不器用な世界で、わたしは描く
立華アイ
第1話(3歳):世界の音が痛い
外では柔らかな風が吹き、花も芽吹きはじめているというのに、澄玲にとって世界は、まだ「優しい」と呼べる場所にはなっていなかった。
澄玲は、たった一つの音で泣き叫び、耳を塞ぎ、全身を硬直させてしまう。
それは――掃除機の音だった。
その日、母・奈津は朝から家中の掃除をするつもりで、軽い気持ちで掃除機を手にした。
澄玲はリビングの床に座り、小さな紙にクレヨンでぐるぐると渦を描いていた。
お気に入りの淡い青色。澄玲はその色を使うとき、いつもほんの少しだけ表情が柔らかくなる。
「澄玲、ちょっとここ掃除するからね。すぐ終わるよ」
奈津はそう声をかけ、軽くスイッチを押した。
その瞬間――
「っ――ああああああああ!!!」
部屋中に響き渡る甲高い叫び。
澄玲はクレヨンを落とし、両耳を強く押さえ、身体を小さく丸めた。
呼吸がうまくできず、過呼吸に近いほど肩が上下し、涙が一気に頬を濡らす。
「えっ……ちょっと、澄玲!? どうしたの!?」
掃除機の音を止めたが、澄玲は床に身体を押し付けたまま、さらに泣き声を上げた。
顔が真っ赤で、手は震え、足も突っ張っている。
小さな身体の全てが、
ただ「音」を拒絶し、逃げようとしていた。
その声を聞きつけ、書斎で仕事をしていた父・俊郎が飛び込んできた。
「澄玲! 大丈夫、大丈夫だよ」
俊郎はそっと膝をつき、背中に触れた。
しかし澄玲は触れられた瞬間びくりと肩を揺らし、さらに怯えたように泣き叫んだ。
「俊郎……わ、私……どうして……?」
奈津は掃除機を遠くへ押しやり、娘のそばでただ戸惑っていた。
俊郎は、それでも慎重に、ゆっくりと、澄玲の身体を抱き上げた。
それは「抱きしめたい」という父の気持ちと同時に、
「刺激しすぎないように」という思いやりからくる動きだった。
その腕の中で、ようやく澄玲の呼吸が少しずつ落ち着き始める。
顔を父の胸にうずめ、指先で服の端をぎゅっと握る。
「大丈夫……怖かったね、もう音はしないよ」
俊郎の低く落ち着いた声は、澄玲にとって唯一、安心できる種類の音だった。
奈津はその姿を見ながら、自分の胸の中に芽生える焦燥に気づいた。
「どうして私じゃ、落ち着かせてあげられないんだろう……」
奈津の小さな呟きは、誰にも聞こえなかった。
――澄玲が世界の音に敏感すぎることを、二人は少しずつ理解し始めていた。
◆
その日の午後。
澄玲は、リビングの隅でまた小さく絵を描いていた。
今度はオレンジ色のクレヨンで、丸い形を繰り返し描いている。
同じ丸を、何度も、何度も。
奈津はその姿を少し離れた場所から見つめていた。
掃除を諦めたリビングは散らかったままだが、奈津の意識は澄玲の方に向いていて、他のものは目に入らなかった。
(同じことをずっと繰り返す……今日だけじゃない。最近、ずっと……)
思い返せば、道順もそうだった。
公園へ行くとき、一度曲がる場所を変えようとしただけで泣き叫んだ。
朝起きた後の順番も決まっていなければ落ち着かなくて、
ひとつでも違うと、叫んで床に座り込んだ。
(こだわり……っていうのかしら……)
奈津の胸に、不安と罪悪感が重く沈む。
「……ごっこ遊び、しよっか」
少し明るい声を出そうとしたが、どこかぎこちなかった。
澄玲は返事をしない。
耳には届いているはずなのに、まるで聞こえていないような反応。
奈津は小さなテーブルにおもちゃのコップを置いた。
「澄玲、ジュースですよー。はいどうぞ」
しかし澄玲はコップに目も向けず、オレンジ色の丸を増やし続けた。
紙を替えようと手を伸ばした奈津に、澄玲の手が触れた瞬間――
「やっ!!」
叫び声。
クレヨンを奪い返し、紙の上に身をかがめる。
奈津は手を引っ込めた。
(私の触り方……声のかけ方……どこかが違うの……?)
(どう接したらいいの……?)
頭の中がぐるぐると混乱し、胸が締めつけられるようだった。
そのとき、俊郎がそっと背後から声をかけた。
「奈津、いきなり変わるのが不安なんだよ。終わりが見えないから」
「終わり……?」
俊郎は軽く頷いた。
「“あと少しで終わるよ”ってわかると安心するんだと思う」
彼は小さなタイマーを持ってきて、澄玲のそばに置いた。
そして、澄玲の目線に合わせてゆっくりとタイマーを指差す。
「これ、鳴ったらおしまいにしよ。いい?」
澄玲はタイマーをじっと見つめ、数秒後に小さく頷いた。
パチリ――
タイマーを三分にセットする音がした。
奈津は息をのむように眺めた。
三分後、短い電子音が“ピッ”と鳴る。
澄玲は……すっとクレヨンを置いた。
奈津の目が大きく開く。
「……こんなにすんなり……?」
俊郎は微笑んだ。
「澄玲なりのルールと安心があるんだよ」
その言葉は優しいのに、奈津の胸には痛みを伴って響いた。
(私は……澄玲の安心を何ひとつわかっていなかった)
◆
夕方、奈津はふと鏡に映る自分を見た。
疲れた顔をしている。
(私、母親なのに……)
胸の奥からふつふつと罪悪感が溢れた。
「普通の遊びができなくても、“普通じゃなくても”、
この子が生きやすいようにしてあげないといけないのに……」
そう思った瞬間、涙が一筋こぼれ落ちた。
そのとき、俊郎がキッチンから声をかけた。
「奈津、こっち来て」
ダイニングテーブルには、小さく切った紙が並んでいた。
時計、おひさま、ごはん、歯ブラシ……
俊郎が描いた、簡単なイラストたち。
「澄玲の日課表……作ってみない?」
奈津は息をのんだ。
俊郎は続ける。
「奈津の方が、もっと上手に描けるだろ? 澄玲も、君の絵なら見やすいと思う」
奈津はゆっくりと椅子に座り、ペンを握った。
震える手だったが、心は少しだけ前へ進んでいた。
一つずつ――
日課に沿った可愛らしいイラストを描いていく。
「……これで安心してくれるかな」
俊郎は優しく言った。
「きっと、澄玲の世界が少し楽になるよ」
奈津は目頭を押さえた。
「ありがとう……」
◆
翌朝。
「澄玲、見て。今日はこうやって過ごすよ」
壁に貼られたカラフルな日課表。
澄玲はしばらくじっと眺め、ゆっくり指先で順番をなぞった。
その姿に、奈津の胸が熱くなる。
(……伝わってるんだ)
「お絵描きの時間になったら、タイマーを鳴らそうね」
その言葉に、澄玲は小さく頷いた。
その日の“お絵描きの終わり”も、
澄玲はタイマーが鳴るまで描き続け、
音が鳴るとすっとクレヨンを置いた。
奈津はふっと微笑み――
その笑顔には、昨日までの不安とは違う、穏やかな光が宿っていた。
「澄玲……ゆっくりでいいからね。ママも一緒に、君の世界を知っていくから」
澄玲は、小さな手で青のクレヨンを握りしめ、紙に一筋の線を引いた。
その線はまるで――
彼女が世界と優しくつながり始めた証のように見えた。
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