Ⅲ 航
特急と私鉄を乗り継ぎ、東京の高級住宅街に初めて足を踏み入れた時の違和感を鮮明に覚えている。高校生になりたての目には、曲線を描くレンガの壁も小さな交差点じゃ左折が難しそうな高級車も、ドラマのセットとしか映らなかった。家以外目立つ建物がないので地図は役に立たず右往左往したが、指定された時間までは三十分以上残されていた。
元チェリストの奥様にリビングへ通され、親に持たされた手土産の芋羊羹を差し出す。勧められるまま椅子に座り紅茶を啜っても、背もたれには寄り掛かれずお茶は味がしなかった。壁の真ん中にあるテレビモニターは視聴覚教室のより大きく、刈り揃えられた庭の芝生ではパグが二匹、尻をくっつけ昼寝をしている。
これがプロ、なんだ。
防音室に通される頃には待ちくたびれたのと過度の緊張で欠伸が出かかったが、挨拶もそこそこに師匠からかけられた言葉は
「早過ぎる到着というものは逆に礼を失うよ。気を付けなさい」
だった。それからは十分前丁度にチャイムを押せるよう、駅前のコーヒーチェーンで調整するのを覚えた。
開いた電車のドアからむんとした外気が流れ込み、車内に押し戻されそうになる。冷房と熱風の境目には、膨張したレールと強烈な陽射しがあった。
駅舎を出て、地表にうっかり穴を開けたモグラの画を浮かべながら電柱のない道を進む。生垣から大輪の紫陽花がこぼれる公園を曲がると、アスファルトの陽炎をバックに見覚えのあるシルエットが近付いて来る。こっちに気付いても、規則的な歩調と速度が変わる気配はない。弱冷房車じゃないと夏でも生気を失いひんやりする指先は、今も汗をかいてないんだろうか。負けずに自然に、と言い聞かせるほど歩き方がぎこちなくなる気がしてやきもきする。
「久し振り。元気?」
鼻に掛かるのに通る高い声。襟のボタンを外した制服の長袖シャツと膝上のスカートから伸びる、折り畳みの譜面台みたいなひょろ長い手足。けど、ずんって響くんだよな、ラッパ。
「終わるの早くね?」
「一昨日まで先生、タングルウッド。時差ボケで機嫌悪いから」
見まいと決めていた足元のケースに、思惑と関係なく目がマッハでにじり寄る。地元じゃ移動手段はチャリかバスか親の車だったから、二人でいる記憶は電車とセットになってるのが多かった。満員で嫌な顔されないよう、各駅で帰るんだ。華奢な腰より幅広なハードケースに貼られたダサいアメコミのステッカーを撫でながら言って、都会って不便なと笑い返した。水族館の帰り、色がピーチしかなくすったもんだして選んだお揃いのマンタのキーチェーンは、もうハンドルに付いていない。
「頑張ってね」
言うが早いかケースを持ち上げ、後腐れなく駅へと歩き出す。どうすれば途中で師匠に匙を投げられず済む? 前回矯正されたトリガーの使い方で頭を満たそうと、オレは左手で指鉄砲を作った。
滑り止めで入った学校だったが、練習室の設備や楽器は思ってたより悪くなかった。ただ、音楽の先生はマンドリン部専属で数学教師の顧問は滅多に顔を出さなかった。吹奏楽部とは名ばかりで、コンクールに出ず演奏会を企画するでもなく、行事で校歌を流し文化祭で数曲お茶を濁す程度だったから、春は結構いた同期も残ったのは数人だった。そいつらだって好きな曲の吹けるフレーズをただ繰り返したり、ゲームの音源を合わせて帰るかだったので部活に期待しないと割り切るのは早かった。レッスンの課題に集中できると思えば、逆に都合が良かったのだ。
それに、三年間クラス変えのない教室には気の合う男友達がけっこうできた。こないだカラオケでシャウトしながらソファーの上で暴れてたらシャンデリアに頭突きしてヒビを入れたアホがいて、何もなかった顔で代金を払って逃げ、大笑いした。三オクターブ出ると豪語する元合唱部とはどっちが高得点を取れるかでよく勝負になる。帰ってからも親にカラオケに連れてってもらってるのは内緒だ。レッスンの予復習は最優先事項。けど「楽しいことはたくさんあった方が、大切なことも頑張れる」って格言を知らないやつは損してると思う。
「よ、飯野」
下校時刻の混み合う下駄箱で、ボンタンを穿いた坊主頭の二人組に呼び止められる。どこで売ってんだか、応援団だからってブレザーの学校であんな格好、暑苦しい。きっとロクな用件じゃない。先にゲーセン行っててくれ。不穏な空気を察した級友の増子に言付ける。
口の端に泡を溜めたガタイがいい方の三年が、肩を怒らせガニ股で迫る。
「硬野部の予選、協力すんだよな」
だから、毎年言わせんなっつうの。
「ちょっと、外でおっきな音出すとコンディション変わっちゃうんで」
「あ? お前ら大会ないだろ」
「個人的にあるんです」
「ブラバン入ってて、お前は特別扱いかよ。おかしいって佐々木も言ってんぞ」
唾飛ばすなよ、きったねえな。
春の県大会でやっとこさベスト八入りして「今度のバッテリーは去年以上」とか盛り上がってるみたいだったが、知ったこっちゃなかった。
「勝手して、すみません」
「自分だけ学校のためには演奏したくない、何様だよ」
「こいつ、音大の付属落ちてここ来てんだよ。スカしてんじゃねえぞ、ヘタレが」
下げた頭を飛び越えて二人のダミ声が下駄箱の外にまで轟き、一時停止になった生徒たちに凝視されてるのが背中を通し伝わってくる。待ち伏せしてたのはこれが狙いか。
頭を上げたのはボンタンがいなくなり、訳知り顔のギャラリーが騒動を吹聴するため我先にと散って、気を回し戻ってきた増子に肩を叩かれてからだった。
「お迎えご苦労。行こうぜ」
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