4 聴覚野を侵食する粘液質の協奏曲(コンチェルト)

 視覚は贅沢なノイズだ。真の享楽は、目を閉じた闇の中にこそある。 俺は文芸部の机に突っ伏し、腕の中に顔を埋めながら、全神経を「耳」だけに集中させていた。 この部室は今、極上のASMRスタジオと化している。


(……聞こえる。音の粒子が、鼓膜を撫で回している)


 まずは第一楽章、綾辻先輩の「摩擦」だ。 彼女が足を組み替えるたびに響く、微かな衣擦れの音。 『シュウ……』 それは80デニールの黒タイツと、制服のプリーツスカートが擦れ合う、神聖な摩擦音。 乾燥したナイロンの響きは、俺の脳髄をサンドペーパーのように優しく、かつ執拗に削っていく。 あの音の向こう側に、彼女の絶対領域が存在する。音だけで、俺は彼女の体温すら幻視できる。


 そして第二楽章、真白の「粘性」だ。 さっきから彼女の方角から、奇妙な音が断続的に聞こえてくる。 『……ヌチュ』 『……クチュ……ピチャ』 水分をたっぷり含んだ、卑猥な水音。 飴を舐めているのか? いや、それにしては音が重い。もっとこう、舌と口蓋が濃厚に絡み合うような、密室でしか許されない粘膜の音。


 俺の脳内ミキサーが、二つの音を統合し、地獄の妄想リミックスを開始する。


 ――暗闇の中で、二人が俺を取り囲んでいる。 綾辻先輩の冷たいタイツ足が俺の首を絞め上げ、耳元で衣擦れの音を響かせる。 「ねえ、聞いてる? 私の足音」 そして真白が、俺の耳朶じだに濡れた唇を寄せる。 「センパイ、ここ、濡れてますよぉ……クチュ」 右耳から乾いたサディズム、左耳から湿ったマゾヒズム。 音の洪水が三半規管を狂わせ、俺は平衡感覚を失い、快楽の深淵へと墜落していく――。


(ああっ! もう限界だ! 俺の鼓膜が妊娠する!!)


 その時、決定的な一言が聞こえた。


「……ねえ、真白さん」


 綾辻先輩の声だ。だが、それは妄想の中の艶っぽい声ではなく、現実に引き戻す冷徹な響きだった。


「さっきからその音、なんとかならない? 下品なんだけど」


「えー? でもセンパイ、これすっごい気持ちいいですよ? 触ってみます?」


「結構よ。ヌルヌルしてそう」


「硬そうに見えて、握るとグチュってなるのが最高なんですぅ」


 握ると、グチュってなる? 俺の心臓が早鐘を打つ。まさか、真白は今、部室で何を握っているんだ? 俺の逸るリビドーが、ついに限界突破した。


「そ、それは具体的に何を握っているんだーっ!!」


 俺は勢いよく顔を上げ、叫んだ。 世界が明るくなる。 そこには、ゴミを見るような目の綾辻先輩と、両手を緑色のゲルまみれにした真白がいた。


「……はい?」


 真白の手の中で、カエルのような色をしたスライムが、『ヌチュッ』と音を立てて握りつぶされていた。


「あ、佐藤センパイ起きた。これ、購買で売ってた『癒やしのぷるぷるスライム』です。握力鍛えてるんですよー」


 彼女が再びスライムを握り込む。 『ニチャァ……』 さっきまで俺を天国へ誘っていた水音の正体は、ただの安っぽいポリビニルアルコールの悲鳴だった。


「……佐藤くん」


 綾辻先輩が、スライムよりも冷たい視線を俺に突き刺す。


「何を期待して叫んだのか知らないけど、顔、すごいことになってるわよ」


「い、いや、悪夢を見ていて……」


「耳、真っ赤だけど」


 先輩はふい、と視線を逸らし、俺への興味を完全に失ったように言った。


「あんたの想像力、もっとマシな創作に使えば?」


 俺は再び机に突っ伏した。 耳に残るスライムの『ヌチュ』という音が、今はただ、俺の惨めな心をあざ笑うSE(効果音)にしか聞こえなかった。

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