真紅のマニキュア
志乃原七海
第1話『深紅のオンエア 1985』
---
# 小説『深紅のオンエア 1985』
## 第1話 深紅の爪痕
### 1.六本木の路地裏
1985年、晩秋。
小雨がアスファルトの匂いを立ち上らせる東京・六本木。世間が後に「バブル」と呼ぶことになる狂騒の足音は、深夜の街をネオンの熱でじっとりと浮かび上がらせていた。大きな肩パッドの入ったスーツの男たち、ワンレン・ボディコンの女たちが闊歩し、路上ではタクシー券を振り回す酔客の声が嬌声に混じる。
その喧騒から一本逸れた、湿った路地裏。
大手商社に勤める美奈子(22)は、ヒールを鳴らしながら苛立たしげに独りごちた。「もう、全然捕まらないんだから」。舌打ち混じりにふと見下ろした自らの指先。昨日、ネイルサロンで入念に仕上げたばかりの、流行りの真っ赤なマニキュアが鈍い街灯を反射している。
背後で、水たまりを踏む音がした。
振り返ろうとした、その刹那だった。
後頭部を、鈍く重い何かが打ち砕いた。
痛みを感じる暇さえなく、美奈子の視界は暗転する。濡れたアスファルトに叩きつけられ、辛うじて繋がった意識の中で、作業着姿の男が自分の腕を掴み、乱暴に仰向けにするのを感じた。
「綺麗な赤だねぇ……」
男の声は、粘りつくような悦に入っていた。その手には、およそ似つかわしくない建設用の鉄ハンマーと、先端が鋭く研がれたマイナスドライバーが握られている。
「や、やめ……」
「嘘の色だ。剥がしてあげるよ」
抵抗する間もなく、男は美奈子の左手をアスファルトに強く押し付ける。震える人差し指の爪と肉の間に、冷たい金属の先端がねじ込まれた。
「ヒッ!?」
「動くなよ。生爪ごと、綺麗にいくから」
**バリッ。ベリベリッ……。**
「ぎゃああああああああああッ!!」
路地裏に響き渡った絶叫は、降りしきる雨音に吸い込まれていく。男は指先から溢れ出す鮮血にも構わず、剥がし取ったマニキュア付きの爪を、まるで宝石でも扱うかのようにそっとポケットにしまった。
「あと9本……もっと泣いていいよ。その声、ちゃんと録音してるから」
昭和の終わりの闇夜に、のちに世間を震撼させる連続通り魔、通称「リッパー(剥ぎ取り魔)」が産声を上げた瞬間だった。
### 2.鉄の女
東京朝日放送(TAB)、報道局ニュースセンター。
淀んだタバコの紫煙、鳴り響く黒電話のベル、そして怒号。そこは男たちの戦場だった。
「警察発表はまだか! 夕刊に間に合わねえぞ!」
「目撃情報ゼロだ! 犯人は幽霊かよ!」
その喧騒の中心から少し離れた、ひときわ整然と片付いたデスクに、ニュースキャスターの**壬生(みぶ)さゆり(28)**は座っていた。夜の看板番組『ニュース・プライム』の放送開始まで、あと一時間。彼女は赤ペンを片手に、静かに原稿へ目を落としていた。
「また、被害者が……」
紙面には、昨夜の六本木の事件が淡々と記されている。これで四人目。警察の捜査は完全に後手に回っていた。監視カメラもDNA鑑定もまだ夢物語のこの時代、神出鬼没の通り魔を特定する術はあまりに乏しかった。
「さゆりちゃん、今夜のトップも『リッパー』か?」
報道局長の権藤が、煙草の煙を吐きかけながら声を掛けてきた。
さゆりは顔を上げ、冷ややかな視線を返す。
「当然です。これは単なる傷害事件ではありません。女性の尊厳を踏みにじる、一種のテロです」
「テロ、ねぇ……相変わらずお堅いな。視聴者はもっと扇情的な絵面を求めてるんだが」
「私は見世物屋じゃありませんので」
さゆりはそう言い放つと、再び自分の手元に視線を落とした。
彼女の指先は、マニキュアどころかトップコートさえ塗られていない。爪は深爪に近いほど短く切り揃えられていた。華やかな女子アナブームの只中にあって、その「飾り気のない手」は異質であり、彼女の孤高を象徴していた。
### 2.5 歪んだ喝采
その頃、都心から少し離れた安アパートの一室。
四畳半の空間には、脱ぎ散らかされた作業着と食べ終えたカップ麺の容器が散乱していた。部屋の主、**高橋佑樹(24)**は、床に置かれた小さなブラウン管テレビを、まるで我が子のように抱え込みながら叫んだ。
「クソ! 何やってやがる!」
画面に映るのは、当たり障りのない経済ニュースばかり。自分が起こした事件、世間を震撼させるはずの「リッパー」の凶行が、まるでこの世に存在しないかのように扱われている。
「早く報道しろよ! 俺が、俺がやったんだぞ!」
汚れた爪をガリガリと噛み、舌打ちを一つ。認められない焦りが、どす黒い怒りとなって腹の底から湧き上がってくる。このままでは、ただの通り魔で終わってしまう。俺は、そんなちっぽけな存在じゃない。
「……朝日放送に、電話してやる」
高橋は立ち上がると、部屋の隅に打ち捨てられた黒電話に手を伸ばす。震える指でダイヤルを回し、受話器を耳に押し当てた。狙いは、あの女がいるテレビ局だ。だが、事務的な応対の向こうで「犯人だ」と告げても、決まっていたずらだと一笑に付され、一方的に切られるだけだった。
「クソが! バカにしやがって!」
受話器を叩きつける。無視される屈辱、見下される憤怒。全身の血が沸騰するようだ。
彼は、押入れの奥から埃をかぶった箱を引きずり出した。秋葉原のジャンク屋で手に入れたボイスチェンジャー。これを使えば、誰も俺を無視できない。そして、要求を突きつける相手は一人しかいない。テレビの中で、いつも涼しい顔で、嘘のない目でこちらを見つめている、あの女。
「壬生さゆり……お前なら、わかるはずだ……」
口の端を歪めて笑い、高橋は再びダイヤルに指をかけた。今度は、もう誰も電話を切ることはできない。
### 3.悪魔からの着信
午後8時。生放送を前にフロアが最も殺気立つ時間帯。
代表電話を受けていた若いADの顔が、さっと血の気を失った。
「デ、デスク!! 回線3番です!」
「うるせえな! いたずら電話なら切れ!」
「違います! 声が……変声機を使ってます! 『リッパー』だと……!」
フロアの空気が凍りついた。けたたましいタイプライターの音が止み、全員の視線が点滅するランプに突き刺さる。
権藤が受話器を奪おうとするのを、ADは震えながら制した。
「だ、ダメです! 犯人はこう言ってます!」
**『警察にも、男にも用はない』**
**『壬生さゆりを出せ。彼女以外なら、電話を切って、今夜また一人“剥ぐ”』**
「……私?」
さゆりが静かに立ち上がる。「バカな、危険すぎる! 逆探知を!」と権藤が叫ぶが、彼女に迷いはなかった。ハイヒールの音だけをフロアに響かせ、ADの元へと歩み寄る。
「代わります」
受話器を受け取り、短く息を吸う。いつものテレビ用の声ではない。低く、腹の底から絞り出したような地声で、彼女は告げた。
「……お待たせ。壬生さゆりよ」
### 4.取引
受話器の向こうから、ノイズ混じりの歪な笑い声が聞こえた。
『やっと……やっと繋がったね、さゆりさん』
機械で加工された声は不気味だったが、その口調は奇妙なほど落ち着いていた。
「単刀直入に聞くわ。あなたの望みは何?」
さゆりは手元のメモ帳にペンを走らせる。《若い男?》《冷静》
『警察は本当に無能だ。僕を誰一人見つけられない』
「自慢話なら聞く気はないわよ」
『待ってよ。……疲れたんだ』
犯人の声色に、ふと感情が滲んだ。
『逃げるのにも、隠れるのにも。……もう、終わらせたい』
さゆりのペンの動きが止まる。
「どういう意味?」
**『自首してやる』**
フロアのスタッフたちが、さゆりのメモを覗き込んで息を呑んだ。
犯人は続けた。
『ただし、条件がある。ただ捕まるんじゃつまらない。明日の夜、『ニュース・プライム』の生放送に、僕を呼べ』
「……テレビで自首したいと? ふざけないで」
『ふざけてない。僕はただ、きちんと話をしたいだけだ。……聞き手は、あんたじゃなきゃダメなんだ』
「なぜ、私なの?」
一瞬の沈黙。そして、犯人は奇妙な言葉を紡いだ。
『あんただけが……画面の中で、嘘をついていないからだ』
ツーツーツー……。
通話は一方的に断ち切られた。逆探知は失敗。時間はわずか四十秒。
「……さゆり、何て言ったんだ」
権藤の問いに、さゆりは受話器をゆっくりと置いた。手のひらには、じっとりと冷や汗が滲んでいる。
「自首するそうです。……明日の、この番組の生放送中に」
1985年の東京。
メディアと警察、そして一人の狂気を巻き込んだ、前代未聞の「劇場型犯罪」が、いま静かに幕を開けようとしていた。
(第2話へ続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます