闇の魔王を萌え殺し〜底辺ボカロP、音楽のない世界で時代を作る〜

更科キノ

第一幕

ep01. 音のない世界

 俺の名前は松任屋碧まつとうやあお

 

 誰を連想した?

 ……そうだよな。やっぱり思い浮かぶのはあの人だ。

 

「お前さぁ。苗字はそんなに立派なのに、音は普通だよな。音楽なのに、音に楽しさがないんだよ」


 通ってる音大の嫌な講師はこんなことを言ってくる。

 そんなの俺が一番わかってるよ。

 だけど、俺はあの人とは全く関係がない。

 たまたま苗字が同じなだけで何者でもない。

 おとなになっても奇蹟なんか起きやしない。


 音大では知識は増える。けれどこの苗字は、勝手に期待の音も連れてくる。

 あいつには特別な才能があるらしい、とか。

 音楽業界に特別なコネがあってデビューが決まってるんじゃないか、とか。

 でも、現実は違う。

 ここでは、俺は”特別”ではないんだ。


 俺は〈AmPエーマイナーピー〉という名前でボカロPをやっている。

 数字はだいたい二桁再生。たまに動画の上に流れるコメントは「悪くない」「普通にいい」とか。

 みんながくれる言葉は尖った針みたいに鋭くはない。

 でも、ぐるぐる回る毎日の中で、同じ場所を擦られて――すり減っていく痛みはある。

 ここでも、俺は”誰か”ではないんだ。


 それでもやめられないのは、俺は俺の音を世界に伝えたいからだ。

 ノートパソコンのファンが回り出し、打ち込みのドラムにベースが腹に落ち、和音がいい感じに積み上がっていく。

 それを聞き直す瞬間だけ、俺は誰の名前にも頼らずに立っていられる。


 大学が終わると俺は、駅前のカフェでバイトをしている。

 今日も閉店間際、フロアを拭いていたら、テレビからニュースが流れた。

 俺と同い年の国民的アイドル白兎しらといなばが、ドーム公演を成功させたという。

 インタビューで彼女は、まっすぐにカメラを見て言い切る。

 

「音楽は、世界をちょっぴり良くできます」

 

 ――まさに、『完璧で究極のアイドル様』だ。

 

 俺は、世界をちょっぴり良くできない〈音〉を、どれくらい出してきただろう。


 終電ひとつ前の時間、シンクを磨いて上がる。

 店長が「お疲れ」と言い、カウンターの奥で売上を数えている。

 外に出ると、空気は少し冷えて、飲み会帰りのサラリーマンやコンパ帰りの学生――街は楽しそうな喧騒の渦の中にあった。

 俺はイヤホンを耳に挿して、自分の未完成の曲を再生した。

 昨日、夜中の3時に、半分寝ながら打ち込んだやつ。


 ――普通に悪くない。

 ――でも、特別に良くもない。


 サビの一歩手前で、旋律が躊躇している。

 曲が進むのを恐れて、足を止めている。俺自身みたいに。

 

 俺がノイズキャンセルをオンにすると、世界がすっと遠のく。

 

 ――俺は、現実の音を消して生きている。

 

 ノイズキャンセルは、現代の魔法だ。

 

 外の音を消して残るのは、自分が作った電子音の波だけ。世界の音なんて、聞こえなくていい。

 この世界には、神様なんていないんだ。


 横断歩道で信号待ちの人の背中を眺めながら、ひとり想う。

 

 ――松任屋なんて苗字じゃなかったら、もっと楽だったのかな。

 

 そんなはず、ない。

 名前が変わっても、俺は俺のままだ。

 でも、たまに思ってしまう。

 “本物”を連想させる名前だけが、俺を唯一、“現実”に繋ぎ止めているんじゃないかって。


 ポケットのスマホが震えて、通知がひとつ。

 投稿サイトからのお知らせ「今日の視聴は3件です」を明るい色で教えてくる。

 世界は広い。俺の〈音〉が届く場所は狭い。

 ――それでも通知をスクショしてしまう自分が嫌だ。

 小さな証拠でも持っていないと、いつか自分が世界にミュートされてしまいそうで。


 青信号に変わった。

 白黒の鍵盤に人の波が流れ、靴音だけが拍になる。

 

 交差点の真ん中でふと見上げると、巨大ビジョンが今日2度目の白兎しらといなばを映し出す。

 俺と同じ年。

 同じ誕生日。

 同じ地球。

 違う才能。


「ずっと、このままで、いいの?」

 

 頭のどこかで、そんな声がした。

 このままでいいわけがない。そんなことはわかっている。じゃあ、どうしろっていうんだよ。

 

 ――いや。そんなことを考えても仕方ない。


 イヤホンの中で鳴る未完成の仮メロに、鼻歌を重ねる。

 (ここで転調して、あえてベタにいくのはどうだ。ダサいは正しい。正しいは強い)

 思考が音になりかけた、そのとき。


 白い影が視界の端をかすめた。

 耳の長い、ありえない速さの、白。


 ――うさぎ?


 都心の交差点に、白いうさぎ。

 現実味がなさすぎて、歩みがわずかに鈍る。

 イヤホンの中で、サビのドラムが一拍遅れて跳ねた気がした。

 白い影は斜め前を横切り、車線に滑り込む。

 反射的に、俺は半歩、身を引いた。


 ヘッドライトが強く瞬いた。

 クラクションの音。

 誰かの叫び声。

 ブレーキの摩擦音。

 それらの音は俺には聞こえなかった。

 目の前の光と体の衝撃だけが、異様に鮮やかに残り、頭の奥で鈍く響いた。


 その瞬間、頭の中で未完成のサビが、はっきり輪郭を持った。

 ああ、ここだ。

 ここで、転ぶように一段上がる。

 ベタでいい、真っ直ぐでいい。

 

 (世界が鳴るまで、俺は歌うよ)


 俺は、名前に追いつきたくて。

 凡人のまま、届かせたくて。

 世界に、俺の音を――。


「その音を鳴らすあなたは、だれ?」


 どこかで聞いたことのある、女の人の声がする。


 俺は――。


 そこで音が、途切れた。


 ……。


 ……………………。


 目を開けた瞬間、世界が鳴っていた。

 

 ――風の音。木々のざわめき。鳥の羽ばたき。


 耳を刺すように、生々しい。

 ヘッドホンを外したみたいに、音が一気に押し寄せてきた。


 体を起こそうとして、思わず息をのむ。

 そこは見知らぬ森だった。

 都会ではまず出会うことのない湿った草の匂い、遠くで流れる水の音。

 どこか現実離れしているのに、感覚だけはやけに鮮やかだ。

 

 ――夢か? それとも、運び込まれた先の病院か?


 さっきの交差点が脳裏をよぎる。

 光。衝撃。声。

 あの女の人の声が、耳の奥にまだ残っている。

 

「その音を鳴らすあなたは、だれ?」

 

 何度思い返しても、その〈声〉だけが現実よりもリアルだった。


 ――いや、そんなことより、さっきの曲。ヤバい、めっちゃ良かった。

 

 忘れないうちに早くメモらないと。

 スマホ――はない。

 ノート――もない。


「何かメモを取れるものは……」

「ん? これでいい?」


 ふと古びたノートとペンが差し出される。

 

「あ。ありがとう」


 俺はさっきのメロディを忘れないように夢中でノートに書き殴る。


「ラーララーララ、ラーラー。うん。いい感じだ」


 ひと通りメロディを書き留めて、立ち上がると、違和感に気づいた。


 ――ここは、どこだ。


「ふふふ。一生懸命だったね」


 横で声がする。その声はやわらかくて、風より軽かった。

 そこにいたのは、白い髪と赤い目、長い耳をもつ少女だった。

 ピンと伸びた長い耳が、風に揺れている。

 ……うさぎ?

 見た目は10代後半、だが目の奥の色はどこか人間より澄んでいた。


「今の、あなたの口から出たの?」

「え、あ、いや……鼻歌というか」

「ハナゥタ? なにそれ?」

 

 彼女が小首を傾げる。

 目を瞬かせる俺をじっと見つめながら、さらに問いかけてくる。

 

「それ……魔法? それとも、呪い?」

 

 そう言って、彼女の耳がピンと立った。

 真剣な表情だ。話を聞くと、どうやら、彼女には〈歌〉という概念がないらしい。


 世界が、歌を知らない――。

 ぞくりとした。

 俺がいま“鳴らした”のは、きっとこの世界ではあり得ない音だった。


 ――それが、俺とこの世界の最初のズレだった。


 ノートにメロディを書き終えたころ、森の奥から低い唸りが聞こえた。

 空気が一枚ざらつく。音が立つ――複数。

 犬のような、いや、もっと荒い獣の息づかいだ。


「やばい、〈森犬モリーヌ〉だ」

 

 自分を〈兎人種ラビットイヤー〉のアルブと名乗った少女は小さく呟いた。

 

「子どもといる親の〈森犬モリーヌ〉はとくに気が荒いの」


 確かに、茂みの向こうで光る目が6つ。

 息が低く鳴っている。低音。

 重心が落ちて、地面がかすかに震えた。

 

(……犬はゆったりした音楽でリラックスすると聞いたことがあるな……やってみるか)


 とはいえ怖いことに変わりはない。周りにも聞こえそうな動悸の音を押し殺し、出来るだけ喉の奥で息を整えて、軽くハミングする。

 

 「るーー、るるーー」

 

 シンプルなメロディ。

 風が、少し丸くなる。

 アルブの耳が一度だけ震え、〈森犬モリーヌ〉の足音が半歩だけゆるんだ。

 まるで、緊張の糸が一瞬、たわんだように。


 俺はさらに音を続ける。

 「怖くない」と音で伝えるように。

 空気の密度が少し変わる。

 唸りが半音下がり、爪が土を掻く間隔が広がる。


「今の……何?」


 アルブが目を見開いた。

 

「怒りの匂いが、すこし薄れた。何をしているの?」

「……〈歌〉だよ」

「ウタ?」

「この世界には、ないのか」


 アルブがこくりと首を傾げる。

 俺はもう一度、深呼吸をしてから、短く言葉をのせた。


「――だいじょうぶ」


 その二音を乗せた瞬間、風が鳴り方を変えた。

 梢がリズムを刻むように揺れ、〈森犬モリーヌ〉の唸りがさらに低くなる。

 音が合う。

 呼吸が合う。

 世界のテンポがひとつ、ゆるんで、安らぐ。


 親犬が鼻を鳴らし、子犬を前に押し出した。

 子犬はおそるおそる俺の指先を嗅ぎ、尻尾を小さく振る。

 彼女が息をのんだまま呟く。

 

「……怖くなくなった。ねえ、これって魔法?」

「さあ。俺の世界では〈音楽〉って言ってたけど」

「オンガク……」

 

 アルブはその言葉を転がすように繰り返し、耳をぴくぴく動かした。

 

「いい音だね」


 親犬が子どもを連れて森の奥へ帰っていく。

 風のリズムもゆっくりとほどけていった。

 

 ――これが、最初の“萌え殺し”だった。

 

 〈森犬モリーヌ〉の牙をしまわせただけの、小さな奇蹟。

 けれどこの瞬間、世界は確かに一音ぶん、やさしくなった。


「私にもできるかな?」

「なら、試してみよう。リズムで呼吸を合わせれば、きっと届く」

「リズム?」

「うん。こうだ――俺が『ラー』って歌う。君は『うん』って返して」

「うん!」


 森の奥で、ふたたび風がざわめいた。

 ハミングと、返事。

 音と、答え。

 世界が、少しずつ鳴りはじめる。


「なんだか、楽しい。ぽわぽわするね」

「そうだな。音楽は楽しいもんだ」


(そう。音楽は楽しいもんだ)

 

「ねぇ。この〈音〉で……〈闇の魔王〉を止められたりしないかな」

「やみの……まおう……?」

「うん。〈闇の魔王〉アルバストル。この世界を真っ暗にしようとしてる悪いやつだよ」


 闇の魔王? まさか、ここは異世界というやつなのか?


 ――音楽は、世界をちょっぴり良くできます。

 

 俺は白兎しらといなばの言葉を思い出した。


「闇の魔王を止められるかはわからないけど、音楽は、世界をちょっぴり良くできるかもな」

「そうだよね! でもきっと、アルバストルも止められるよ!」


 アルブは、耳をぴょこんと動かしながら、嬉しそうに言った。魔王……全然想像がつかない……。

 

「それじゃ、改めて。あなたの名前は?」

「あ。そっか。えっと、俺は……松任屋……じゃなくて、アオ。――アオ・マイナ」

「アオ……? 変わった名前だね。でも、こんなところで何をしていたの?」

 

 こうして、世界に――俺の〈音〉が少しだけ鳴りはじめた。

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