第9話 イントロ
奥に見えるのは黒板、その手前にグランドピアノ。
窓にかかるカーテンは閉ざされ、 天井からの白い明かりが、部屋の隅々まで煌々と照らし出している。
逃げ場のない明るさに、目が眩みそうだ。
古いワックスと、微かな金属油の匂いが鼻をくすぐる。
音楽の授業で使う第一音楽室や器楽室、声楽室、視聴覚室とは異なり、第二音楽室は正規の授業では使う機会がない。
三年目にして初めて足を踏み入れたその部屋は、最大規模を誇る階段状の第一音楽室と、広さそのものは同程度だろうか。
けれど、床全面が平坦な造りであるせいか、むしろこちらの方が広くさえ見えた。
そんな音楽室のドアからグランドピアノまでの広い空間に、譜面台や椅子、楽器などの備品が置いてあるはずだが、それらは私の目には入ってこない。
目の前にあるのは、私をがっしりと捉えて放さない、無数の眼、眼、眼。
譜面台の隙間や上から、サックスの上で、トロンボーンのベルの奥に、そして指揮台の上にも。その無数の瞳が、呼吸さえ許さないほどの密度で、私を真っ向から射抜いていた。
凍り付いた時間、一枚の写真のように静止した音楽室の中をひとりの少女が歩んでいく。
勢いよく開け放ったドアを気にする様子もなく抜け、指揮台の前を横切る。
ピアノの奥の棚に置いてあったケースから、ホルンを取り出し、さらに歩み続け、譜面台の隙間を縫うように進む。
辿り着いた先で同じようにホルンを抱えた生徒に何か言葉をかけると隣の椅子に腰をおろし、おもむろにこちらへ手を振る少女……綾音。
「ぷっ。クックック」
指揮台正面でオーボエを抱えた生徒の口から笑い声が漏れる。
その声で、氷の魔女の呪いが解けたように部屋中の時間が動き出す。
一身に浴びていた視線の圧力が消え、ようやく体が動くようになった私も深く息を吐き出す。
「さすが、宮下さんの御学友。登場の仕方、インパクトが半端ないね」
こらえるように笑いながらそう告げてくる、オーボエさん。
一気に頬が熱くなる。
きっと見てわかるほど赤くなっているんだろう。
「テニス部の部長、広瀬凜さん、だよね?」
「あ、はい。広瀬です。よろしくお願いします。所属もご存じなんですね。あ、宮下さんが?」
「いや、知らない人はいないよ。テニス部の『広瀬凜』だろ? 才色兼備で有名だし、なにより一般受験組で部長になったっていうのは、僕らみたいなテニス部以外の人間から見ても衝撃的だったから。推薦組の反発とか、結構大変だったんじゃない?」
そんなはずない!
テニス部の部長をしていたことを除けば、私はどこにでもいる生徒の一人でしかないでしょ。
テニス部の部長なんて、生徒会と違ってテニス部員にとってしか意味のない肩書きだし。
私はそんな事実とかけ離れた噂の対象になるような生徒じゃないもの。
でも、実際このオーボエさんは私の顔と名前を知っていたし……。なんで……?
私なんて、ただテニスをしていただけなのに。
そんな風に、知らない場所で『噂』がひとり歩きしていたなんて。
あまりの衝撃に言葉を失い、オーボエを抱えた彼をまじまじと見つめてしまう。
慌てたように言葉が続く。
「あ、そうか。ごめん。僕は金管バンドの部長をしている、長瀬亘です。オーボエ担当」
「それで、あそこの台にいるのが、顧問の竹内先生」
私の方へオーボエをゆらゆら振りながら、掌で指揮台を指す長瀬部長。
指揮台へ視線を移すと、目の合った竹内先生が台を降りてこちらへ近づいてくる。
「金管バンドへようこそ。私が顧問の竹内健吾です。広瀬さん。あなたが宮下さんの言っていた入部希望者ということでいいのかな?」
「はい。昨日テニス部を退部しまして、どうしようかなと思っていたところ……いえ、思う間もなくですが、宮下さんに紹介していただきました」
ざわっと顔を見合わせ声を交わし合う部員たち。
え? どこに反応したの? 変なこと言った?
「あの……もしかして、いま部員の募集はしていませんでした? というか、宮下さんから私に声をかけるということは伝わっていたんですよね?」
綾音が私のためにゴリ押ししたとか、かなりまずいことになっているのではないかと不安になる。
窺うように先生の顔を見上げるが、困ったり怒ったりしている様子は無い。
むしろ、徐々に口角が上がる。
「いやいや、部員は絶賛募集中だよ。というか、先月パーカッションの生徒が転校してしまってね、本当に困ってるんだ」
「声をかけるのが広瀬さんだということは全く聞いてなかったね。びっくりだよ。うん」
「あと、後ろの生徒たちが動揺したのは、あなたがテニス部を辞めてまでこちらに来てくれた、という点だろう。あの広瀬さんを引き抜いた、となれば大問題になるだろうからね」
そこまで話すと、軽く後ろを振り返り綾音の方へ視線を送った後、こちらへ向き直る。
「あ、そうそう。昨日の帰宅間際に、宮下さんに急に言われたのはこうだったよ」
思い出すように一拍おいたあと、竹内先生が続ける。
「『私の親友は、ドラムとグロッケンの経験者です!』と」
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