第7話 『〜新しい暮らし〜 』

 翌日、チェックアウトを済ませた私は、先輩の運転する車でホテルを後にした。

 完璧に整備されたリゾートエリアの芝生や、原色の花々が遠ざかり、代わりに生活の匂いを帯びた色あせた街並みが近づいてくる。道沿いには、ペンキの剥げた商店や、洗濯物がはためくアパートメント、そして現地の人々がバスを待つ姿が見え始めた。

 先輩は「マンション」と説明していたが、車が停まったその場所は、私の想像とは少し違っていた。

 坂の中腹、古い石垣の上に建つその建物は、コンクリート打ちっ放しの無機質な外観をしている。元は倉庫か何かだったのだろうか。それをリノベーションして、小洒落たコワーキングスペースとして貸し出している物件のようだった。

「一階が仕事場で、二階が生活スペースだ。……まあ、見ての通り飾り気はないけど」

 先輩がガラスのドアを押し開けると、カランコロンと南国らしい乾いたチャイムの音が響いた。

 中に入ると、外の湿った熱気とは裏腹に、よく冷えた乾いた空気が肌を包んだ。

 一階は、奥行きのあるワンフロアのオフィスになっていた。

 壁際は作り付けの棚になっており、そこには仕事の履歴と思しきファイルの束や、現地の地図、観光パンフレットなどがぎっしりと詰め込まれている。

 部屋の奥には、広いデスクと複数のモニターが鎮座し、その周囲には処理待ちとおぼしき書類の塔が幾重にもそびえ立っていた。

 そこは紛れもなく、彼がこの二年間、異国の地で築き上げてきた「現場」だった。

 印刷された書類束と、コピー用紙の匂い。そして微かに残るコーヒーの香り。

 それらが混ざり合った独特の空気の中に立つと、ここがリゾート地であることを忘れそうになる。

「結衣の部屋はこっち。上がって」

 脇にある鉄製の階段を、靴音を響かせて上る。

 二階の重いドアを開けると、そこには生活の空間が広がっていた。

 こじんまりとしたキッチン兼ダイニング。シンクは磨かれているが、水切り籠には洗い終えたマグカップが一つだけ伏せてある。

 さらに奥の扉を開ければ、シャワーとトイレが一体になった白いユニットバス。

 その隣に、六畳ほどのフローリングの部屋が一つあった。

「ここを使って」

 通されたのは、ほとんど手付かずの部屋だった。

 南向きの窓から、午後の光が床に長く伸びている。

 フローリングの床に、オフホワイトの壁紙。

 まるで、大学生が初めての一人暮らしを始めた時の空っぽの部屋みたいだ。少し頼りなく、けれどこれから何色にでも染められる自由な空気が漂っている。

 初めて入った場所なのにどこか懐かしい気配がする。不思議と胸が落ち着いた。

 

 ――そうか。学生時代の感覚に似てるんだ。

 はじめて友人の家に招かれたときのような、くすぐったい高揚感が胸に広がった。

「俺は下で、仕事場のソファベッドで寝てるから。こっちの部屋はほとんど使ってない。好きに使っていいよ」

 窓を開けて風を通しながら、先輩が何気なく言った。

 その言葉の意味を咀嚼するのに、数秒かかった。

「……え? 先輩、下で寝てるんですか?」

「うん。最初はここ、滞在客の荷物を預かるトランクルーム的なサービスにでも使おうと思って空けてたんだけどね」

 先輩は窓枠に手をかけ、苦笑いしながら続けた。

「実際やってみたらぜんぜん需要がなくてさ。それに、荷物を預かるリスクを負うより、ホテルに運送しちゃったほうが早いし安全だって気づいたんだ」

 言われてから気づいたが、一階のオフィスの隅に、パーティションで隠すように置かれた折りたたみ式のソファがあったのを思い出した。その上には、几帳面に畳まれた掛け物が置かれていた。

 あの几帳面さが、かえって彼の一人暮らしのストイックさ、あるいは侘しさを際立たせているようだ。

 ただ、すぐに別の事実に思い当たり、トクン、と心臓が跳ねた。

 ――空いてる部屋があるって、そういう意味じゃなかったのか。

 先輩は別の住居があって、私だけ仕事場の空き部屋に下宿するような形を想像していた。

 しかし現実は、仕事場と直結したこの建物で、彼が一階、私が二階。

 これは実質、同棲に近いのではないか。

 急に部屋の空気が熱を帯びたように感じられた。

 先輩は、というと、そんなこちらの動揺に気づく様子もなく、淡々とキッチンの棚を整理し、私用のスペースを空けてくれている。

 気にしていないのだろうか。

 いや、普通は気にするはずだ。下宿の大学生ならいざ知らず、四十前の精神を持つ男女が、一つ屋根の下なのだから。

 でも、ここで私が「これって同棲ですよね?」などと確認して、意識過剰だと思われるのも恥ずかしい。かといって、平然としすぎるのも図太い気がする。

 結衣は何とか平静を装い、「持ってきたカップ洗いますね」とキッチンへ逃げた。

 冷たい水に指を浸しながら、火照った頬を冷ますように小さく息を吐いた。

 

 その日のうちに、残り一週間滞在予定だったホテルを正式にキャンセルした。

 驚いたことに、短縮した分の宿泊費が、まるでデポジットのように現金で手元に戻ってきた。

 現地の通貨であるパシフィック・フランの札束を受け取り、私は目を丸くした。

「えっ、キャンセル料とか引かれないんですか?」

 すると先輩は、それほど悪びれもせず、答えた。

「いや、それ正規の返金じゃないんだ。俺が別の日本人観光客に、その部屋の権利を譲ったのさ。ホテルを通さず、個人間でね。ちょっとした代理取引ってやつ」

「……それ、合法なんですか?」

「んー、グレーゾーンだね。でもウィンウィンだろ? 客は安く泊まれるし、君はお金が戻ってくる」

 さらりと言ってのける先輩の横顔に、結衣は引きつった笑みを返すしかなかった。

 かつての真面目で慎重な彼なら、決してしなかったような方法だろう。

 けれど、そうやって清濁併せ呑んで、この異国の地で生き抜いてきたのだ。その逞しさが、今の彼を作っている。

 私はそのお札を、大切に財布にしまった。

 その現金を持って、私たちは近くの量販店へ向かった。

 観光客の姿はない、地元の家族連れで賑わうホームセンターだ。

 特売になっていた組み立て式のパイプベッドと、薄いマットレス。それにシーツと枕、最低限の日用品を買い込んだ。

 カートを押して歩く先輩の後ろ姿を見ながら、ふと不思議な感覚に陥る。

 まるで新婚生活の買い出しみたいだ――なんて甘いものではない。

 もっと切実で、地に足のついた「生活」の準備。

 部屋に戻り、二人で汗をかきながらベッドを組み立てた。説明書はフランス語だったが、図解と合わせて見ればなんとかなる。

 ネジを回す金属音と、先輩の指示する声が響く。

 ベッドが完成し、シーツをかけ終える頃には、窓の外は夕焼けに染まっていた。

 

 その夜。

 二階のベッドに横になると、階下から微かな音が聞こえてきた。

 カタ、カタ、タプ……。

 わずかに聞こえるのは、先輩がキーボードを叩く音だ。

 一定のリズムで刻まれるその音は、まるで雨だれのように静かで、心地よかった。

 

 ひとりじゃない。

 その事実が、不安な夜を温かいものに変えていく。

 こうして、私たちの奇妙な共同生活が幕を開けた。

          

 仕事の初日は、想像していたような優雅なものではなく、文字通り「戦場」への投入から始まった。

 朝、キッチンにコーヒーの香りが漂うのと同時に、先輩はすでにタブレット片手に戦闘モードに入っていた。

 マグカップを片手に、流れるようにスケジュールを確認していく。

「おはよう、結衣。よく眠れた?」

「はい、おかげさまで。……あの、何か手伝うことは」

「助かる。早速なんだけど、来週、医療センターに入院する日本人のご夫婦がいるんだ。施術を受けるのは旦那さんの方で、奥さんは付き添い。その準備で渡航書類と手術の同意書、翻訳をお願いできるかな。今のうちに準備しておきたい」

 渡されたのは、フランス語で書かれた厚みのある書類の束だった。

 同意書、免責事項、術後のケアプラン。専門用語が羅列された紙の重みに、身が引き締まる。

 私は一階のデスクの一角を借りて、自分のパソコンを開いた。

 スキャナで書類を読み込み、業務用の翻訳ソフトにかける。画面上には、瞬時に整った日本語が表示された。

 一昔前ならこれで完成だったかもしれない。AIの翻訳精度は飛躍的に向上している。

 けれど、先輩はコーヒーを啜りながら言った。

「ソフトの訳は早いけど、そのままじゃ使えない。一応、意味は通じるけどね」

 私は一文ずつ、原文と照らし合わせる作業に入った。

 たとえば、フランス語で《Intervention(アンテルヴァンシオン)》。

 辞書的な意味は「介入、干渉」だが、医療の現場では「手術、処置」を指す。

 ソフトはこれを機械的に「施術」と訳していた。

 だが、文脈を読めば、それは医師が患者の患部に触れ、治癒へと導く行為を指している。この書類を読むのは、不安を抱えて日本から来た高齢の夫婦だ。「施術」という冷たい響きでいいのだろうか。

 私はカーソルを戻し、「手当て」と打ち直した。

 また、ある一文では《Effets secondaires(エフェ・スゴンダール)》が出てくる。「二次的な作用」、つまり副作用を指す言葉だが、ソフトは文脈によって「随伴症状」といった硬い訳語を当ててくることがある。

 どちらも間違いではない。けれど、手術を受ける側にとって、その言葉が持つ重さはまるで違う。予期せぬ事態への恐怖を煽るのではなく、リスクを正しく理解してもらうための言葉を選ばなければならない。

 言葉の隙間に落ちている「不安」を拾い上げ、適切な日本語に乗せ換えていく。

 それは、根気のいる作業だった。

 けれど、かつて私が会社でこなしていた業務とは違う充実感があった。

 ここには、明確に「相手」がいる。

 昼を少し過ぎたころ、ふいに背後から影が落ちた。

「ここの訳、いいね」

 いつの間にか先輩が背後に立ち、ディスプレイを覗き込んでいた。

 指さされたのは、《Surveillance(シュルヴェイアンス)》という単語の訳だ。本来は「監視」や「監督」といった強い意味を持つ言葉だが、医療においては術後のフォローアップを意味する。

「“経過観察”……。うん、いい言葉だよ。ただ“様子を見る”とするより、ずっとニュアンスが合ってる。医学的な正確さと、患者への配慮のバランスがいい」

 思わず手が止まり、肩が小さく跳ねた。

 褒められるなんて、いつ以来だろう。

 病気になってからは、「申し訳ありません」と謝ってばかりだった。

「……ありがとうございます」

 返した声が、自分でも驚くほど柔らかく響いた。

 午後からは、先輩は顧客の送迎や折衝のために外出した。

 広いオフィスに一人残される。

 静寂の中、キーボードを叩く自分の音だけが響く。時折、通りから車のクラクションや、乾いた風に乗って潮騒が聞こえてくる。

 ふと顔を上げると、西日が白い壁に反射し、部屋全体が黄金色に浮き上がっているように見えた。

 あっという間に夕暮れが訪れていた。

 机の上には、翻訳を終えて整然と積まれた書類の束。

 疲れはあったが、それは心地よい重みだった。

 ようやく「誰かに必要とされている」という感覚を、この手の中に取り戻せた。その実感が、何よりの報酬だった。

 翌日、氷室から「事務所のメンバーを紹介する」と告げられた。

 どんな人物が現れるのかと身構えていた私の前に現れたのは、意外なほど対照的な二人組だった。

 一人は、初日に空港から施設へ送ってくれた現地の少年。

 もう一人は、退院の日に黒い車でホテルまで送ってくれた、あの初老の日本人男性だ。

「松井茂久(まついしげひさ)と申します」

 短く刈り込んだ白髪の頭を下げ、男性は律儀に挨拶をした。

 六十歳くらいだろうか。背筋がピンと伸びていて、真っ白なポロシャツはきっちりアイロンがけがしてありピンと伸びている。

 ラフな格好のはずなのに、不思議と崩れた印象がない。その清潔感のある身なりに、彼がこの仕事にかける矜持が見て取れる。

「松井さんは、俺の会社の要だよ。顧客の送迎や、難しいお客さんの対応をお願いしてる」

 先輩の紹介に、松井さんは「買い被りですよ」と、少し相好を崩した。

 仕事中は厳しい表情をしていたが、ふと緩んだその目尻には、長い人生の酸いも甘いも噛み分けたような、気さくな温かさが滲んでいた。

「エリオール=ネプです。……よろしく、おねがいします」

 少年――エリオールは、少し緊張した面持ちで、たどたどしいが丁寧な日本語を紡いだ。

 彼は松井さんがこの島に来た当初にお世話になった現地家族の息子だという。

 今は仕事をあちこち手伝いながら、松井さんからビジネスのために日本語を教わっているらしい。

 浅黒い肌に、輝くような白い歯。まだあどけなさが残る瞳だが、そこには「仕事を覚えたい」という真剣な熱意が宿っている。

 事務所にある車は二台。

 一台はエリオールが運転する小型車で、荷物の運搬やスタッフの移動、買い出しなどに使われる。

 もう一台は、松井さんがハンドルを握るシルバーのステーションワゴンで、こちらは顧客の送迎専用だ。威圧感のない明るい色合いだが、足腰の弱い患者でも乗り降りしやすいよう、手入れの行き届いた車両だった。私の迎えに使った黒色のセダンは、必要な時だけ借りるらしい。なんでも、お金持ちの顧客中には、迎えの車にまで格式を求めるものなんだとか。


「この翻訳、結衣さんがやったんですか?」

 松井さんが、私が昨日仕上げた書類を手に取り、老眼鏡の奥で目を細めた。

「……助かります。実はこれまで、氷室さんが大急ぎで作った直訳に近いものを使うこともあって、お客様への説明に苦労していたんです。これなら、年配の方にも安心して読んでいただけます」

「すごい、です。これ、ベンキョウになります」

 エリオールも横から覗き込み、感嘆の声を漏らして、慌てて敬語に直した。

 その様子を見て、先輩が声をあげて笑った。

「ほら、言っただろ? 結衣は優秀なんだ」

「じゃあ、シゲさん。午後の空港便、お迎えお願いします。フライト情報はタブレットに送ってあります」

「分かりました。……エリオ、荷物の積み込みを手伝ってくれ」

「ハイ!」

 二人は慣れた様子で準備を始めた。

 ――シゲさん、エリオ。

 自然と呼び交わされるその名を聞きながら、私も心の中でそう呼んでみる。

 氷室先輩が営業と全体管理を行い、シゲさんが安全にお客を運び、エリオが足を使って現場を走り回る。

 小さな事務所だ。

 大手企業のような分業も、充実した福利厚生もない。

 誰か一人が欠ければ、たちまち機能しなくなるような脆い組織かもしれない。

 けれど、互いの足りない部分を自然と補い合い、支え合う空気が、そこには確かにあった。

 私がいた企業の、無機質な歯車としての職場とは違う。

 ここは、人の体温で動いている。

 その輪の中に、四人目として加えられたこと。

 それが、結衣には何よりも新鮮で、嬉しかった。

 窓の外では、海沿いの通りが夕陽に染まり始めている。

 夕陽の光が、今日という一日を柔らかく包み込んでいた。

 こうして、私の新しい暮らしが、幕を開けた。

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