第33話 欲望3
「うぎゃああああああっ!」
剣人が老婆と同じくらいか、もっと大きな声を上げ、あんなに強く掴んでいた未遊の手をあっさり離すと、真っ先に反対方向へと走って行く。
これも、すごいスピード。
(逃げないと!)
未遊も慌ててその後を追い、走り出した。
「あしぃぃ! よごせえええ!」
叫ぶような声。
老婆は二人の後を、スコップ片手に、かなりのスピードで走ってくる。
カンカン、ががが、とたまにスコップが何処かに当たる音がする。
老婆とは思えないスピードだ。
ぼんやりとした外灯だけが灯る、冷ややかな団地の中を、二人と一人は駆け抜ける。
が、少しもしないで。
「いたあ!」
剣人が情けない高い声をあげ、地面へと転がった。
どうやらなにかに躓いて転んだらしい。
「大丈夫? 江利くん!」
未遊はそう駆け寄ろうとしたけれど、止めた。
「こら! 追ってきなさいよ!」
剣人から離れた方向に未遊が走り出すと、思った通り、老婆は未遊の後を追ってきた。
「あしイ!」
(女の人を狙ってるっていうのは、本当だったんだ!)
未遊は後ろを気にしながら、再び走り出す。
が、少しもしないで気がついた。
すごいスピードで追って来ていると思ったけれど、それは最初だけだったようだ。
年のせいか、身体が痛むのか、スコップが重いのか、二人の間にどんどん距離が空く。
もしくは、声や動きに恐怖を感じ、彼女が速い速度で追いかけてきている、と思わされていただけかもしれない。
闇に目が慣れてきた未遊には余裕が出てきた。
閉鎖された空間でもないし、このまま団地を抜けて逃げきるのは、難しいことではない気がする。
(でも、江利くんはどうしたかな)
未遊はそのまま団地の建物を大きく回って、剣人が転んだであろう場所へ戻ってみた。
……と、彼はいなくなっていた。
土地勘もないし、団地はとにかく同じような場所が続いているけれど、転んだ拍子に落としたのだろう、園芸用のハサミが落ちていたので、間違いない、と思う。
(逃げてくれたんだよね……? たぶん)
追ってくる老婆との距離はかなりあったので、ハサミを拾い、周囲を見回す余裕も、未遊にはあった。
この辺りには誰もいないようだ。
でも、もしかしたら、息を殺し、隠れている可能性もあるかもしれない。
(歩けなくなるほど、足を痛めたかもしれないし……)
もしくは未遊のことを、待っている可能性だって、まったくないとは言い切れない。
今は怖くて隠れたままなだけで。
(連絡先……)
知っている。
でも今は連絡するほどの余裕はないし、連絡することにより、音で、老婆に隠れている場所が見つかってしまうかもしれない。
(それに……)
未遊には気になってしょうがない。
あの疲れ果てた老婆が、自分を見失った後、どうするのか。
未遊は、背の高い植え込みの角を曲がり、老婆が見えなくなっていることを確認してから、団地の建物の中へと逃げ込んだ。
建物の入口の階段にはロープが張ってあったけれど、そんなたるんでいるロープをくぐるのは簡単だ。
(後は足音だけ気をつければ……)
きっと、バレていない。
壁に身を寄せしゃがみ込み、隠れる。
老婆は未遊を追って……通り過ぎなかった。
なんと、静寂。
(気づかれた? ……そりゃあ、この辺だろうって見当はつくか……)
ここで見失ったのだから、この辺りを重点的に探すはず。
そこまで未遊に固執するならば、の話だけれど。
そんなことまで考えないで、つい好奇心から隠れてしまったことを、ちょっとだけ後悔した。
未遊の計算違いは、もう一つあった。
団地の建物内は、思った以上に足音が響くということだ。
人が誰もいないから、尚更。
ほんの少し動いただけでも、とにかく音が気になる。
(これじゃあ、移動ができない)
(や、靴を脱げば、なんとか……)
靴下を通しても、コンクリートは冷たいけれど、そこは我慢するしかない。
かと言って、どっちに向かえばいいのかも、また難しい選択だ。
団地の建物は何箇所からも入れるようになっているので、追い詰められることはない、と思うけれど、同時にそれは、色々な場所から回り込める、ということでもある。
ひたすら息を潜め、周囲を警戒し、ちょっとずつ移動する。
向こうも息を潜めているのだろうか。
もしくはもう、この辺りから消え失せているのだろうか。
あるいは既に、未遊のことを見つけていて……
あり得ないと思うのに、後ろだけでなく、上も警戒する。
団地の壁は薄汚れていて、黒ずみが顔に見える箇所も結構あって、その度にドキリとした。
老婆の気配は、驚くほど、ない。
それにしても、
(静かで……暗い)
寒気がする。
古い団地の通路は年季が入っていて、外から見ているのとは、また違った不気味さがある。
通路にの明かりはまだ薄暗くも灯っているけれど、切れている電灯も放置されているし、長く向こうへ伸びている直線が、なんとも言えない不安を煽る。
未遊だって、人並みに怖いものは怖いのだ。
老婆の姿を目視できれば、まだ良かったのだろうが、あのスコップの音すら、まったく聞こえない。
(見失って諦めたのかな? それとも……)
何度も、もう向こうから見つかっている想像をしてしまう。
まさか、背後に。
不安で、何度も後ろを振り返るが、誰もいない。
それを、何度も何度も、繰り返してしまう。
(このままじゃ、埒が明かない)
時間にして、隠れて何分ほど経っただろうか。
たぶん、思ったより、長い時間でもなかったと思うけれど。
(もう逃げよう)
未遊は決意する。
これ以上は緊張感が続かないし、寒くもなってきた。
なに、自分のほうが走る速度は早いのだから、追いつかれる心配はない。
ただ、待ち伏せされていたら怖いので、逃げる経路は慎重に選びたい。
未遊には土地勘がないので、変な方向に向かうと、道に迷ってしまう可能性もあるけれど、どちらに進もうが、団地の外には人通りがあるはず。
後はもう、出ていくタイミングだ。
と。
(あ)
いた。
一体これまで、どこにいたのか。
ずりずりとスコップを引き摺る低い音の後に、あの老婆が、とぼとぼと背を丸めて歩いていく姿を見つけ、やっと未遊はほっと息をついた。
距離はあるけれど、息遣いが聞こえてしまうかもしれないし、口元を抑える。
(見つからないようにしないと)
未遊が見えているということは、向こうにも見える可能性があるということだ。
しかもここは、向こうよりも明るいし、
(もし今、振り返ったら……)
気が付かれるかもしれない。
(でも、もしそうなったら、全力ダッシュで逃げよう)
そのためにも、また靴を履かなければ、と思って、やっと自分の手が震えていることに気がついた。
寒さもあるかもしれないけれど。
(怖い……)
未遊は老婆をじっと見送った。
目を離して、また見失っては大変だ。
そして彼女は。
……老婆の後を追ったのだった。
老婆を見送り、駅まで戻ってから、未遊は剣人にメッセージを入れた。
『大丈夫? 帰った?』
返信はすぐにあった。
『今、家。伊坂は大丈夫?』
よかった。
普通に、ほっとする。
『今は駅。大丈夫だよ』
『置いて帰ってごめん。足、捻っちゃったもんだから』
『気にしないで。こっちこそ、ごめんね』
そこで、剣人からの返信は途切れた。
(またやっちゃった……)
随分前だけれど、前にも同じように、自分の好奇心から友だちに怪我をさせてしまったことがある。
(それに、お姉ちゃんだって……)
未遊には生まれたばかりの頃、姉がいた。
そして自分の好奇心から、もう一度、姉を失ったのだ、きっと。
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