第10話「美咲の選択」

 臨時株主総会から三日後、梨央のスマートフォンに着信があった。

 桐島美咲からだった。

 梨央は、しばらく画面を見つめた後、電話に出た。

「はい」

 電話の向こうから、泣き声が聞こえた。

「梨央さん...会えませんか? お願いします」


 梨央は、窓の外を見た。

「何の用ですか?」

「助けて...もう、どうしていいかわからないんです」

 梨央は、ため息をついた。

「明日、午後二時。代々木公園で」

「ありがとうございます...!」

 電話は切れた。


 梨央は、スマートフォンを置いた。

 彼女は、何を求めているのだろう。

 救済か。

 それとも、共犯者か。

 どちらにしても、私には関係ない。


 翌日、梨央は代々木公園のベンチに座っていた。

 秋は深まり、木々の葉はほとんど散っていた。公園は、冬の訪れを感じさせる静けさに包まれていた。

 しばらくして、美咲が現れた。


 彼女は、以前よりもやつれていた。目の下には隈ができ、頬はこけていた。お腹は、明らかに大きくなっていた。

 美咲は、梨央の隣に座った。

「来てくれて、ありがとうございます」

 梨央は、何も言わなかった。


 美咲は、震える声で話し始めた。

「あの日から、全てが変わりました。蓮は、完全に壊れてしまって...話しかけても、反応しないんです」

「そうですか」

「神城家の人たちも、私を責めるんです。『お前のせいで、家が潰れた』って」


 美咲は、涙を流した。

「でも、私、何もしてません。ただ、愛されたかっただけなのに」

 梨央は、美咲を見た。

「それで?」

「助けてください」


 美咲は、梨央の手を掴んだ。

「私、もうどうしていいかわからないんです。お金もない。行く場所もない。お腹には子供がいるのに」

 梨央は、手を引いた。

「私に、何をしろと?」


「一緒に戦いましょう。神城家を訴えましょう。私も、証言します」

 梨央は、立ち上がった。

「断ります」

 美咲は、驚いた表情を浮かべた。

「え...?」


「あなたを助ける理由がありません」

「でも、私も被害者なんです! あなたと同じように、薬を飲まされて、騙されて!」

 梨央は、美咲を見下ろした。

「被害者?」

「そうです! 私だって、苦しんでるんです!」


 梨央の声が、冷たくなった。

「あなたは、私の家族を壊した」

 美咲は、息を呑んだ。

「それは...」

「あなたが蓮と関係を持ったから、私は捨てられた」


「でも、私、知らなかったんです! 蓮が結婚してるなんて!」

「知らなかった?」梨央は言った。「調べようと思えば、わかったはずです」

「そんな...」

「あなたは、被害者でもあり、加害者でもある」


 美咲は、立ち上がった。

「ひどい...! あなた、ひどすぎます!」

 梨央は、表情を変えなかった。

「ひどい? 私は十年間、存在を消されてたのよ」

「だからって、私まで突き放すんですか!?」

「そうです」


 美咲は、泣き崩れた。

「お願いします...助けてください...私、一人じゃ何もできないんです」

 梨央は、美咲を見下ろした。

 そして、静かに言った。

「あなたは、自分で立ち上がるしかない」


「無理です...私には、力がない」

「私にもなかった」

 美咲は、顔を上げた。

「え...?」

「私も、最初は何もできなかった。でも、立ち上がった。誰の助けもなしに」


 梨央は、美咲から離れた。

「あなたにも、できるはずです」

「できません! あなたとは違う!」

 梨央は、振り返った。

「何が違うんですか?」


「あなたは、強いから! 私は、弱いんです!」

 梨央の目が、わずかに揺れた。

「強い...?」

 彼女は、自分の手を見た。

 震えていた。


 いつから、震えるようになったんだろう。

 梨央は、深く息を吸った。

「私は、強くなんてありません。ただ、生き延びるために、必死だっただけです」

 美咲は、梨央を見つめた。


「梨央さん...」

「あなたも、生き延びたいなら、戦うしかない」

 梨央は、去ろうとした。

 美咲が、叫んだ。

「なぜ!? なぜ、私を助けてくれないんですか!?」


 梨央は、立ち止まった。

 そして、振り返らずに答えた。

「私も、誰にも助けられなかったから」

 美咲は、その場に座り込んだ。

「そんな...」


 梨央は、歩き続けた。

 彼女の背中は、小さく見えた。

 美咲は、一人残された。

 彼女は、自分のお腹に手を当てた。


 この子を、守らなければ。

 誰も助けてくれないなら、自分で戦うしかない。

 美咲は、涙を拭った。

 そして、立ち上がった。


 彼女は、決意した。

 梨央のように、強くはなれないかもしれない。

 でも、母親として、この子を守る。

 それだけは、誰にも譲らない。


 美咲は、公園を去った。

 その後ろ姿は、以前よりも少し、しっかりしていた。


 梨央は、公園の出口で立ち止まっていた。

 彼女は、振り返った。

 美咲の姿は、もう見えなかった。

 梨央は、自分の胸に手を当てた。


 何か、痛い。

 いや、痛いというより、重い。

 これは、何だろう。

 罪悪感?

 それとも、後悔?


 梨央は、わからなかった。

 彼女は、ベンチに座り直した。

 一人で、ただ座っていた。

 公園には、他に誰もいなかった。


 風が吹いた。

 冷たい風が、梨央の頬を撫でた。

 梨央は、小さく呟いた。

「私、冷たくなった」


 彼女は、自分の手を見た。

 十年前、この手は温かかった。

 人を抱きしめ、励まし、支えることができた。

 でも、今は違う。


 今は、ただ奪うだけの手になった。

 梨央は、手を握りしめた。

 そして、もう一度呟いた。

「私、冷たくなった」


 誰に言うでもなく。

 ただ、自分自身に。

 それは、告白だった。

 自分が変わってしまったことへの、静かな告白。


 そして――

 初めて、梨央は自分の選択に疑問を持った。

「でも、それでいいのかな」


 この道を選んだのは、私だ。

 復讐を選んだのも、私だ。

 戦うことを選んだのも、私だ。

 でも、それは正しかったのだろうか。


 美咲を突き放したことは、正しかったのだろうか。

 冷たくなることは、強くなることなのだろうか。

 感情を失うことは、必要なことだったのだろうか。


 梨央は、答えを見つけられなかった。

 ただ、疑問だけが残った。

 重く、暗く、心を締め付けるような疑問。


 一週間後、梨央のスマートフォンにメッセージが届いた。

 桐島美咲からだった。

『梨央さん。あれから、考えました。あなたの言う通り、自分で立ち上がります。弁護士を雇いました。神城家を訴えます。でも、一つだけ教えてください。武器が欲しいんです。どうやって戦えばいいのか』


 梨央は、メッセージを読んだ。

 そして、しばらく考えた。

 美咲は、立ち上がった。

 一人で。

 誰の助けもなしに。


 それは、正しい選択だ。

 梨央は、返信した。

『明日、午後三時。水野法律事務所で会いましょう。武器を渡します。でも、戦うのはあなた自身です』


 送信ボタンを押す。

 梨央は、窓の外を見た。

 東京の夜景が、静かに輝いていた。


 翌日、梨央は水野法律事務所にいた。

 会議室には、美咲が座っていた。

 そして、水野弁護士も。

 梨央は、席に着いた。


「美咲さん、来てくれましたね」

 美咲は、頷いた。

「はい。あれから、ずっと考えました。そして、決めました。戦います」

 梨央は、美咲を見た。


 彼女の目には、以前とは違う光があった。

 決意の光。

 恐怖はまだある。

 でも、それを超えようとする意志。


「わかりました。では、武器を渡します」

 梨央は、タブレットを取り出した。

 そして、画面を美咲に見せた。

「これが、証拠の集め方です」


 画面には、詳細なチェックリストが表示されていた。

 医療記録の請求方法、証言者の探し方、物的証拠の保全方法。

 全てが、ステップバイステップで説明されていた。


「そして、これが弁護士との協力方法です」

 次の画面には、法的戦略が記載されていた。

 訴訟の進め方、和解交渉のタイミング、メディアへのアプローチ。


「最後に、これがメディア戦略です」

 SNSの使い方、記者会見の開き方、世論の動かし方。

 全てが、梨央の経験に基づいていた。


「これが、私が使った武器です。あなたも、使ってください」

 美咲は、画面を見つめた。

 そして、涙を流した。

「ありがとうございます...」


「でも、覚えておいてください」梨央は言った。「戦うのは、あなた自身です。私は、方法を示すだけ」

 美咲は、強く頷いた。

「わかりました。自分で、戦います」


 水野弁護士が、言った。

「美咲さん、私も全力でサポートします」

「ありがとうございます」

 美咲は、梨央を見た。


「梨央さん、一つだけ聞いてもいいですか?」

「何ですか?」

「あなたは、後悔していますか? こんなに冷たくなってしまったこと」

 梨央は、しばらく沈黙した。


 そして、静かに答えた。

「わかりません。でも、これが私の選んだ道です」

「私は...あなたみたいに冷たくなりたくない」

 梨央は、美咲を見た。


「ならないでください」

 美咲は、驚いた。

「え...?」

「あなたは、感情を持ったまま戦ってください。怒り、泣き、笑いながら」


「でも、それじゃ弱く...」

「違います」梨央は言った。「それが、本当の強さです」

 美咲は、梨央を見つめた。


 そして、気づいた。

 この人は、本当は強くなりたくなかったんだ。

 冷たくなりたくなかったんだ。

 でも、そうするしかなかったんだ。


「梨央さん...」

「時間です」梨央は立ち上がった。「私は、これで失礼します」

「待ってください」

 美咲は、立ち上がった。


「もし、私が勝てたら...また会えますか?」

 梨央は、振り返った。

 そして、わずかに微笑んだ。

 完全な笑顔ではない。

 でも、確かに口角が上がった。


「会いましょう。その時は、勝利を祝って」

 美咲は、涙を流しながら笑った。

「はい!」


 梨央は、去った。

 会議室を出て、エレベーターに乗った。

 一階に降り、ビルを出た。

 外は、冷たい風が吹いていた。


 梨央は、歩き始めた。

 そして、思った。

 美咲は、私とは違う道を歩む。

 感情を持ったまま、戦う道を。


 それは、正しい選択かもしれない。

 私が失った道。

 私が選べなかった道。


 梨央は、立ち止まった。

 そして、空を見上げた。

 冬の空は、澄んでいた。


 私は、冷たくなった。

 でも、それでいいのかな。

 本当に、それが正しかったのかな。


 答えは、まだ見つからない。

 でも、今は――

 少しだけ、疑問を持つことができた。


 それだけで、十分だ。

 梨央は、歩き続けた。

 前を向いて。

 でも、時々振り返りながら。


 自分が何を失い、何を得たのか。

 それを、考えながら。


第10話 了


次回、第11話「最後の審判」

蓮は最後の抵抗を試みる。メディアを使い、梨央を攻撃しようとする。だが、梨央は既に全てを掌握していた。そして、蓮は社会的に完全に抹殺される。二人の最後の対峙。そこで明らかになる、真実。

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