月と夕
ますたーぴーせ
1
私の人生の分岐点は、きっとこの夜だと思う。
静岡の街灯は、東京よりも柔らかく滲んで見えた。
大寒の夜、雲ひとつない空に、満月が山の冠のように光っている。
森の匂いと薄い空気。標高のせいか、指先がすぐに冷えた。
親戚の勤務先――山あいの病院は、思っていたより小さく静かだった。
「屋上で月が見たい」と言ってみたものの、北風ばかりが強く、そろそろ引き上げようと扉へ向かった――
その時。
非常灯の奥で、白い布が翻った。
病衣の裾だった。
柵の網目に足をかける少年。
何が起こっているか分からない。
考えるより先に、私は駆け出していた。
「……何してるの!」
自分の声が、冷たい空気の中でやけに遠く響いた。
思わず、彼の後ろ襟をぎゅっと掴む。
その子は何も言うことなく、まるで何かに取り憑かれたように、ただ柵にしがみついている。
「何を…しているの?」
冷たい風のせいなのか、それとも違うのか。
私の手は、声は、確かに震えていた。
彼が、ゆっくりとこちらに振り返る。
月明かりに照らされて、茶っけのある髪が白く輝いている。
目が離せなかった。
まるで野良猫のような、不信そのものを纏った瞳に見つめられた。
怖いけど、それでも飛び降りだけは阻止しなければと思った。
「……っあ」
彼の口から漏れた白い息は、このどこか寂しい夜に溶け込んでいった。
息の残影を、私と共に振り切るようにして、走って中に入ってしまった。
手を跳ね除けられた時、少し驚いた。
細身なのに、見かけによらず力が強かったから。
「……っていう事があって」
親戚の夏花さんの車の中で、さっきの出来事を話した。
「あの子は、ちょっと事情があって」
「事情?」
「家庭でも、学校でも酷く当たられて。……可哀想な子なの」
「……それ、言っていいの? 守秘義務とか、いろいろ」
鋭く、遮るような声。
聞きたくなかった。
名前も知らない人の、やけに生々しい痛みを。
共感してしまうのが怖くて、守秘義務という言葉の後ろに逃げ隠れた。
その卑怯さが、嫌でたまらなかった。
「誰にも話さないでね」と夏花さんに言われたあと、窓に映る自分の顔をしばらく見ていた。
街の街頭を過ぎる度、顔に影がかかったり、逆に光が強く当たったりする。
ふと、ビルとビルの狭間から一瞬見えた満月に、思わず目を奪われた。
澄んだ光が、自分の髪に淡く吸い込まれる。
冷たい月光に照らされて、あの男の子の顔が頭を過った。
思い返すと、どうしてあんな事をしたのだろう。
怖かったのもあるんだろうけれど、やっぱりそれでは腑に落ちない。
もしくは、自己満足でしかない正義感に動かされて――
「瑠奈ちゃん」
トッカ、トッカ。
ウィンカーの音で、我に返った。
もう考えるのはよそう。
「え?」
声が裏返って、間の抜けた返事をしてしまった。
「プフッ…あはははっ!」
夏花さんの笑い声が、軽の中で大きく響く。
「やめてよ、もう…」
自分でも、笑みが溢れる程に驚く。
2人して笑っていると、後ろからクラクションが苛立ったように連打されていた。
信号を見ると、とっくに青に変わっている。
「夏花さん、信号」
「っえ? あ…」
ハンドルを握り直して、アクセルが強く踏まれる。
「そんなだと、免許取られちゃうよ」
冗談のつもりだった。
けれど、彼女の笑顔は引きつって見える。
「そうなの。この前も、スピード違反で1点加点されちゃって」
「本当に免許取られちゃうんじゃ…」
「それだと別の仕事を探さないと行けなくなるから」
車は、大通りから枝分かれする道に曲がって、坂を上がっていく。
「瑠奈ちゃんは受験、どこ受けるの?」
あまり受験の話はしたくない。
住んでいるマンションに一番近い私立校に行こうと思っているけど、私はそこまで頭が良い訳でもない。
勉強も嫌いだし、中学で部活に入っていた訳でもないから推薦も取れなかった。
「一応、B校を」
「頑張ってね。勉強は休みながらでいいから」
「うん」
まだ、胸がざわついたままだ。
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