オーベルジュの魔女

梨鳥 ふるり

一人目のお客様 ~私はオーダーします~

意外なアライヴァル

 溺れていた。

 水の闇底へ引きずり込まれているのだろう、水面の光が遠ざかっていく。

 闇底からは、ザワザワと声が聞こえる。

 

『花の命は短いよ』

『夢見てないで、将来を見なさい』

『俺の後をついて来ればいいよ』

『茨の道だよ、女には』


――――苦しい、死んじゃう。と、美咲は思った。


必死に水面の光へ手を伸ばす。

揺らめく水面は遠く、足掻く身体に冷たい声が鎖の様に絡みつく。

口の中の空気だけが、キラキラとした泡となって水面へ昇っていく。

自分もあの泡になれたら、と、ボンヤリ願った。

意識が遠のいてきた。


――――いっそもう、早く終らないかな。


美咲は水の闇に身をゆだね、目を閉じる。

その時だった。

服の襟首に、チクンと何かが引っかかった。

次の瞬間、美咲は強い力でぐんぐんと引き上げられていく。


襟首を引かれ、輝く水面から勢いよく引き上げられた美咲は、魚の様に釣り上げられていた。

水から空中に放り出された美咲の目に、穏やかな湖と、そのほとりに佇む小さな館が逆さまに映った。



 柔らかな草の地面に打ち上げられて、呆然としていると、黒いビーズの靴先が、ちょんちょんと美咲をつついた。


「大丈夫? 生きてるの?」


 低めだけれど少し舌っ足らずな、不思議な声が美咲に尋ねた。

 首を捻ってそちらを見上げると、綺麗な少女が気だるげな瞳をこちらへ向けている。

 その瞳は黄昏マ ジ ッ ク薄明ア ワ ーを閉じ込めた様な、蓮華色ロータスピンクを揺らめかせていた。

 美咲は南の島の黄昏時に、この色を一瞬だけ見た事がある。

 その時に味わったのは、豊かで穏やかで少し切ない幸福感だった。

 同じ色を毛先に滲ませたやわらかな銀髪が、琥珀色の小さな顔を包み込んでいる。

 あと五秒ほど待ったら、大人の女性になりそうな少女だ。

 

 「きれい……」


 美咲は状況を忘れ、呟く。瞬間美の幻を少女に重ね、見惚れた。

 こんなに綺麗な人間がいるわけがない。これは夢だろうと、すぐに思った。

 そんな美咲を見て、少女は薄い眉を寄せると、ぽつりと呟いた。


「……また、死んでない人が紛れ込んできた」


 少女は、少しだけ疑問に思っている風だったが、「まあいいか」と、美咲へ手を差し伸べる。


「今日は魚がたくさん釣れた。ディナーに出してあげるね。白身魚の調理法は何が好き?」

「ありがとうございます……じゃあ、バターで焼いたやつを……じゃ、なくって、 私、溺れていて……? あれ? 濡れてない……」


 起き上がりながら混乱する美咲に、少女がクスリと笑った。


「ああ、あなた溺れていたのか」


 そういうこと、と言って、少女が美咲の襟首にあった釣り針を外した。


「すごい大物だと思ったのに、魚じゃないからガッカリしたんだ」

「……ご、ごめんなさい。その……助けてくれてありがとう」

「なりゆきだよ。さあ、案内するからディナーまでくつろいでね」


 少女はそう言って、さっさと美咲の傍から離れて行ってしまう。

 彼女が向かう先には、美咲が先ほど目の端に捉えた小さな館が佇んでいた。

 美咲は、ほぅ……とため息を吐く。


――――素敵……南フランスの田舎で、こういう建物を見たわ。プロヴァンス風っていうのだっけ……きっと記憶が見せているのね……。


 小さな館は、こじんまりとした二階建てだ。

 漆喰が所々剥がれた白い石壁に、橙色の瓦屋根。

 母屋建物の中心部を覆う切妻屋根の斜面から、ドーマー窓が好き勝手に突き出ている。

 一角には小さな円柱の塔があり、とんがり屋根がちょこんと被さっていて、絵本に出てきそうな愛らしさだ。


 特に目を引いたのは、湖面の上に建てられた六角形のドーム状の建物。

 こちらは建てられたタイミングが違うのか、母屋と毛色が違う。

 美しい装飾木枠のガラス戸に覆われたその中は、白いクロスを掛けられたテーブルセットが花を添えられ、間隔よく並んでいた。


 今は少し沈みかけている日の光で、儚げにガラスを輝かせているが、日が暮れて暗くなったら―――きっと、美しく幻想的な夜景を浮かび上がらせることだろう。

 想像するだけで、美咲の胸がキュンと窪んだ。


 建物に見とれる美咲の方へ、少女が振り返った。


「ここの夜は早く来るから、おいで」

 

 年上の――まるで母親や姉の様な口調と声色に、少し面食らい、ムッとする。

 しかし、見渡す限り森と湖しかないので、不安が押し寄せて来て、美咲は少女の後を追った。

 少女はもう、草花が美しいエントランスを抜けて入り口のアーチ型ドアに手を掛けていた。


「ここは、どこ?」

「私のオーベルジュだよ。もう日が暮れるから、泊まっておいき」

「で、でも……」


 着の身着のままな自分を表現するため、美咲は両手の平を上に向ける。


「ああ、うちは商売じゃないから、お代を取らないの」


 少女はそう言って、アーチ型ドアを開けた。

 カランカラン、と、古びたベルの音。

 少女はドアを支えながら身体の位置をずらし、美咲へ入り口を譲って言った。


「ようこそ。私のオーベルジュへ」


 まだ少し明るかったけれど、周囲の森や水辺、館の至る所に配されたランプが、美咲の傍から順にポツリポツリと灯り出した。

 一際明るさを感じる方を見れば、湖に浮かぶ六角形のレストランも、煌々と輝き出していた。

 水面に映るオーベルジュの灯りが揺らめき、夢と現実の境界を曖昧にしていた。


 綺麗だなと思う反面、水底へ引っ張る声がしないか心配になってきた美咲は、逃げる様に建物の中へ入っていった。

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