連絡線に乗って門司駅から鹿屋へ向かう。
そうすればいよいよパイロットだ。
嘉三郎は胸が踊った。
ふと見ると誠之介が指の匂いを嗅いでいた。
いやきっと昨夜の記憶を辿っているのだろう。
他の皆は?
周りを見回してみた。
田崎は木箱を指でトントンと叩いている。
トンツーの練習だろうか。
さすが速い。
嘉三郎は何を打っているのかと聞き耳立ててみた。
「おいおい田崎くん。それは芝浜じゃないか」
嘉三郎は大笑いした。
芝浜は江戸人情物の落語。
大人気の題目だ。
「嘉三郎、黙って聞いてろよ」
瞑想するように木箱に座っていた剣がたしなめた。
どうやらずっと前から気付いていたようだった。
「爺さんがよく寄席に連れていってくれたんだ」
少し照れたようにいつもよりいっそうぶっきらぼうに言って横を向いた。
「剣くん、俺出来るよ。芝浜」
誠之介が立ち上がった。
「俺、腹が減ってどうしようもくなった時は道端で落語をやったんだ。そしたらメシか金を貰えたから」
「メシも金も無いぞ」
「要らないよ。話したいんだ、落語」
誠之介は紙袋を木箱の上に積むと即席の高座を作って話し始めた。
「えー、昔から『さんだら煩悩』ってことを言われておりまして...
」
芝浜、子別れ、紙入れと誠之介はよどみなく演目を披露した。
これには剣も大いに笑い、目を潤ませ、喝采した。
その日、鹿屋航空基地は
嘉三郎たちは歩哨に所属を告げ命令書を見せると中に案内された。
整列した嘉三郎たちを出迎えたのは上官の罵倒と平手打ちだった。
理由は到着の遅延だった。
グラマン襲撃を易々と受けて当然の顔をして期日に到着しないのは帝国軍人の面汚しだと延々と喚かれ続けた。
そしてその日、配属先が決まった。
嘉三郎と田崎が『伊吹隊』
誠之介が『光武隊』
剣が『大鷲隊』
腫れた頬のままそれぞれ部隊に別れて行った。
嘉三郎は別れ際「同期の桜じゃ、靖国で会おう」と言った。
そして小声で「その時はぼた餅と落語で」と囁いた。
いい笑顔で別れることが出来たと思った。
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