第9話 長すぎる詠唱と、喉飴

「……偉大なる、炎の精霊よ……我が声に応え……」


 ソフィアが杖を掲げ、長い呪文を唱えている。

 だが、その声はカスカスだ。

 まるで老婆のような嗄(しゃが)れた声で、途切れ途切れになっている。


「……敵を、焼き……ゲホッ、ゲホッ!」


 詠唱の途中で彼女は激しく咳き込んだ。

 その瞬間、杖の先に集まりかけていた魔力が霧散する。

 魔法の発動失敗(フィズ)だ。


「おい、何やってんだ! 早く撃て!」


 前衛でオークの群れを食い止めているエルザが怒鳴る。

 ソフィアは涙目で咳き込みながら、必死に喉を押さえていた。


「う、うるさいわね……! ちょっと喉が……イガイガするだけよ……!」


 彼女は強がっているが、限界だ。

 宮廷魔術師の使う高等魔法は、一言一句正確な発音と、長く複雑な詠唱を必要とする。

 ここ数日、張り切って大魔法を連発しすぎたせいで、彼女の喉はボロボロになっていた。


 俺は木陰から彼女を「鑑定」する。


 【ソフィアの声帯】

 【状態:重度の炎症、粘膜の乾燥】

 【注記:次の詠唱で声が裏返り、魔法が暴発する危険性あり】


 まずいな。

 魔法使いにとって、喉は杖と同じくらい重要な「発動体」だ。

 このまま無理をすれば、魔法が失敗するだけでなく、彼女の声が出なくなるかもしれない。

 そうなれば、ただの杖を持った非力な女性だ。オークの餌食になる。


「一旦下がるぞ! 立て直す!」


 エルザが指示を出し、俺たちは一時撤退した。

 安全な岩場まで戻り、休憩を取る。


「はぁ……はぁ……最悪だわ……」


 ソフィアは岩に背を預け、悔しそうに唇を噛んでいた。

 水筒の水を飲んでいるが、喉の痛みは引かないらしい。

 彼女は自分のポケットを探るが、携帯食料の干し肉しかない。

 今の喉であんな硬いものを食えば、さらに悪化する。


 俺はリュックの奥から、小さな瓶を取り出した。

 中に入っているのは、琥珀色の粒だ。

 『蜂蜜と薬草の特製ドロップ』。

 喉の痛みに効く『スロート草』の煮汁と、保湿効果の高い『森蜂の蜂蜜』を混ぜて固めたものだ。

 仕上げに、清涼感のある『ハッカ油』を一滴垂らしてある。


 これをどうやって渡すか。

 「喉にいい飴です」と言って渡しても、彼女は「平民の作った怪しい薬なんて」と疑うかもしれない。

 それに、俺が彼女の喉の不調を心配していると思われるのも癪だ。


 俺は彼女がエルザと話している隙を狙った。

 彼女が脱いで置いていた予備のローブ。

 そのポケットに、紙に包んだドロップを二粒、素早く滑り込ませる。

 自然に。元から入っていたかのように。


「……よし、行くぞ。オークどもが追ってくる前に片付ける」


 エルザが立ち上がった。

 ソフィアも杖をついて立ち上がるが、顔色は悪い。


「大丈夫か? 無理なら私が一人でやるが」

「馬鹿にしないで。これくらい……なんともないわ」


 ソフィアはローブを羽織り、ポケットに手を入れた。

 杖の滑り止めの粉を探そうとしたのだろう。

 だが、彼女の指先が触れたのは、見慣れない紙包みだった。


「……?」


 彼女はそれを怪訝そうに取り出す。

 包みを開くと、甘い香りが漂う琥珀色の粒が出てきた。


「これ……いつの間に?」


 彼女は首を傾げる。

 だが、その甘い香りが、乾いた喉を強烈に刺激したのだろう。

 彼女は無意識に生唾を飲み込み、周囲を見渡した。

 誰も見ていない(と彼女は思った)。

 彼女は迷わず、その粒を口に放り込んだ。


 瞬間。

 彼女の目が丸くなる。


「んっ……!」


 口の中に広がる濃厚な蜂蜜の甘さと、スロート草の薬効成分。

 そして、ハッカの清涼感が鼻に抜ける。

 イガイガしていた喉の粘膜が、冷たい水で洗われるように鎮静化していく。

 痛みがない。

 声帯が潤いの膜でコーティングされたような感覚だ。


「……すごい」


 彼女は小さく呟き、喉をさすった。

 飴はまだ口の中にある。

 溶け出した成分が、常に喉を癒やし続けている。


「グルルル……」


 オークたちが現れた。

 さっきよりも数が増えている。

 エルザが剣を構えるが、多勢に無勢だ。


「ソフィア! 一発でかいの頼む!」

「ええ、任せて」


 ソフィアが一歩前に出た。

 その声には、さっきまでの掠れがない。

 透き通るような、鈴を転がすような美声だ。


「深淵より来たりて、我が意に従え。赤き蓮華(れんげ)となりて咲き誇れ!」


 詠唱が始まる。

 長く、複雑な抑揚を必要とする呪文。

 彼女の唇は滑らかに動き、一音たりとも狂わない。

 口の中の飴が、潤滑油の役割を果たしている。


「全てを灰燼に帰せ! 『クリムゾン・エクスプロージョン』!」


 最後の言葉が高らかに響き渡る。

 杖の先から、太陽のような熱塊が放たれた。

 それはオークの群れの中心に着弾し、視界を白く染め上げるほどの大爆発を起こした。


 ドゴォォォォォン!!


 衝撃波が木々をなぎ倒す。

 オークたちは悲鳴を上げる暇もなく蒸発した。

 圧倒的な火力。

 完全な詠唱がもたらした、魔力の一滴も無駄にしない最高効率の魔法だった。


「……ふふっ」


 ソフィアは杖を下ろし、満足げに微笑んだ。

 まだ口の中に残っている飴を、カリリと噛み砕く。


「見た? これが本気よ」

「お、おう……すげえな。さっきまで死にそうだったのに」


 エルザが引いている。

 ソフィアは髪をかき上げ、自信満々に言った。


「私の魔力が喉をコーティングして、一時的に強化したのよ。一流の魔術師は、肉体すら魔力で補強できるの」

「へえ、便利だな魔法使いってのは」


 嘘だ。

 ただの蜂蜜と薬草のおかげだ。

 だが、彼女は本気でそう信じ込んでいるらしい。

 ポケットに入っていた飴のことは「昔買った高級な菓子が残っていたのね、ラッキー」程度にしか考えていないようだ。


「さて、帰りましょうか。お腹が空いたわ」


 ソフィアは上機嫌で歩き出す。

 その声は最後までクリアだった。


 俺は背後でこっそりとガッツポーズをする。

 飴の在庫はまだある。

 これからも、彼女が長い詠唱を始める前には、こっそりとポケットに補給しておけばいい。

 魔術師の喉は、俺の飴で守られる。

 彼女が「自分の魔力のおかげ」と勘違いし続ける限り、俺の仕事は安泰だ。

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