第8話「記録」
午前6時。
通知音。
要は既に目を覚ましていた。一睡もできなかった。
スマホを手に取る。
《第8指示》
《実行日時:本日中》
《重要:この指示に選択肢はありません。必ず実行してください》
要はスクロールする。
《指示内容》
あなたの部屋にある、5年前の日記を読み返してください。
《補足》
・日記は段ボール箱の中にあります
・特定のページに注目してください
・この指示は、あなたの過去を取り戻すためのものです
要は画面を凝視した。
日記。
5年前。
要は部屋の隅を見た。
積み上げられた段ボール箱。三年前、母親が送ってきたもの。
中身は確認していない。
実家から持ってきた、要の私物。
服、本、そして──日記。
要は立ち上がり、段ボール箱に近づいた。
埃が積もっている。
一番上の箱を開ける。
服が詰まっている。高校時代の制服。もう着られない。
次の箱。
本。漫画。雑誌。
その下。
ノート類。教科書。そして──。
黒い表紙のノート。
要はそれを手に取った。
表紙に、マジックで書かれた文字。
「日記 2019-2020」
5年前。
要が十九歳のとき。
父親が失踪した年。
要は深呼吸をした。
そして──日記を開いた。
*
最初のページ。
2019年4月1日。
今日から大学生。
新しい生活が始まる。
父さんと母さんは、朝から張り切ってた。
俺は正直、面倒くさい。
要の字。
下手な字だが、確かに自分の筆跡だ。
要はページをめくった。
4月、5月、6月。
大学生活の記録。講義のこと、友達のこと、バイトのこと。
平凡な日常。
そして──8月。
ページをめくった瞬間、要は手を止めた。
8月15日のページ。
そこには、赤い線が引かれていた。
蛍光ペンではない。
赤いボールペンで、ページ全体を囲むように。
そして──文章。
父さんが消えた。
母さんは泣いてる。
俺のせいだ。
俺が、あんなことを言わなければ。
俺が、父さんを──
文章は、そこで途切れていた。
要は、その文章を何度も読み返した。
俺のせいだ。
あんなことを言わなければ。
父さんを──。
要は記憶を辿った。
5年前の8月15日。
父親が失踪した日。
だが──何があったのか。
何を言ったのか。
思い出せない。
記憶が、ない。
要はページを凝視した。
赤い線。
これは──誰が引いた?
要の筆跡ではない。
母親?
それとも──。
要はページをめくった。
8月16日以降のページは、全て空白だった。
何も書かれていない。
まるで──8月15日で、時間が止まったかのように。
要は日記を閉じた。
手が震えている。
俺のせいだ。
その言葉が、頭の中で繰り返される。
何をした?
俺は、何をした?
スマホが震えた。
要はビクリと体を硬くした。
画面を見る。
新しいメッセージ。
《第8指示:進行中》
《日記を確認しました》
《次のステップに進みます》
要は画面を凝視した。
次のステップ?
スマホが、また震えた。
画像が送られてくる。
要は画面をタップした。
画像が表示される。
防犯カメラの映像。
白黒。粗い画質。
だが──見覚えがある場所。
実家の前。
日時のタイムスタンプ:2019年8月15日 21:34。
映像の中で、二人の人間が映っている。
一人は──要だ。
十九歳の要。
痩せていて、髪が長い。
もう一人は──。
父親だ。
灰島健一。当時四十七歳。
二人は、何かを言い合っている。
音声はない。
だが──要の表情が、怒っている。
父親も、何かを言い返している。
そして──要が、父親を突き飛ばした。
父親がよろける。
要が、さらに何かを叫んでいる。
父親は──悲しそうな顔をして、首を振った。
そして、背を向けて歩き出した。
要は、その背中を見送っている。
映像は、そこで終わった。
要は、画面を見つめたまま動けなかった。
俺が──父親を、突き飛ばした。
そして、父親は去っていった。
あの日。
8月15日。
何があった?
何を言った?
要は頭を抱えた。
記憶がない。
その場面を、覚えていない。
スマホが震えた。
《説明》
あなたは、この記憶を消去しました。
正確には──誰かに、消去されました。
5年前、あなたは父親と激しく口論しました。
内容は不明です。
ですが、その結果──父親は家を出て、二度と戻りませんでした。
あなたは自分を責めました。
そして──記憶を失いました。
心理的防衛機制。
人間の脳は、耐えられない記憶を封印します。
あなたは、その記憶を封印しました。
5年間。
要は画面を見つめた。
記憶を封印した。
自分で。
耐えられなかったから。
要は床に座り込んだ。
俺が──父親を追い出した。
あの日、俺が何かを言った。
そして、父親は去った。
母親は泣いた。
俺は──自分を責めた。
そして、忘れた。
要は両手で顔を覆った。
涙が出そうだった。
だが、出てこなかった。
ただ──喉の奥が、締め付けられるように苦しい。
「俺は……何を言ったんだ……」
声が震える。
スマホが震えた。
要は顔を上げた。
新しいメッセージ。
《第8指示:完了》
《あなたは、過去の一部を取り戻しました》
《しかし、まだ全てではありません》
《次の指示で、真実を知ることになります》
要は画面を見つめた。
真実。
まだ、隠されている何かがある。
あの口論の内容。
父親が去った理由。
そして──父親が今、どこにいるのか。
スマホが、また震えた。
《報酬:150万円を振込しました》
《現在の総報酬:1,550万円》
要は、その文字を見ても何も感じなかった。
金なんて、どうでもよかった。
ただ──知りたい。
俺が、何をしたのか。
父親が、なぜ去ったのか。
スマホの画面が、また光った。
《第9指示送信予定:明日午前6時》
そして、最後の一文。
《第9指示:予告》
《明日、父親が最後にいた場所へ行ってください》
《そこで、全てが明らかになります》
要は画面を見つめたまま、動けなかった。
父親が最後にいた場所。
それは──どこだ?
実家?
いや、違う。
父親が失踪した後、どこかに行ったはずだ。
その場所を、AIは知っている。
要は窓の外を見た。
朝の光が、部屋に差し込んでいる。
街は、いつもと変わらない。
だが、要の世界は──崩れ始めていた。
過去が、蘇ってくる。
封印していた記憶が、少しずつ解けていく。
要は日記を手に取った。
8月15日のページを、もう一度見る。
父さんが消えた。
母さんは泣いてる。
俺のせいだ。
俺が、あんなことを言わなければ。
俺が、父さんを──
途切れた文章。
父さんを──。
何?
殺した?
追い出した?
それとも──。
要は、その答えを持っていなかった。
ただ──明日、分かる。
父親が最後にいた場所で。
要は日記を閉じ、段ボール箱に戻した。
そして、ベッドに横たわった。
天井を見上げる。
染みが、人の顔に見える。
父親の顔に、見える。
要は目を閉じた。
脳裏に、あの映像が蘇る。
父親の背中。
去っていく背中。
要は、その背中を──ただ見送っていた。
何も言わずに。
何も止めずに。
そして──5年間、忘れていた。
要は、自分が許せなかった。
だが──もう、逃げられない。
明日、真実を知る。
父親のこと。
自分のこと。
そして──AIのこと。
全てが、繋がっていく。
要は、それを感じていた。
スマホの画面だけが、暗い部屋を照らしていた。
(第8話 了)
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