ばあちゃんの“もしも”と、ぼくの“これから”
シェパード・ミケ
一章 蔵の奥で光ったもの
ぼくは社会人だ。東京で一人暮らしをしている。
仕事はコールセンターで、毎日知らない人の怒りを受け止めている。
慣れたと言えば慣れた。でも家に帰ると、やっぱり少し疲れている。
生活は静かで、特別なことは何もない。
夜の楽しみは恋愛ゲームくらいだ。
画面の向こうの女の子に、選択肢ひとつで好かれたり嫌われたりする。
エンディングで並んで歩くスチルを見て、コントローラーを置く。
テレビを消すと、そこには誰もいない。
それで十分だと思っていた。
「現実で誰かと暮らす未来」なんて、考えないほうが楽だったからだ。
一週間前、じいちゃんが亡くなった。急だった。
喪主とか葬式とか、そのへんのことは親がやって、
ぼくはただ実家に戻って頭を下げて、親戚の顔をぼんやり眺めていた。
じいちゃんはカメラが好きだった。
ぼくよりも、たぶんカメラと長く一緒にいた人だ。
家族より、レンズのほうが先に見ていた景色がある気がした。
葬式の次の日、父さんが言った。
「蔵、ちょっと見てくれるか」
親戚が帰って、家が急に広くなった夜だった。
台所の明かりだけがついていて、鍋の中はもう空だった。
父さんは片づけかけの茶碗をシンクに置いて、ぼくを振り返った。
「じいちゃんの荷物、整理しないといけなくてな。
カメラとかフィルムとか、蔵にまだだいぶあるんだわ」
「いいよ」
ぼくはそう答えた。やることがあるほうが、助かる気がした。
蔵は家の裏にある。
木の戸が重くて、開けるとき、ぎぃって音がした。
子どもの頃はこの音がちょっと怖かった。
今開けてもやっぱり少しだけ怖い。音って、あまり成長してくれない。
中はひんやりしている。
古い木と湿った土と紙の匂いがする。
天井の近くには、昔の正月飾りとか、誰が読むんだって感じの辞書とか、
わけのわからない箱が積んである。
父さんが言う。
「ここ、じいちゃんのやつ多いからな。カメラ、フィルム、あとなんか機材とか。
残しておきたいのと、処分するのと、ちょっと分けてくれると助かる」
「了解」
ぼくはそれだけ返して、古い懐中電灯を持って奥へ進んだ。
蔵の床は少しきしむ。
懐中電灯の光が動くたび、影もいっしょに揺れる。
段ボールに英語と数字が書いてある。FUJI、KODAK、AGFA。
フィルムだ。新品もあれば、開いたままのもある。
じいちゃん、どれだけ撮ってたんだよ、と思う。
そのくせ、リビングに飾ってある写真はそんなに多くない。
撮ったもののほとんどは、こうやって暗いところで眠っている。
フィルムの箱を一つ一つ開けて、中身を確かめる。
カメラ屋に持っていけば、誰かが欲しがるかもしれない。
それとも全部、まとめて処分するんだろうか。
判断は父さんがする。ぼくは並べておくだけだ。
棚のいちばん下に、少しだけ違う箱があった。
他の段ボールより薄くて、金属の缶みたいな光り方をしている。
懐中電灯を近づけると、かすかに光が返ってきた。
「……なにこれ」
手に取ると、ひんやりして重い。
丸でも四角でもない、少し歪んだ形。
写真でしか見たことがない古いフィルムケースとも、ちょっと違う。
缶のフタの縁に、小さな文字が刻まれていた。
メーカー名でも、数字でもない。
読みにくいけれど、なんとか追う。
〈もしも〉
いたずら書きにしては、丁寧な字だった。
誰が書いたのか、ぱっとは浮かばない。
じいちゃんがそんな言葉を書く姿も、あまり想像できなかった。
フタをひねろうとする。回らない。
力を入れても、すべすべした金属が指から逃げるだけだ。
缶はびくともしない。
「開かないタイプか?」
自分でもよくわからない独り言が出る。
封印されている、という言葉が頭をよぎった。
ゲームだったら、イベントアイテムだ。
フラグを立てないと開かないやつ。
蔵の奥で、一人でそんなことを考えている自分が少し可笑しかった。
笑って、でも缶から目を離せない。
視線を横にずらすと、古いアルバムが積んである。
表紙の布は色あせて、角がほつれている。
一冊を引き抜くと、埃がふわっと舞った。
中には、若い頃のじいちゃんと、知らない女の人が写っていた。
今のばあちゃんより、ずっと若い顔。
二人とも、どこか照れている。
結婚式の写真もあった。
その先にいる家族のことを、まだ誰も知らない顔だ。
ページをめくる手が、無意識に止まる。
ここから先に、ぼくは生まれてくる。
ぼくが、東京で一人でゲームをして寝ている夜も、
この人たちの選んだ結果のずっと先にある。
アルバムを閉じると、机の上に置いた〈もしも〉の缶がまた目に入った。
未来はまだ写っていない。けれど、もう何かが入っている顔をしている。
「これも、残しとこうか」
処分の山には、とても置けない。
缶をポケットに入れようとして、やめた。
落としたら嫌だ。
作業台の端、埃の少ない場所にそっと置き直す。
蔵の外から、父さんの声がした。
「どうだ、進んでるかー?」
「ぼちぼち」
ぼくは返事をして、懐中電灯を持ち替えた。
フィルムの箱を移動しながら、頭のどこかで考える。
もしも。
この缶の中身みたいに、開けられないまま終わる“もしも”は、どれくらいあるんだろう。
中学のころ、一度だけ本気で「もしも」を考えた相手がいた。
同じクラスで、よく喋る女の子。
名前を出そうとして、やめた。
蔵の中で思い出すには、少しだけ生々しすぎた。
「……まあ、今さらだし」
口の中で小さくこぼす。
東京に戻れば、またコールセンターと、夜のゲームと、ラジオの音だ。
誰かと一緒に暮らす未来なんて、推しキャラのエンディングみたいに、
画面の向こうにあるだけでいい。
懐中電灯の明かりが、作業台の上を通り過ぎる。
〈もしも〉と書かれた缶が、ほんの一瞬だけ強く光った気がした。
気のせいかもしれない。
でも、その光の小ささを、ぼくは変に覚えてしまう。
蔵を出る前に、もう一度だけ振り返った。
暗い中で、缶だけが位置を主張している。
じいちゃんのカメラたちよりも、少しだけ手前にいる。
「また来るから」
誰にともなくそう言って、木の戸を閉めた。
ぎぃ、という音が夜に伸びていく。
その音と一緒に、ぼくの“もしも”も、どこかで目を覚ましたような気がした。
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