オーベルジュの魔女
梨鳥 ふるり
一人目のお客様 ~私はオーダーします~
意外なアライヴァル
溺れていた。
水の闇底へ引きずり込まれているのだろう、水面の光が遠ざかっていく。
闇底からは、ザワザワと声が聞こえる。
『花の命は短いよ』
『夢見てないで、将来を見なさい』
『俺の後をついて来ればいいよ』
『茨の道だよ、女には』
――――苦しい、死んじゃう。と、美咲は思った。
必死に水面の光へ手を伸ばす。
揺らめく水面は遠く、足掻く身体に冷たい声が鎖の様に絡みつく。
口の中の空気だけが、キラキラとした泡となって水面へ昇っていく。
自分もあの泡になれたら、と、ボンヤリ願った。
意識が遠のいてきた。
――――いっそもう、早く終らないかな。
美咲は水の闇に身をゆだね、目を閉じる。
その時だった。
服の襟首に、チクンと何かが引っかかった。
次の瞬間、美咲は強い力でぐんぐんと引き上げられていく。
襟首を引かれ、輝く水面から勢いよく引き上げられた美咲は、魚の様に釣り上げられていた。
水から空中に放り出された美咲の目に、穏やかな湖と、そのほとりに佇む小さな館が逆さまに映った。
*
柔らかな草の地面に打ち上げられて、呆然としていると、黒いビーズの靴先が、ちょんちょんと美咲をつついた。
「大丈夫? 生きてるの?」
低めだけれど少し舌っ足らずな、不思議な声が美咲に尋ねた。
首を捻ってそちらを見上げると、綺麗な少女が気だるげな瞳をこちらへ向けている。
その瞳は
美咲は南の島の黄昏時に、この色を一瞬だけ見た事がある。
その時に味わったのは、豊かで穏やかで少し切ない幸福感だった。
同じ色を毛先に滲ませたやわらかな銀髪が、琥珀色の小さな顔を包み込んでいる。
あと五秒ほど待ったら、大人の女性になりそうな少女だ。
「きれい……」
美咲は状況を忘れ、呟く。瞬間美の幻を少女に重ね、見惚れた。
こんなに綺麗な人間がいるわけがない。これは夢だろうと、すぐに思った。
そんな美咲を見て、少女は薄い眉を寄せると、ぽつりと呟いた。
「……また、死んでない人が紛れ込んできた」
少女は、少しだけ疑問に思っている風だったが、「まあいいか」と、美咲へ手を差し伸べる。
「今日は魚がたくさん釣れた。ディナーに出してあげるね。白身魚の調理法は何が好き?」
「ありがとうございます……じゃあ、バターで焼いたやつを……じゃ、なくって、 私、溺れていて……? あれ? 濡れてない……」
起き上がりながら混乱する美咲に、少女がクスリと笑った。
「ああ、あなた溺れていたのか」
そういうこと、と言って、少女が美咲の襟首にあった釣り針を外した。
「すごい大物だと思ったのに、魚じゃないからガッカリしたんだ」
「……ご、ごめんなさい。その……助けてくれてありがとう」
「なりゆきだよ。さあ、案内するからディナーまでくつろいでね」
少女はそう言って、さっさと美咲の傍から離れて行ってしまう。
彼女が向かう先には、美咲が先ほど目の端に捉えた小さな館が佇んでいた。
美咲は、ほぅ……とため息を吐く。
――――素敵……南フランスの田舎で、こういう建物を見たわ。プロヴァンス風っていうのだっけ……きっと記憶が見せているのね……。
小さな館は、こじんまりとした二階建てだ。
漆喰が所々剥がれた白い石壁に、橙色の瓦屋根。
一角には小さな円柱の塔があり、とんがり屋根がちょこんと被さっていて、絵本に出てきそうな愛らしさだ。
特に目を引いたのは、湖面の上に建てられた六角形のドーム状の建物。
こちらは建てられたタイミングが違うのか、母屋と毛色が違う。
美しい装飾木枠のガラス戸に覆われたその中は、白いクロスを掛けられたテーブルセットが花を添えられ、間隔よく並んでいた。
今は少し沈みかけている日の光で、儚げにガラスを輝かせているが、日が暮れて暗くなったら―――きっと、美しく幻想的な夜景を浮かび上がらせることだろう。
想像するだけで、美咲の胸がキュンと窪んだ。
建物に見とれる美咲の方へ、少女が振り返った。
「ここの夜は早く来るから、おいで」
年上の――まるで母親や姉の様な口調と声色に、少し面食らい、ムッとする。
しかし、見渡す限り森と湖しかないので、不安が押し寄せて来て、美咲は少女の後を追った。
少女はもう、草花が美しいエントランスを抜けて入り口のアーチ型ドアに手を掛けていた。
「ここは、どこ?」
「私のオーベルジュだよ。もう日が暮れるから、泊まっておいき」
「で、でも……」
着の身着のままな自分を表現するため、美咲は両手の平を上に向ける。
「ああ、うちは商売じゃないから、お代を取らないの」
少女はそう言って、アーチ型ドアを開けた。
カランカラン、と、古びたベルの音。
少女はドアを支えながら身体の位置をずらし、美咲へ入り口を譲って言った。
「ようこそ。私のオーベルジュへ」
まだ少し明るかったけれど、周囲の森や水辺、館の至る所に配されたランプが、美咲の傍から順にポツリポツリと灯り出した。
一際明るさを感じる方を見れば、湖に浮かぶ六角形のレストランも、煌々と輝き出していた。
水面に映るオーベルジュの灯りが揺らめき、夢と現実の境界を曖昧にしていた。
綺麗だなと思う反面、水底へ引っ張る声がしないか心配になってきた美咲は、逃げる様に建物の中へ入っていった。
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