第二部 海の上 ― 動き続ける世界
第4章 辞令
運航管理部での半年間の研修を終えた隼人に、思いがけない辞令が下った。
「田中君、君には来月から、シンガポール航路に乗船してもらう」
佐藤部長から告げられた言葉に、隼人は一瞬耳を疑った。NOLが誇る最新鋭のコンテナ船「NOLフェニックス」に同乗し、横浜からシンガポールまでの航海を通じて、現場のオペレーションデータと船員の声を収集する特別プロジェクトへの参加が命じられたのだ。
「陸上の我々にとって、現場での経験は何物にも代えがたい財産になる」と佐藤は言った。「机上の理論と、実際の海の上で何が起きているのか。そのギャップを肌で感じてきてほしい。それが、将来、君がより良い判断を下すための礎になるはずだ 」
それは、NOLが伝統的に重視してきた、陸上職と海上職の相互理解を深めるための重要なプログラムだった。隼人の心は、期待と不安で高鳴った。これまでモニター越しに見ていた光点が、今、現実の巨大な船として彼の前に現れようとしている。理論を学んだチェス盤から、実際に駒が動くフィールドへ。隼人の本当の教育が、今、始まろうとしていた。
第5章 船上生活 ― 鋼鉄の島の住人たち
横浜港大黒ふ頭。隼人は、目の前にそびえ立つ「NOLフェニックス」の威容に息をのんだ。全長400メートルに迫る船体は、巨大なビルが横たわっているかのようだ。タラップを上がり、船内に足を踏み入れると、そこには陸とは全く異なる、一つの独立した社会が広がっていた。
隼人はまず、この鋼鉄の島を統べる主要な乗組員たちに紹介された。船長の鈴木は、日に焼けた顔に深い皺を刻んだ、寡黙だが威厳のあるベテランだった。機関長の海野は、油の匂いが染みついた作業着を着こなし、エンジンルームを自らの王国のように語る、現場一筋の技術者だ。そして、隼人と年齢の近い二等航海士の健司は、最新の航海機器を自在に操る、快活な若者だった。
船上での生活は、陸とは全く異なるリズムで動いていた。隼人はまず、船のオペレーションを担う二つの主要な職種、航海士と機関士の仕事の違いを目の当たりにする。
ブリッジでは、航海士たちが24時間体制で船の安全を守っていた。彼らの勤務は
「三直制」と呼ばれ、1日24時間を3つのチームが8時間ずつ交代で担当する 。4時間勤務して8時間休憩、というサイクルを繰り返すのだ 。彼らの主な任務は、航海当直、安全な航路の維持、そして寄港地での貨物の積み下ろしを監督する荷役当直だ 。彼らの目は常に船の外、つまり広大な海、変化する天候、そして複雑な貨物管理に向けられている。
一方、船の心臓部であるエンジンルームでは、機関士たちが全く異なる働き方をしていた。通常航海中の機関室は「M0(エムゼロ)運転」という無人運転方式が採用されており、機関士たちは日中に整備や点検作業を行い、夜間はアラームシステムに監視を任せる 。彼らは、巨大な主機関から発電機、船内のあらゆる機械設備の専門家であり、船という巨大なプラントを動かすエンジニアだ 。彼らの目は常に船の内側、つまり複雑な機械のコンディションに向けられている。
食堂(メスルーム)での会話は、隼人にとって船員たちの生活を知る貴重な機会となった。彼らは、例えば「70日間乗船し、22日間休暇」といった長期契約で働いている 。その生活は、高給という魅力がある一方で、家族と長期間離れ、閉鎖された空間で暮らすという大きな犠牲を伴う。
「この仕事で一番きついのは、時化でもなく、機械の故障でもない。人間関係だよ」
あるベテランの甲板員が、冗談めかして言った。船内では、10代の若者から60代のベテランまで、様々な世代と背景を持つ人々が共同生活を送る。どんなに気の合わない相手でも、毎日顔を合わせなければならず、逃げ場はない 。だからこそ、互いを尊重し、協力し合う文化が何よりも重要になるのだという。
隼人は、船が単なる鉄の塊ではなく、独自の文化と社会規範を持つ、生きたコミュニティであることを実感した。航海を司る「甲板部」と、動力を司る「機関部」。その機能的な役割分担は、時にプロフェッショナルとしての矜持がぶつかり合う、健全なライバル関係を生むこともあった。陸のオフィスでの人間関係とは全く異なる、濃密で、時に過酷な人間模様がそこにはあった。この鋼鉄の島で生き抜くためには、専門技術と同じくらい、あるいはそれ以上に、人間としての強さと柔軟性が求められるのだ。
第6章 巨人の解剖学
「NOLフェニックス」での日々は、隼人にとって巨大な機械の内部を探検するような毎日だった。
二等航海士の健司は、隼人をブリッジへと案内した。ガラス張りの広大な空間は、まるで宇宙船のコックピットのようだ。健司が指し示したのは、正面の窓に様々な情報が投影される最新の航法支援システムだった。
「これがARナビゲーションシステムです。夜間や霧で視界が悪い時でも、他の船の位置や航路、浅瀬などの危険箇所が、実際の風景に重ねて表示されるんです。ヒューマンエラーを劇的に減らしてくれます 」
隼人は、伝統的な海図や羅針盤のイメージが、いかに古いものであるかを思い知らされた。現代の航海は、高度なデジタル技術によって支えられているのだ。
次に隼人を待っていたのは、機関長の海野が支配するエンジンルームだった。ハッチを開けた瞬間、轟音と熱気が全身を包み込む。そこは、数階建てのビルに匹敵する巨大な空間で、船の心臓部である主機関が大地を揺るがすような重低音を響かせていた。
「ここは浮かぶ発電所みたいなもんだ」と、海野は耳元で怒鳴るように言った。「このメインエンジンが出すパワーで、あの巨大なプロペラを回す。船内の電気を全て賄う発電機も、生活に必要な水を作る造水機も、全部俺たちの管理下にある。こいつらの機嫌を損ねたら、この船はただの鉄クズだ 」
機関士たちが、五感を研ぎ澄ませ、機械のわずかな異音や振動、温度の変化からトラブルの予兆を読み取ろうとしている姿に、隼人は深い感銘を受けた。そこは、デジタル化されたブリッジとは対照的な、人間の経験と勘が支配する、アナログで力強い世界だった。
船が寄港地に着くと、隼人はまた別の光景を目にする。ブリッジのウィングから見下ろすと、岸壁では巨大なガントリークレーンが、まるでキリンのように首を伸ばし、コンテナを次々と吊り上げていく 。その作業を担う港湾労働者の一団は「ギャング」と呼ばれていた 。船上では、甲板員たちがコンテナを船体に固定する「ラッシング」作業に汗を流していた。無数のワイヤーやターンバックルを使い、山と積まれたコンテナが、航海中の激しい揺れでも荷崩れしないよう、頑強に固縛していくのだ 。この地道で過酷な作業が、貨物の安全を支えている。
隼人は、この船が、最先端のデジタル技術と、巨大でパワフルな機械工学、そして人間の熟練した肉体労働という、全く異なる要素が奇跡的なバランスで統合されたシステムであることを理解した。ブリッジの静寂と、エンジンルームの轟音。ARディスプレイの洗練されたインターフェースと、油にまみれた機関士の手。その両極端な世界が共存し、連携することで、この巨人は大海原を航行できるのだ。それは、海運業そのものが持つ、古代から続く伝統と、未来を切り拓く革新性という二面性を象徴しているようだった。
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