第2話 豪華客船『オリエンタル・ドリーム号』
第一章:2月20日PM
佐藤恵子は、バルコニー付きの優雅な客室のベッドの上で、無言のまま天井を見つめていた。
豪華客船『オリエンタル・ドリーム号』。
10日間の夢のようなクルーズの、まさかこんな形で終わりを告げるとは、乗船した誰一人想像もしていなかっただろう。
クルーズ船という名の、閉じ込められた「楽園の檻」。
恵子は、船が横浜港に停泊して以来、ずっとこの状態だ。
彼女の同室者である長年の友人、美智子が数日前に急な発熱を訴え、船医の診察を経て、そのまま船外の医療機関へ搬送されていった。
別れはあっけなく、別れを告げる時間さえなかった。
ただ、部屋に残された美智子の荷物だけが、彼女がもうここにはいないという事実を突きつけていた。
恵子は陽性者ではない。
しかし、濃厚接触者として船内に残るよう指示された。
対して、友人以上恋人未満の仲である中原健太郎は、運よく隔離を免れた。
彼は恵子とは別の客室で乗船しており、濃厚接触者リストから外れたためだ。
彼の部屋から、毎日欠かさずメッセージが届いていたが、昨日の午後、それも途絶えた。
「無事に下船できたのね……」
恵子は、不安と安堵がないまぜになった気持ちで、健太郎からのメッセージ履歴をスクロールした。
彼は自由になった。自分はまだ、この海上に浮かぶ監獄の中にいる。
【船内での「日常」】
彼女の「新しい日常」は単調だった。
朝9時、昼12時、夜6時。食事は決まった時間に、ドアの前に置かれる。
ノックの音とともに、全身防護服にマスク、ゴーグル姿のクルーが廊下を足早に去っていく。
彼らの姿は、まるで宇宙飛行士か、あるいはSF映画の感染区域で働く兵士のようだった。
「ごゆっくりどうぞ」
そう書かれた手書きのメモが、毎回添えられている。
だが、その背後に隠された、「接触禁止」という厳格なルールが、どんな言葉よりも雄弁に、この船の現状を物語っていた。
食料や日用品の補充も同様だ。
すべてが非接触で、無菌的に届けられる。
唯一、外の世界と繋がっているのは、バルコニーだった。
そっとカーテンを開け、バルコニーに出てみる。
手すりには、冷たい潮風が当たって少し湿っていた。
目の前には、慣れ親しんだ横浜の風景が広がる。
ランドマークタワー、遠くに走る車のライト、そして生活を送る人々の営み。
たった数十メートルの距離。
しかし、その間に張り巡らされた「検疫」という名の見えない線は、太平洋よりも深く、万里の長城よりも強固な壁のように感じられた。
「もし、このまま陽性になったらどうなるんだろう…」
その考えが頭をよぎるたびに、恵子は急いでその思考を振り払う。
しかし、不安はいつも、部屋の隅に潜む影のように、彼女を監視していた。
【突然の警告と外部へのメッセージ】
その日の午後4時。
船内放送が、いつもの穏やかな音楽を遮って流れた。
「乗客の皆様にお知らせいたします。
大変恐縮ではございますが、現在、体調不良が確認された乗客の一部について、下船いただき、日本の医療機関へ移送する作業を開始いたします」
その瞬間、恵子の心臓は激しく波打った。
これは、誰かが、自分が恐れていた「陽性」と確定したことを意味する。
そして、船内のどこかでウイルスが確実に生き、活動している証明でもあった。
バルコニーから甲板を見下ろすと、オレンジ色のタイベック防護服に身を包んだチームが、担架を運び込んでいるのが見えた。
彼女はスマートフォンを手に取り、健太郎にメッセージを送ろうとした。
昨日、下船直前に届いた彼のメッセージが、彼女の画面に残っていた。
健太郎:「俺は大丈夫だ。すぐに検査の結果を持って下船する。君の無事を祈ってる。何かあったら必ず連絡してくれ。」
彼は今、解放されたはずだ。
この船の、あの組織的な対応の「外側」にいる。
「私だけじゃない」恵子は思った。
「外には、私のことを想っている人がいる。」
彼女は決意を込めて、健太郎にメッセージを送った。
船内放送で流れる移送の報を聞いた直後だった。
恵子:「船の状況がまた変わった。私、少し怖い。…ねぇ、今日はちょっと寒いね。」
彼女の客室の外、廊下の向こうで、誰かが嗚咽を漏らす声が、ほんの一瞬、聞こえた気がした。
恵子は、バルコニーのガラス越しに、自分の唇がわずかに震えているのを感じた。
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