第13話:剥がされた布、砕かれた希望 ~「綺麗だ」という言葉は、私の耳には届かない~


王都の夜は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。


石畳に落ちた月明かりが、冷たく青白い光の道を作り出している。


先ほどまで胃袋を満たしていた温かいスープの熱気も、夜風に吹かれて少しずつ冷めていく。


だが、瞬(しゅん)の心の中だけは、真夏の太陽が照りつけるようにポカポカと暖かかった。


いや、むしろ沸騰していた。



(来た。ついに来たぞ、これぞ英雄の休日!)



瞬は隣を歩く小柄な少女、メイを盗み見た。


彼女はまだ、ボロボロの布で顔の半分を隠している。


だが、その隙間から覗く口元は、さっきの食事の余韻で少しだけ緩んでいた。


瞬にとって、世界は自分中心に回る舞台装置だ。


この静かな夜道も、月明かりも、すべては自分とこのミステリアスな少女の距離を縮めるために用意された演出に過ぎない。



「どう? お腹いっぱいになった?」


瞬が軽快に尋ねると、メイはビクリと肩を震わせ、それから小さく頷いた。


「……はい。あんなに温かいもの、久しぶりに食べました」


「だろ? あの屋台の親父、味はいいんだよ、顔は岩石みたいだけど」


瞬が冗談を言うと、メイの口元から「ふふ」と、鈴が転がるような小さな音が漏れた。


その瞬間、瞬の脳内でファンファーレが鳴り響く。



(笑った! クララが立った並の衝撃! 俺のトークスキル、神がかってる!)



有頂天の極みにある瞬には見えていなかった。


メイが笑ったその直後、すぐに表情を引き締め、怯えるように自分の胸元を握りしめたことを。


彼女にとって「安心する」ことは、猛毒を飲むのと同じくらい恐ろしいことだった。


「この温もりが続けばいいのに」と期待した瞬間、裏切られた時の痛みが確定するからだ。


それでも、胃袋に収まったシチューの温かさは、頑なな心の氷を、ほんの数ミリだけ溶かしていた。



二人は、街の中央にある噴水広場へと差し掛かった。


昼間は子供たちの遊び場だが、今は誰もいない。


中央に据えられた女神像の壺から、澄んだ水がこんこんと湧き出し、水面に落ちては波紋を広げている。


サラサラ、チョロチョロという水音だけが支配する空間。


風が運んでくるのは、湿った石の匂いと、どこかの庭で咲いている夜光花の甘く濃厚な香り。


月は高く昇り、世界をモノクロームの影絵に変えていた。



「座ろうか」


瞬がベンチを指差す。


メイは一瞬躊躇したが、満腹感と疲労、そして瞬の底抜けの明るさに絆され、恐る恐る隣に腰を下ろした。


距離は、拳二つ分。


近すぎず、遠すぎない微妙な距離。


瞬は夜空を見上げ、大げさに伸びをした。


「あー、食った食った。ねえ、君さ、これから行くあてはあるの?」


メイは膝の上で手を固く組んだまま、首を横に振った。


「……いいえ。私はただ、人のいないところへ行こうと」


「人のいないところ? もったいない! こんなに広い世界なのに」


瞬は身を乗り出した。


「俺さ、この街に来て思ったんだ。楽しいことって、探せばいくらでも転がってるって。美味しいご飯とか、綺麗な景色とか。君もさ、隠れてないで、もっと堂々とすればいいのに」



堂々と。


その言葉が、メイの胸に鋭い棘のように刺さった。


それができれば苦労はしない。


それが許されないから、こうして泥のように生きているのだ。


「……私には、無理です」


「なんで?」


「私は……普通じゃないから」


「普通?」


瞬はきょとんとした顔をした。


そして、ニカっと笑った。


「普通なんてつまんないじゃん! 俺なんて見てよ、来る日も来る日も規格外って言われてるぜ? でも、それが俺の個性だし!」



悪気はなかった。


瞬にとっての「規格外」とは、「優れすぎている」という意味の褒め言葉だ。


しかし、メイにとっての「普通じゃない」とは、「生存を許されない異物」という意味だった。


言葉は同じでも、二人が見ている辞書は決定的に違っていた。



だが、瞬の無邪気な声色は、メイに誤った希望を抱かせた。


(この人は、規格外だと言う。常識に縛られない人なのかもしれない。もしかしたら、この人なら……私の『呪い』を見ても、笑い飛ばしてくれるんじゃないか?)


それは、溺れる者が掴んだ一本の藁のような、儚く脆い期待だった。


渇ききった喉に、一滴の水が垂らされたような感覚。


メイは、布を押さえる手の力を少しだけ緩めた。



その変化を、瞬は見逃さなかった。


いや、都合よく解釈した。


(お? これはチャンスか? 心の扉、ギギーッと開いちゃってる感じか? よし、ここで一気に畳み掛けるのが主人公の務め!)


好奇心という名の怪物が、瞬の中で鎌首をもたげた。


彼は純粋に見たかったのだ。


この守ってあげたくなる少女の素顔を。


きっと、とびきりの美少女に違いない。


片目を隠しているのは、何か中二病的なカッコいい理由か、あるいはちょっとした古傷を気にしているだけだろう。


俺なら、その傷ごと受け入れてあげられる。


そんな、根拠のない自信。



「ねえ」


瞬が声を甘くした。


噴水の水音が、やけに大きく響く。


「その布、取ってみせてよ。ずっと気になってたんだ」


メイの体が強張る。


「……だめ、です」


「なんで? 火傷かなにかしてるの? 俺治せるかも」


「見たら……きっと、後悔します」


「しないよ! 俺、グロいのも平気だし……って、まさか顔に封印された龍がいるとか?」


瞬は茶化して場を和ませようとした。


だが、メイは震えている。


「あなたにだけは……嫌われたくないんです」



消え入りそうな声。


それは、メイが初めて口にした「執着」の言葉だった。


嫌われたくない。


この心地よい時間を失いたくない。


だからこそ、見せられない。



しかし、瞬はその言葉を「恥じらっている」と翻訳した。


(嫌われたくない、だと!? それってつまり、俺のこと意識してるってことじゃん! うおおお、燃えてきた!)


有頂天になった思考回路は、ブレーキを踏むことを忘れていた。


彼は「良かれと思って」行動に出た。


彼女のコンプレックスを、俺が笑い飛ばして解放してやるんだ。


そう、これは「救済」だ。



「大丈夫だって。俺を信じろよ」


瞬は、素早く、まるで悪戯っ子のように手を伸ばした。


メイが反応するよりも速く。


その指先が、メイの顔を覆う粗末な布の端を掴む。



「あ……」



制止の声は間に合わなかった。


瞬の指が布を引く。


摩擦の音もなく、布はハラリと舞い落ちた。



一瞬、時が止まった。


雲の切れ間から差し込んだ月光が、スポットライトのようにメイの顔を照らし出した。


整った鼻筋、震える唇。


そして、左目に宿る、この世のものとは思えない色彩。



鮮烈な、紫。


深いアメジストの輝きを秘めた瞳が、夜の闇の中で妖しく、そして痛々しいほどに美しく発光していた。


それは、人間が持つにはあまりに異質で、あまりに神秘的な色だった。



瞬は息を呑んだ。


その瞳に吸い込まれそうになった。


彼の思考は、真っ白に染まった。


「化け物」なんて感想は、一ミリも浮かばなかった。


ただ純粋に、美術品を見た時のような感動が彼を貫いた。



「うわ……」



瞬の口から、無意識の吐息が漏れる。


見開かれた目。


半開きになった口。


彼は驚きのあまり、次の言葉を紡ぐのにコンマ数秒の遅れをとった。


彼の心にあったのは「すごい」「綺麗だ」「宝石みたいだ」という称賛の嵐だった。



しかし。


メイの目に映ったのは、まったく別の光景だった。



彼女が見たのは、瞬が**「目を見開いて、絶句し、硬直した」**姿だった。


その表情は、かつて彼女を石で追った村人たちの表情と、完全に重なった。


ハーベストの村長が見せた驚愕。


ガルドが見せた恐怖。


騎士団長が見せた嫌悪。


それらの記憶(データ)が、瞬時にメイの脳内で検索され、目の前の瞬の表情に「タグ付け」を行った。



――ああ、やっぱり。


――この人も、同じだ。



瞬の口が「き(れい)」という音を作る前に、メイの心は、その言葉を「き(もちわるい)」と予期し、補完してしまった。


事実は一つ。


紫の瞳が露わになったこと。


だが、そこから生まれた現実は、二人の間で残酷なほどに乖離していた。



瞬は「美」を見た。


メイは「拒絶」を見た。



パリン、と。


メイの中で、数分前に生まれたばかりの淡い希望が、ガラス細工のように粉々に砕け散った。


その音は、誰にも聞こえない。


けれど、メイの魂を引き裂くには十分な轟音だった。


期待したから。


「この人なら」と願ってしまったから。


その反動で押し寄せた絶望は、これまでのどの裏切りよりも深く、鋭く、彼女の胸を抉った。



「……っ!」



メイの顔が、くしゃりと歪んだ。


それは泣き顔というよりも、痛みに耐える子供のような、悲痛な表情だった。


彼女の両目から、大粒の涙が溢れ出す。


紫の瞳が涙で潤み、月光を乱反射してさらに妖しく輝く。


それがまた、皮肉にも瞬を魅了する。



「待っ……」


瞬がようやく我に返り、手を伸ばそうとした。


しかし、メイは弾かれたようにベンチから立ち上がった。



「見ないで!!」



その叫びは、悲鳴だった。


拒絶の叫びであり、自分自身を守るための最後の防壁だった。


メイは脱兎のごとく駆け出した。


布を拾うことさえ忘れ、顔を両手で覆いながら、闇の中へと。



「え? は? なんで?」


瞬はベンチに取り残された。


手の中には、メイから奪った薄汚れた布だけが残っている。


布からは、かすかに彼女の髪の匂いと、日向の匂いがした。



「ちょ、待ってよ! 俺、別に……!」


瞬は慌てて立ち上がる。


意味がわからなかった。


なぜ逃げる? 俺はただ、綺麗だと思って……。


いや、待てよ。


あの子、もしかして「すっぴんを見られたくない」的な恥ずかしさで逃げたのか?


それとも、俺の手つきがいやらしかったか?



瞬の思考は、まだ平和な「勘違い」の中にあった。


彼は、メイが今、心臓をナイフでえぐられるような思いで走っていることなど、想像もできていなかった。


彼は「有頂天」という名の夢の中にいて、彼女は「地獄」という名の現実にいる。


同じ場所にいながら、二人は全く別の世界に住んでいたのだ。



噴水の水音が、変わらず響いている。


だが、その音はもう心地よいせせらぎではなく、二人の断絶を埋める冷たいノイズのように聞こえた。



「くそっ、追いかけなきゃ!」


瞬は布を握りしめ、走り出した。


メイが消えた闇の方向へ。


しかし、夜の帳は深く、逃げ足の速い少女の姿はすでにどこにもなかった。



風が強くなり始めていた。


木々のざわめきが、「取り返しのつかないことをしたぞ」と瞬を嘲笑っているようだった。


空を見上げると、先ほどまで美しく輝いていた月が、分厚い雨雲に飲み込まれようとしていた。



嵐が来る。


天気予報ではなく、運命の嵐が。


瞬はまだ知らない。


自分が無邪気に剥がしたその布が、パンドラの箱の蓋だったことを。


そして、その箱の底に残っているはずの「希望」さえも、自分の手で砕いてしまったかもしれないことを。



ポツリ、と。


冷たい雨粒が一つ、瞬の頬を叩いた。


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