奔流5秒前の青春

森崇寿乃

1 湿度九十九パーセントの密室

 

 放課後の図書準備室。そこは文芸部の部室であり、俺にとっては精神の牢獄だ。 梅雨の湿気が充満した室内は、古い紙の匂いと、カビの気配、そして何よりも強烈な「彼女」の存在感で飽和していた。


 俺の視線の先には、綾辻先輩がいる。 彼女はパイプ椅子に足を組み、文庫本の世界に没頭している。 だが、俺に文字など読めるはずがない。 俺の網膜は、彼女のすべてを舐め回すためだけに機能していた。


(……白すぎる)


 彼女のうなじから鎖骨にかけてのラインは、陶磁器のように滑らかで、冷たそうに見えて、触れればきっと吸い付くような生温かさを持っているはずだ。 蒸し暑さのせいで、彼女の額にはうっすらと汗が滲んでいる。 その汗の一粒が、重力に逆らえず頬を伝い、顎のラインで躊躇い、やがて首筋へと滑り落ちていく。 俺はその軌道を目で追いながら、自分がその汗の雫になりたいと本気で願っていた。その肌の上を這い、制服の襟元、その奥の未知なる領域へと侵入し、彼女の体温に蒸発して一体化したい。


 脳髄が熱い。 思考が蜜のように粘り気を帯び、正常な判断力を奪っていく。


 部屋には時計の秒針の音と、時折彼女がページをめくる「カサリ……」という乾いた音だけが響く。 その乾いた音が、逆説的に俺の渇きを加速させる。 ページをめくるその指先。細く、長く、少しインクの匂いがしそうな指。 あの指が、もし俺に向けられたら? その冷ややかな視線が、欲望に濡れて俺を射抜いたら?


 妄想は、現実の輪郭を侵食し始めた。


 ――視界が歪む。 本を読んでいたはずの先輩が、不意に深いため息をつく。その吐息は熱く、湿っている。 「ねえ、佐藤くん」 呼ばれた気がした。声帯震わせる空気の振動すら、肌に直接触れられたような錯覚を覚える。 「暑いと思わない?」 彼女は、気怠げにブラウスのボタンに手をかける。第一ボタン、第二ボタン……。白い指が動くたびに、世界の色が濃くなる。 「佐藤くんも、暑いんでしょ? 我慢しなくていいのよ」 彼女は立ち上がり、音もなく俺の背後に回る。 耳元で囁かれる甘い毒。 「君がずっと私をどういう目で見ていたか、知らないとでも思った?」 背中に感じる彼女の体温。柔らかい感触。首筋に這う指先。 俺の理性という名のダムは決壊寸前だ。欲望という泥流が、全身の血管を駆け巡り、心臓を破裂させようと暴れまわる。


(ああ、もうダメだ。食われる。彼女に骨の髄までしゃぶり尽くされたい――!)


 俺は高まる鼓動と共に、祈るように目を閉じた。 次の瞬間、世界が揺れた。


「……おい」


 低く、不機嫌な声。 甘さなど微塵もない、氷のような響き。 俺は弾かれたように目を開けた。


 目の前には、眉間に深い皺を寄せた綾辻先輩の顔があった。 距離は近い。だが、そこに愛欲の色はない。あるのは、純粋な不快感と、汚いものを見るような軽蔑の眼差しだけだ。


「さっきから何なの?」


「へ……?」


 口から間抜けな音が漏れる。


「気持ち悪い呼吸音がうるさいのよ。フシュー、フシューって。集中できないんだけど」


 先輩の手には、読みかけの文庫本ではなく、丸められた週刊誌が握られていた。 どうやら俺は、妄想の絶頂で、野生動物のような荒い鼻息を漏らしていたらしい。 背中に感じた柔らかい感触も、耳元の囁きも、すべては俺の腐った脳味噌が見せた幻覚。 現実は、俺の呼吸音だけが異質に響く、ただの蒸し暑い部室だった。


「す、すみません……花粉症かな、いや、夏風邪かも」


「ここ、換気悪いから。菌を撒き散らすなら帰って」


 彼女は冷たく言い放ち、再び本に視線を落とす。 拒絶。完全なる遮断。 だが、その冷徹な態度すらも、俺の歪んだ回路には「ご褒美」として変換されてしまう。 罵倒された事実が、胸の奥に黒く澱んだ熱をさらに溜め込んでいく。


(ああ、やっぱり先輩は最高だ……)


 俺は小さく「はい」と答え、自身の熱を冷ますように、じっとりと汗ばんだ手で自分の膝を抱えた。

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