英国風世界で、願いを叶える洋服仕立てます(※ただし願いは選べません)

@kossori_013

第1話 糸を紡ぐ者

糸と願いの仕立て屋 第一章 糸を紡ぐ者


時計台の鐘が三度鳴り響き、その音が霧に沈んだロンドンの街を這うように伝わっていった。アーサー・グレイは工房の窓辺に立ち、月光を吸い込んだ銀糸を指先でそっと撫でる。糸はひんやりと冷たいが、生き物のように彼の体温へ反応し、かすかに震えた。窓の外ではガス灯の橙色の光が霧を照らし、街全体が薄絹のヴェールをまとったかのように見えた。


工房の空気には、古い木材の匂いと染料の微かな薬品臭、そして言葉にし難い“気配”——精霊たちの息遣いのようなもの——が静かに漂っていた。壁際には布地が山のように積まれている。ベルベット、シルク、リネン、ウール。それぞれが異なる触感と色合いをまとい、異なる精霊を宿している。アーサーの目には、それらが確かに見えていた。


淡く青く揺らめく水の精霊。琥珀色に煌めく火の精霊。深い森を思わせる緑の光を放つ森の精霊たち。彼らは布の繊維の間を泳ぐように漂い、時折アーサーの長い指先に触れては、戯れるように消えていく。


月が雲間から顔を覗かせると、銀糸はさらに強く輝きを増した。アーサーはその糸を窓辺に広げ、満月の光を存分に吸わせる。この糸で縫う服は、真夜中にそれを纏った者の“隠された願い”を引き出す。師であるエルドラから授かった技だ。月光、星の瞬き、明け方の薄明かり、真昼の陽光——糸は光の種類によって宿す魔力を変え、その糸で仕立てられた服に触れた者は、自覚していない真の願いが叶えられる。


柔らかな栗色の髪が月光を帯び、ふわりと銀色に輝いた。アーサーは髪を耳にかけ、作業台へ視線を移す。そこには仕上げ途中の深紅のドレスが広げられていた。依頼主はマーガレット・ヴァンダービルトという貴族夫人。浮気した夫を取り戻したい——そう言われた時、アーサーは何一つ口に出さず、ただ静かに頷いて採寸した。首筋に刻まれた皺、緩んだ手首の皮膚、そして何より彼女の瞳に潜んだ深い孤独。アーサーはその全てを見ていた。


針を取り上げる。月光を吸い込んだ銀糸を針に通し、一針また一針と縫い進める。規則正しいその動きには、何千回と繰り返してきた熟練の技が宿っていた。だがアーサーの針は単なる技術ではない。針が布地を貫く一瞬に、小さな精霊が宿り、糸を通じて彼の意識が布へと流れ込む。縫い目一つひとつが、複雑な魔法陣の欠片となっていく。


深紅のベルベットは滑らかで、しかしどこか重い。この布には情熱の精霊が宿っている。燃え上がるような赤い光が繊維の奥で脈打っていた。だがアーサーは、その情熱がマーガレットの求める“愛の回復”に繋がるとは思っていなかった。彼には見えてしまうのだ。彼女が心の底で本当に願っているものが。


——人間の願いは、いつだって表と裏を持つ。


エルドラがよく口にしていた言葉だ。口に出す願いと胸の奥底に沈む願いは、まるで別の生き物のように食い違う。マーガレットは夫の愛を取り戻したいと言った。しかし、彼女の瞳に宿る精霊が囁くのは別の一言だった。


“この苦しみから、解放されたい。”


アーサーの手が止まる。彼は針を持ったまま、深紅のドレスを静かに見つめた。襟元にはまだ刺繍が施されていない。ここにどんな意匠を縫い込むかで魔力の性質は決まる。薔薇なら愛を、棘なら痛みを、散る花びらなら終わりを意味する。アーサーは布地に触れ、目を閉じた。精霊たちの囁きが耳の奥で揺れる。


そのとき——。


扉を叩く音などなかったのに、工房の空気がわずかに揺らいだ。


アーサーは目を開け、振り返らずに言った。


「……また来客ですか、師匠。」


扉が開く。孔雀の羽で仕立てた豪奢なセンスを手に、背の高い女性が姿を現した。エルドラ・アイヴリーフォール——千年を生きる大魔女。外見は二十代ほどだが、その瞳には人間の一生など瞬きほどの出来事だと言わんばかりの、重い時間の気配が宿っている。真紅のドレスに流れるような炎の意匠。古代の様式と異国の意匠が絡み合い、見る者を奪う。


工房をひと目見て、エルドラは満足げに頷いた。


「相変わらず、気配を読むのが早い。」


「精霊たちが教えてくれますから。」

アーサーは針を置き、姿勢を正した。「今日は何のご用でしょう。」


「お前の淹れる紅茶が恋しくてな。」

エルドラは奥の応接椅子に腰を下ろし、センスを膝に乗せて彼を見た。その眼差しは慈しむようで、同時にどこか試すようでもあった。「それと、少し話がある。」


アーサーは頷き、小さな炉に火を入れた。やかんに水を注ぎ、茶葉の入った缶を取り出す。ダージリンの一番茶——師の好みだ。湯が沸くまでの間、二人は言葉を交わさなかったが、その沈黙には長い年月を共有してきた者だけが持つ、穏やかな親密さがあった。


沸き上がる湯気が月光を受け、白く揺れる。アーサーは手慣れた所作でポットに茶葉を入れ、沸騰した湯を静かに注いだ。甘いマスカットを思わせる香りが工房に広がり、疲れをほぐすように空気を満たす。


紅茶をカップに注ぎ、エルドラの前へ置く。彼女は一口含み、目を細めた。


「やはり、お前の紅茶は格別だ。」


「師匠が教えてくださったおかげです。」


「いや……」

エルドラはゆるやかに首を振った。

「技術は教えた。だが、この優しさまでは教えていない。」


アーサーは自分のカップにも紅茶を注ぎ、エルドラの向かいに腰を下ろした。彼の穏やかな瞳が、静かに師を見つめる。エルドラは時折こうして工房を訪れた。特別な用事があるわけでもなく、ただ話をするために。千年を生きた彼女にとって、人間との語らいなど刹那の慰みなのかもしれない。だがアーサーは知っていた。師が本当に求めているのは、自分と同じように精霊の姿を見る者との——言葉のいらない静かなひとときだった。


「今日、また一人、魔女が火刑に処された。」

エルドラは紅茶のカップを両手で包み、そのまま遠くを見るような眼差しを向けた。

「老婆だった。罪状は……ハーブで病人を癒したこと、らしい。」


アーサーは黙っていた。ただ、紅茶から立つ湯気を静かに見つめる。


「セディック・クロウという若い扇動者がいる。」

エルドラは静かな声で続けた。

「美しい顔をした狂信者だ。民衆を煽り、魔女と疑われた者たちを次々と裁いている。」


「存じています。」

アーサーは落ち着いた声で答えた。

「噂なら、耳に入っています。」


「お前は……止めようとは思わないのか。」


「止められると思いますか。」

アーサーは師の瞳をまっすぐ見返した。その視線には諦念でも怒りでもなく、ただ深い理解だけが宿っていた。

「彼らの信念は本物です。歪んでいようと、偽物ではない。」


エルドラは長く、静かな息を吐いた。

「千年前にも同じようなことがあった。もっとひどかった。魔女は村ごと焼かれた。」

紅茶をひとくち含み、続ける。

「だが……人は変わらない。時代が移ろい、服が変わり、街並みが変わっても、人間の本質は何一つ変わらない。」


「それが、人間なのでしょう。」


「お前は冷めているな。」

エルドラは小さく笑った。

「私が拾った頃は、もっと感情豊かな子どもだったのに。」


アーサーは答えず、工房の隅で積まれた布地に視線を投げた。

あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。森で捨てられていた幼い自分を、エルドラが拾った日のことを。


寒くて、怖くて、空腹で。子どものアーサーは泣いていた。

だが、エルドラが手を差し伸べた瞬間——周囲に無数の精霊が現れた。それを目にして、エルドラは静かに微笑んだのだ。


「お前には才能がある。」

彼女はそう言って幼いアーサーを抱き上げた。

「この子たちが見えるのだろう?」


アーサーは頷いた。誰にも理解されなかったあの光たちを、この人は“見ている”とわかったからだった。


「なら、私と来なさい。」

エルドラは彼を抱いたまま森の奥へ歩き出した。

「特別な技を教えてあげよう。」


——それから二十年。


アーサーは仕立ての魔術を学び、今では師さえ越える技を身に宿していた。精霊を見抜く眼、彼らと対話する感性、人の心の奥に潜む真の願いを読み解く力。それらが彼を唯一無二の仕立て屋として形づくっていた。


エルドラがふいに尋ねる。


「お前は……人の願いをどう思う?」


「善でも悪でもありません。」

アーサーは迷いなく答えた。

「ただ、それがその人の“真実”なのです。」


「面白い答えだ。」

エルドラの瞳が細められる。

「では、もし誰かが……人を殺したいと願ったら?」


「それが真の願いなら、叶えます。」


「躊躇いもなく?」


「僕は仕立て屋です。」

アーサーの声には一切の揺れがなかった。

「依頼を受け、服を仕立て、対価を得る。それ以上でも、それ以下でもありません。」


エルドラはしばらく弟子を見つめ、やがて優しい笑みを浮かべた。


「お前は本当に……私の想像を超えた。」


「どういう意味ですか。」


「昔の私なら、そんな願いを耳にした瞬間、依頼主ごと灰にしていただろう。」

カップを置き、エルドラは言った。

「だが、お前は違う。願いに優劣をつけない。すべてを等しく見ている。」


「それは……」

アーサーは少し間を置き、穏やかに言葉を続けた。

「僕が人間ではないから、かもしれません。」


「何を言っている。」

エルドラは眉を寄せた。

「お前は立派な人間だ。」


「本当に、そうでしょうか。」

アーサーは自分の手に視線を落とした。長く白い指。その周りで戯れる小さな精霊たち。

「僕は、人の願いを見ることはできます。でも……自分の願いが分からない。」


エルドラは何も言わず、ただ静かに弟子の横顔を見守っていた。


そのとき、工房の外から馬車の音が聞こえてきた。

石畳を叩く蹄鉄の規則正しい音が、次第に近づき——そして工房の前で止まった。


アーサーが顔を上げる。


「また……来客のようです。」


「今夜はずいぶん賑やかだな。」

エルドラは立ち上がり、センスを手に取った。

「私は帰ろう。邪魔をしては悪い。」


「いえ。」

アーサーも立ち、扉へ向かう。

「師匠は、いつでも歓迎です。」


エルドラは弟子の背にそっと視線を落とし、小さく微笑んだ。そして言葉もなく工房の裏口から去った。通り過ぎたあとには、かすかな薔薇の香りが漂っていた。


アーサーは正面の扉に手をかけた。

外に立つ誰かの気配が伝わってくる。張りつめた緊張と、その奥に秘められた深い決意。


彼はゆっくりと扉を開いた。


霧の中に、一人の女性が立っていた。

顔をベールで覆い、黒いマントに身を包んでいる。だが、その佇まいには気品があり、隠しきれない貴族としての風格が漂っていた。


「マーガレット・ヴァンダービルト様。」

アーサーは静かに告げる。

「お待ちしておりました。」


女性——マーガレットは、ベールの下で小さく息を呑んだ。


「……どうして、私の名を。」


「お約束の品が仕上がりましたので。」

アーサーは扉を広く開け、彼女を招き入れる。

「どうぞ、お入りください。」


マーガレットはためらいがちに工房の敷居を跨いだ。

布地の匂い、染料の香り、そして言葉では説明できない不可思議な空気——彼女は思わず周囲を見回し、壁に掛けられた布地や、作業台に並ぶ針と糸に視線を移した。どれも美しく、どれも高品質。しかし、同時に何か胸にざわめきを起こす、不吉な影がかすめる。


アーサーは作業台の脇に置かれた大きな箱を開け、中から深紅のドレスを取り出した。

ベルベットの布地は月光を浴びて艶やかに輝き、生き物のように呼吸しているようだった。襟元には精密な刺繍が施されている。散りゆく薔薇の花びら。あまりにも美しく、そして哀しみを宿した意匠だった。


「……これが。」

マーガレットは息を呑む。

「本当に……これで……?」


「あなたの真の願いが叶います。」

アーサーは静かに答えた。その瞳には、言葉にはされない何かが一瞬だけ宿った。


「真の……願い?」

マーガレットは首を傾げる。

「私はただ……夫を取り戻したいだけなのですが。」


アーサーは言いかけて、唇を閉ざした。

そして、柔らかく微笑む。


「このドレスは、月光を浴びて縫い上げました。真夜中に身につけることで、最も強い力が発揮されます。」


「……わかりました。」

マーガレットは震える手でドレスを受け取った。布地の柔らかさ、そこに宿る何かを感じ取ったのだろうか。

「対価は……?」


「金貨百枚です。」


彼女は迷うことなく懐から革袋を取り出す。その重みは、袋の表面越しに伝わってきた。

アーサーは中身を数えることもなく受け取り、深く頭を下げた。


「ありがとうございます。どうか……お幸せに。」


マーガレットは、その言葉の意味を測りかねるようにアーサーの顔を見つめた。

しかし何も言わず、踵を返して霧の中へと消えていった。馬車の音が遠ざかり、静寂が工房に戻る。


アーサーは扉を閉め、長く静かに息を吐いた。

作業台へ戻り、残された布地に視線を落とす。


——マーガレット・ヴァンダービルトの“真の願い”。


それは彼女自身も気付いていない。

心の奥で、誰にも見せられないほど深く沈んだ祈り。


夫を取り戻したい——そう言った。

だが、精霊たちが囁いたのは別の言葉だった。


「この苦しみから、解放されたい。」


アーサーは静かに目を閉じた。

彼女がこのドレスを身にまとうとき、何が起きるのか。それは彼自身にも分からない。魔法の服は真の願いを叶える。だが、その結末がどのような形をとるかは、精霊たちのみぞ知る。


月が雲に隠れ、工房は薄暗さを増す。アーサーは蝋燭に火を灯し、その小さな光の下で再び針を手に取った。

次の依頼に向けて、深緑のリネンを選び取る。そこには静かに森の精霊が揺らめいていた。


窓の外では霧がさらに濃くなり、街の音は霧に吸われていく。

——まるで、世界からこの工房だけが切り離されたかのようだ。


アーサーは針を動かしながら、ふと考える。


自分は本当に、何も感じていないのだろうか。

人の願いを縫いとめる時、心は動かないのだろうか。


答えは見つからない。

ただ針を進める。それだけだ。


そのとき、工房の隅で淡い光が揺れた。

水の精霊——柔らかな青い光が、ゆらりとアーサーの方へと漂ってくる。


精霊は彼の頬にそっと触れた。

冷たく、けれど限りなく優しい感触。


アーサーは手を止め、その光を見つめた。

精霊は言葉を発しない。

だが、その輝きは確かに伝えていた。


——大丈夫だよ、と。


「……ありがとう。」

アーサーは囁くように呟いた。


精霊は一度瞬き、静かに消えた。


アーサーは再び針を動かし始める。

一針、また一針。

規則正しい音だけが、静謐な工房に響く。


窓の外では、時計台の鐘が四度鳴った。

深夜が近い。しかし仕立て屋に休息はない。


誰かが願いを抱くかぎり。

誰かが救いを求めるかぎり——

アーサーは針を動かし続ける。


霧に覆われた遠い街で、また誰かが何かを願っている。

やがてその願いは、この工房の扉を叩くだろう。


アーサーはそれを受け止め、糸に込め、布に縫い込む。


人の望みはさまざまに絡み合い、

その複雑さがこの世界を形づくる。


仕立て屋は今夜も静かに、糸を紡ぎ続ける。


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