第4話 勝った夜と、夜ふけの常連たち
その日、俺は終電ゲームに勝った。
……はずだった。
デスクの端に、レシートが一枚うつぶせで置いてある。
白い紙の裏に、ボールペンで細い字。
『勝った夜に寄り道できた日は、ボーナスステージ』
(……何がボーナスだよ)
ため息混じりに、ひとりで笑う。
昨日、あのカフェでもらったレシートだ。
スーツの内ポケットに突っ込んで、そのまま机に放り出していた。
腕時計は、21時50分。
(まっすぐ帰れば、今日はちゃんと“勝ち”だな)
パソコンを落として、ロッカーから鞄を引っ張り出す。
フロアを出て、エレベーターを降り、ビルの外に出た。
冷たい夜風が、ネクタイのすき間に入り込む。
新橋駅へ向かう人の流れに足を乗せる。
改札を抜ければ、そのまま勝ち逃げできる夜だ。
改札の手前で、足が止まった。
さっきのレシートの一文が、頭の中で勝手に浮かぶ。
『勝った夜に寄り道できた日は、ボーナスステージ』
(……本当にボーナスかどうか、確認してやろうか)
気づいたときには、改札とは逆方向に歩いていた。
ガラス越しにオレンジ色の灯りがにじむ、あの路地の奥。
引き戸に手をかける。
からん、とベルが鳴った。
「いらっしゃいませ――あ、こんばんは」
カウンターの中でマグカップを拭いていた望月が、顔を上げる。
「今日は……勝ちました?」
「え?」
「終電ゲーム。顔がいつもより、ちょっとだけマシなので」
思わず、自分の頬に触る。
「そんなに分かりやすいですか、負け顔」
「分かりますよ。今日は“ギリ勝ち”の顔です」
望月は、カウンター奥の席を顎で示した。
「いつもの席、空いてます。ギリ勝ち専用席ってことで」
「また適当なこと言ってません?」
「今できたサービスです」
適当なことを言いながらも、目だけは少し楽しそうだった。
促されるまま、奥の端の席に腰を下ろす。
「やわらかめブレンドでいいですか?」
「はい。同じので」
「はーい。勝った夜のやわらかめブレンドですね」
豆を挽く音が、店内に小さく響く。
客は数人。みんな、黙ってカップを見ている。
ここだけ、昼とは別のステージみたいだ。
「終電に勝った日に、ここ来る人って他にもいるんですか」
湯を落とす音を聞きながら、なんとなく聞いてみる。
「いますよ。たまに」
望月はドリップポットから細い湯を落としながら、肩をすくめた。
「勝ったのに、わざわざ負け筋に来る人たち」
「負け筋?」
「帰宅時間的には、完全に負けじゃないですか。ここ寄ると」
たしかに。
「でも、“ちょっとだけ遊べるステージ”に寄り道できる日って、そんなに多くないですよ」
そう言って、カップを差し出してくる。
やわらかめブレンドの香りが、ふっと鼻先をくすぐった。
「昼と夜、どっちのほうがマシですか?」
ひと口飲んだところで、不意に聞かれる。
「また急ですね」
「勝った日に寄り道してくる人には、だいたい聞いてます」
「アンケートですか」
「ゆるい調査です」
少し考えてから、正直に答えた。
「……夜のほうが、まだマシかもしれないです」
「それは、ここがあるから?」
「たぶん」
そう言うと、望月は少しだけ目を細める。
「じゃあ、夜の持ち場はうちで預かっておきます」
「持ち場?」
「昼は会社とか家とか、ちゃんと“大人の場所”。夜はここで、“今日の分を一旦終わらせる場所”ってことで」
「終わらせる場所」
「はい。ここ入ったら、“今日の分はここまで”って決める」
望月は、自分のこめかみに指をあてた。
「ここ出たあと、ちょっとだけ楽になりますよ。切り替えの練習になるんで」
「そんなうまくいきます?」
「毎日は無理ですけど」
口元だけで笑う。
「でも、“ここに来たら終わりにする”ってルール作っちゃうと、意外と人間って単純なんですよ」
「望月さんは? 昼と夜、どっちのほうがマシですか」
聞き返すと、望月は一瞬だけ目線を落とした。
「……どっちも、あんまり得意じゃないです」
「その答え、ありなんですか」
「ありです」
苦笑いしながら、短く付け足す。
「昼は、大人の顔しないといけない場所が多いので」
「大人の顔?」
「言っちゃいけないこと、笑っちゃいけないタイミング、泣いちゃいけない暗転」
また、舞台っぽい単語をさり気なく混ぜてくる。
「夜は?」
「夜は、ここで勝手に拍手してます」
望月は、カウンターの下あたりを指さした。
「この辺で、こっそり。“今日もよく生き延びました”って」
心臓の奥を、指先で軽く突かれたみたいな感覚がした。
「……それ、こっそりなんですか」
「言っちゃったので、もうこっそりじゃないですね」
そう言って笑った顔は、仕事用と素顔の中間みたいに見えた。
カップの底が見え始めた頃、スマホが震えた。
会社のチャットの通知が、画面の上に一瞬だけ浮かぶ。
“やっぱり明日の朝イチで相談いい?”というメッセージ。
見なかったことにして、画面を伏せた。
ここは“今日の分を終わらせる場所”だと、さっき自分で聞いたばかりだ。
「……そろそろ、帰ります」
「はい。勝った夜ですし」
望月は、いつものようにトレイにレシートを置いて差し出す。
「今日の一言、そんなに上手くなくても怒らないでくださいね」
「ハードル上げましたっけ、俺」
「若干」
鞄から財布を取り出し、小銭を探す。
名刺入れが少しずれて、中の一枚がトレイの下に滑り落ちたことには、気づかなかった。
ガラス戸を開け、路地に一歩出る。
「足元、気をつけてくださいね。勝った夜に転ぶと、普通にダサいので」
背中越しに、望月の声が飛んできた。
「気をつけます」
細い路地を抜けて振り返ると、曇りガラスの向こうでオレンジ色の灯りがにじんでいる。
胸ポケットからレシートを取り出し、裏側を見る。
『勝った夜に寄り道できる人は、ちょっとだけチート』
(……やっぱり、ずるいな)
笑いながら、レシートを財布に押し込んだ。
そのころ、ミッドナイトラダーのカウンターの足元。
トレイの影から、名刺が一枚、ひっそりと顔を出している。
ガラス戸のベルが鳴りやんだあとで、望月がそれに気づいた。
「……あ」
しゃがみ込んで名刺を拾い上げる。
白い地に、会社名とロゴ。
その下に、黒い文字で名前が印刷されていた。
『朝倉 柊也』
小さく読み上げてから、会社名に目を落とす。
指先で名刺の角を軽くたたきながら、カウンターの奥の席――さっきまで俺が座っていた場所を、ほんの少しだけ長く見つめた。
その表情を、このときの俺はまだ知らない。
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