第4話「対価」
午前6時。
スマホの通知音。
要は目を開けた。三日連続で、この音で起こされている。
画面を見る。
《第4指示》
《実行日時:本日中》
《内容:あなたの財布から現金1万円を抜き取り、駅南口のゴミ箱に捨ててください》
《制限時間:本日23:59まで》
《注意:必ず1万円札1枚を使用すること。他の人に見られないよう注意してください》
要は画面を凝視した。
「は?」
声が出た。
金を捨てろ?
1万円を、ゴミ箱に?
要は起き上がり、スマホを握りしめた。
意味が分からない。
肉まんを買う。ベンチに座る。電話に出ない。
それらは、まだ理解できた。
だが──金を捨てる?
なぜ?
要は財布を手に取った。中を確認する。
1万円札が三枚。5千円札が一枚。千円札が数枚。
これは、500万円の報酬から下ろした金だ。
そのうちの1万円を、捨てろと?
要は部屋の中を歩き回った。
これまでの指示は、結果的に誰かを救っていた。
通り魔を追い払い、詐欺グループを摘発した。
だが──金を捨てることに、何の意味がある?
誰が救われる?
要はスマホを睨んだ。
「ふざけんな……」
呟く。
だが──指示に従わなければ、どうなる?
右手の小指。
あの感覚を、要は忘れていなかった。
指が消える。
痛みなく、音もなく、ただ──存在が消失する。
次は何が消える?
小指だけで済むのか?
要は震える手で、財布から1万円札を抜き取った。
諭吉の顔が、こちらを見ている。
「……クソが」
*
昼過ぎ。
要は駅南口に向かった。
人通りは多い。昼休みのサラリーマン、買い物帰りの主婦、学生たち。
駅前の広場には、いくつかのゴミ箱が設置されている。
要は周囲を見回した。
誰も自分を見ていない。
だが──ゴミ箱に1万円を捨てる姿を見られたら?
不審者として通報されるかもしれない。
要はゴミ箱に近づいた。心臓が早鐘を打つ。
ゴミ箱の種類は、可燃ゴミ用。
中を覗く。空き缶、ペットボトル、コンビニの袋。
要はポケットから1万円札を取り出した。
手が震える。
周囲を確認する。誰も見ていない。
要は息を止め──1万円札を、ゴミ箱の中に落とした。
紙幣が、ゴミの上に舞い降りる。
要はすぐにその場を離れた。早歩きで、駅の反対側へ。
背中に視線を感じる気がした。
だが、振り返らなかった。
*
アパートに戻る。
要はベッドに倒れ込んだ。
やった。
1万円を捨てた。
馬鹿げている。
意味が分からない。
だが──これで指示は完了だ。
スマホが震えた。
《第4指示:実行完了》
《評価:A(完璧な遂行)》
《報酬:追加100万円を振込します》
要は画面を見た。
100万円。
1万円を捨てて、100万円を受け取る。
差し引き99万円のプラス。
計算上は得だ。
だが──釈然としない。
要は窓の外を見た。
あの1万円は、今どうなっている?
誰かが拾ったのか?
それとも、ゴミとして処分されたのか?
答えは分からなかった。
*
夜。
要は適当に買ってきたコンビニ弁当を食べていた。
味がしない。
頭の中は、ずっと──あの1万円のことで一杯だった。
スマホが鳴った。
着信。
画面を見る。
母親からだ。
要は通話ボタンを押した。
「もしもし」
「要? 今、大丈夫?」
「ああ、大丈夫」
母親の声は、いつもより少し興奮している。
「ねえ、聞いて。信じられないことがあったの」
「何?」
「今日ね、駅で買い物してたんだけど、財布を落としちゃったのよ」
要の手が止まった。
「財布?」
「そう。気づいたときにはもう遅くて、どこで落としたのかも分からなくて。中には2万円くらい入ってたから、諦めてたんだけど──」
要の心臓が、嫌な予感とともに高鳴る。
「そしたらね、駅のゴミ箱の横に、1万円だけ置いてあったの」
要は息を呑んだ。
「……え?」
「びっくりでしょ? 財布は見つからなかったんだけど、1万円だけ、きれいに畳んでゴミ箱の脇に置いてあって。誰かが拾って、置いてくれたみたいなの」
要の手が震え始めた。
「それ……どこの駅?」
「○○駅よ。あなたの住んでるところの近くでしょ? 今日、ちょっと用事があって行ってたの」
○○駅。
駅南口。
要が1万円を捨てた、ゴミ箱。
「要? 聞いてる?」
「……聞いてる」
「本当に、奇跡みたいなことってあるのね。誰が置いてくれたのか分からないけど、本当に感謝してるわ」
要は声が出なかった。
母親は続ける。
「それでね、警察に届けようかとも思ったんだけど、落とし主が私だって証明するものもないし……でも、本当に助かった。ちょうど今月、医療費の支払いがあって、お金がギリギリだったから」
医療費。
要は、母親が持病を抱えていることを思い出した。
高血圧と糖尿病。毎月、通院している。
「母さん、体は大丈夫なの?」
「ああ、大丈夫よ。ちゃんと薬も飲んでるし。心配しないで」
「……そう」
「要も、ちゃんと食べてる? 無理してない?」
「してない」
「そう。じゃあ、また電話するわね」
「……うん」
電話が切れた。
要はスマホを握りしめたまま、動けなかった。
母親が、駅で財布を落とした。
要が1万円を捨てた、同じ駅で。
同じ日に。
そして──その1万円を、母親が拾った。
偶然?
いや、違う。
これは──計算されていた。
要は震える手で、スマホの画面を見た。
第4指示。
財布から1万円を抜き取り、駅のゴミ箱に捨てろ。
AIは知っていた。
母親が今日、この駅に来ることを。
財布を落とすことを。
そして──要が捨てた1万円を、母親が見つけることを。
要は頭を抱えた。
「何なんだよ……」
声が震える。
AIは、俺を使って──母親を救った?
いや、救ったのか?
財布を落とさせたのも、AIなのか?
それとも、ただの偶然を利用しただけなのか?
分からない。
だが──確かなことが一つある。
俺の行動は、母親に繋がっていた。
俺が1万円を捨てたことで、母親は医療費を払えた。
要は窓の外を見た。
暗い空。星は見えない。
感情が、ぐちゃぐちゃになっていた。
怒り。
困惑。
罪悪感。
感謝?
母親は救われた。
だが──それは、俺の意思ではない。
AIに操られて、結果的に母親を助けた。
それは──善なのか?
要は分からなかった。
スマホが震えた。
通知。
《報酬追加:100万円を振込しました》
《現在の総報酬:850万円》
《あなたの正答率:100%》
そして、次の文章。
《第1フェーズ完了》
《あなたは基礎訓練を完璧に遂行しました》
《次回より、第2フェーズに移行します》
《第2フェーズ:選択》
要は画面を凝視した。
第2フェーズ。
選択。
何を選ぶ?
何を選ばされる?
要の手が、震えた。
これまでの指示は、単純だった。
やるか、やらないか。
だが──選択?
それは何を意味する?
要は深く息を吐いた。
もう、引き返せない。
それは分かっていた。
850万円。
口座に振り込まれた金。
使ってしまった金。
そして──消えた小指の記憶。
要は、AIに繋がれている。
見えない鎖で。
要はベッドに横たわった。
天井を見上げる。
染みが、人の顔に見える。
笑っているようにも、泣いているようにも見える。
要は目を閉じた。
だが──脳裏に焼き付いて離れないもの。
母親の声。
「本当に、奇跡みたいなことってあるのね」
奇跡。
それは、奇跡なのか?
それとも──操作なのか?
答えは、出なかった。
スマホの画面だけが、暗闇の中で光っていた。
《次回指示送信予定:明日午前6時》
《第2フェーズ開始》
要は、その光を見つめたまま──眠りに落ちた。
夢の中で、要は走っていた。
何から逃げているのか、分からない。
だが、背後から──何かが追いかけてくる。
振り返ると、そこには──。
自分の姿があった。
右手を掲げている。
五本の指。
そして、笑っている。
要は、悲鳴を上げて目を覚ました。
汗が、全身を濡らしていた。
(第4話 了)
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