第9話──招かれざる客

「急がせろ」


 ヴァンジェロが徴用官をぞんざいに手で払った。ホーキンスが負け犬のように悄然と引き下がる姿は、哀れというほかない。さらに惨めだったのは、すぐに戻ってきて、芝居じみた尊大さをまとい直し、今度はマーカスとレミーの前に姿を現したことだ。彼はわざとらしくマーカスを無視し、レミーの方へ向き直った。その仕草が却って場の居心地の悪さを増す。


「出発の準備は整ったか、メイフラワー令嬢」


 ホーキンスが問いかける。


 レミーは一瞬肩を震わせた。現実に引き戻されたかのように。


「もう少しだけ。使用人たちへ最後の言葉を伝えたいのと……もちろん、父にも」

「承知した。ただし、我々には次の予定があるのを忘れるな」

「ありがとうございます。すぐに済ませます」


 レミーは礼儀正しく頭を下げ、支度を終えつつある使用人たちの方へ足を向けた。彼女が近づくと、使用人たちは整然と列を作った。整った姿勢を見せながらも、その顔には令嬢の言葉を待ちわびる高揚が隠せなかった。


 マーカスも一歩だけ近寄り、耳を傾けた。もっとも、使用人たちから冷ややかな視線を浴びぬ程度に距離は取って。視界の端で、ヴァンジェロが鼻梁をつまんでいるのに気づく。確信は持てなかったが、マーカスには彼が小声で「ガキが」と呟いたように見えた。


 マーカスの睨みを察したのか、ヴァンジェロもまた鋭い視線を返してくる。


 マーカスにとって、それは無視できぬ挑発だった。ましてや、尖耳の男がレミーを侮辱しているのならなおさらだ。彼はあえて顔を横に向け、ヴァンジェロにその仕草を見せつける。だが少佐は顎を上げ、不敵に笑っただけだった。


 二人の無言の睨み合いの最中、レミーが小さく咳払いをし、言葉を発し始めた。マーカスはその声をほとんど聞き取れなかった。ヴァンジェロの射抜くような視線に気を取られすぎていたのだ。少佐の顎がわずかに痙攣する。血の匂いを欲するかのような、危うい衝動の兆し。


 それは熱湯を浴びせられたようにマーカスの神経を焼き、思わず拳を固めさせた。


 一方で、レミーの声はわずかに震えていた。


「皆さん、この家に仕えてくれてありがとう。私の任期が終わる頃には、メイフラワーの名にふさわしい女性になっていたいと願っています。ありがとうございました!」


 使用人たちは拍手喝采で応えた。ウェイロンは一歩前に出て、熱狂的に手を叩きながら叫ぶ。


「お見事です、お嬢様!ブラヴォー!」


 数人の女中は目頭を押さえ、執事たちは恭しく頷き、誇りに満ちた笑みを浮かべた。レミーの最後の言葉を聞き逃したことにマーカスはわずかに苛立った。だが、メイフラワー家の使用人たちの反応に救いを見いだすことができた。彼女には、思っている以上に多くの支えがあった。


 拍手の余韻がまだ残る車寄せに、エドとスターリング公爵が庭から姿を現す。エドは慌てたように駆け寄り、スタッフの列に合流した。


「お嬢様のご挨拶は、もう終わってしまったのか?」


 取り乱した口調で問いかける。


「おっと……どうやらな」


 マーカスは気の毒そうに顔をしかめて答えた。


「次の機会に賭けるんだな!」

「次の機会……?だが……」


 エドの顔は絶望に沈む。


「聞き逃すとは……なんという不覚!」


 必死に涙をこらえながら、声を絞り出す。


「いや、ここで挫けてはならない……」

「そうそう。帰宅のときのスピーチに期待すりゃいいさ。最前列に陣取って、写真でも撮ってやれよ」

「……なるほど」


 エドはため息をついた。全面的に納得してはいないようだったが、マーカスにしては珍しく、まともな助言に違いなかった。


「なんとまあ!」


 スターリング公爵が荷物の山を見て頭を振った。


「こんな大荷物、到底運べはせぬ!レンブラティア、必需品だけを選ぶ習慣をつけねばならんぞ!」


 その指摘は正しかった。少なく見積もっても十個はある巨大なスーツケースが、家令に仕える侍女たちのようにずらりと並んでいるのだ。


「ごめんなさい、お父さま!」


 レミーは小さく頭を下げた。彼女はどの鞄が大事なのか決めかねるように、あちらこちらへ行き来した。ようやく二つだけを指さし、使用人に積み込ませると、急いでマーカスのもとに戻ってくる。落ち着かない様子で長い髪の先をいじり、手持ちぶさたを紛らわせていた。


 その間に、スターリングとエドは残る使用人たちを取りまとめにかかり、マーカスとレミーに束の間の二人きりの時間が与えられた。


「いいスピーチだったじゃねえか」


 マーカスが言うと、


「本当?」


 レミーは柔らかく微笑んだ。


「ありがとう……」


 彼女はその場に立ち尽くし、指先をいじっていた。額から汗が一筋つたう。マーカスを仰ぎ見ながら、言葉に詰まる。


「わ、私……あの……これが最後かも……だから……せめて──」


 レミーはぎこちなく身を乗り出した。両腕を広げ、目をぎゅっと閉じる。抱擁を求めているのは明らかだった。


 だがマーカスはその肩に手を置き、倒れかけた彼女を支えた。そして代わりに拳を突き出す。


「そんな湿っぽくすることはねえだろ。ただ数年ばかり怒鳴られて、腕立てをやらされるだけだ。それに、まだあの変な『チュチュ・ドーナツ』を食いに行かなきゃならねえじゃねえか」

「えへへ」


 レミーは苦笑しながら、彼の拳の甲を軽く叩いた。


「いてっ?」


 マーカスは自分の手をさすり、不思議そうな顔をした。痛みというより、困惑の表情で。どうやらレミーは、拳を合わせる作法をまだ理解していないらしい。

 だが次の瞬間、彼は彼女の指先の温もりを感じた。レミーが彼の手を包み込んだのだ。紅玉のような瞳が彼を射抜き、動きを封じる。


「ちゃんと会いに来てね。許可を得られたら……必ず。お父さまは時に厄介だけど、私が頼めばきっと──」


 その数秒間は、数分にも思えるほど長く引き延ばされた。無意識のうちに、マーカスは手を引いていた。レミーがこれほどまでに感情を表に出すのは、かつてなかったことだ。それゆえ、彼の反応も理屈ではなく、本能に近かった。


 レミーの表情は、幾重もの感情が交錯する複雑な色を帯びる。だがマーカスは、それを深く読み取ろうとはしなかった。


 ──いや、できなかった。


 見つめすぎれば、自分の判断を疑いかねないと感じたからだ。これでよかったのだ。抱擁も、心からの言葉も、不要。彼が学んだことが一つある。──人との距離を縮めすぎれば、どちらかが命を落とす。この数年で、ほとんど忘れかけていた教訓だった。


 レミーはマーカスの視線の動きを追いながら、静かに言った。


「忘れないって、約束してくれる?そしたら、また続きから始められるから」

「公爵サマがうるさくなけりゃな」


 マーカスはにやりと笑った。


「きっと、なんとかなると思うわ」


 レミーも珍しく、歯を見せて笑った。


 その笑顔を見て、マーカスの胸に鋭い痛みが走る。


 ──その約束を守れる未来がないことを、自分自身が一番よく知っていた。再び会える保証など、どこにもない。なぜなら、彼にはこの地を離れたあと、どうしても行かねばならぬ場所があった。そしてそこは、帰還の約束など存在しない場所だった。


「さ、行けよ。あの耳長野郎にまたケツをつつかれる前にな」


 マーカスは顎でヴァンジェロを指す。


「うん!ありがとう、マーカス」


 レミーは明るく答えたが、その笑みは決壊寸前の堤のように震えていた。指先は落ち着かず、再び彼に手を伸ばそうとするのか迷っているようだった。


「ああ」


 マーカスもまた、静かに笑みを返した。


(余計なことは言うな)


 マーカスは心の中で、もう一度自分にそう言い聞かせた。


「レンブラティア、少し来なさい」


 父の声が響き、レミーとマーカスは中庭の大きな装飾噴水の前で合流する。


「はい、お父さま」


 スターリング公爵とマーカスは短い視線を交わし、やがて暗黙の了解に至った。語られぬ思いは数多く残されていた。だが、今日はその日ではない。今日という日はレミーのためにあり、二人の誰もが、それ以上彼女を苦しめたいとは思わなかった。


「準備はできたか?」


 スターリング公爵が問うと、レミーは素直に頷いた。


 父の視線はさまよい、言葉を探す。言い残してきたものを、どこかから引き出そうとするかのように。やがて彼はポケットから小さな金属の箱を取り出した。彼の手にあったそれを受け取ると、彼女は驚いて息をのんだ。


「……これ、お母さまの……」

「本来なら、彼女自身がお前に渡したかっただろうが……」


 レミーは黙り込み、指先で箱の滑らかな縁をなぞった。家紋の刻まれた紋章に見入るうち、瞳に涙があふれる。


「アニムスの結界で封じ、追跡機も組み込んである。盗人が触れることは決してない。この箱はお前の手にしか応えぬ。……だが、すぐに開ける必要はない。心の準備ができたときに開ければいい」


 彼は一瞬ためらい、無表情な表情の隙間から心配そうな表情をのぞかせながら、レミーを見つめた。


「……気に入ってくれればいいのだが」


 次の瞬間、レミーは父の胸に飛び込み、強く抱きしめた。スターリングは凍りついた。


 マーカスの知るメイフラワー家は、そもそも感情表現に乏しい一族である。


 その中でレミーがあからさまに愛情を示したことは、公爵を完全に虚を突いた。常に自制を崩さぬ彼も、このときばかりは反応に窮していた。やがて彼は、名残惜しげに娘の肩へ手を置き、静かに引き離した。


「全力を尽くせ、レンブラティア。……必ず生きて帰れ」


 その親子のひとときに、これ以上立ち入るのは無粋だと判断し、マーカスは背を向けた。だが、すぐ背後に立つ人影に出くわし、思わずのけぞる。


「なんだと……?」


 ヴァンジェロがそこにいた。マーカスは全く気づかなかった。己の誇りとする警戒心をもってしても、少佐の接近を察知できなかったのである。しかし、その不気味な野郎は物音一つ立てなかった。


 靴音ひとつ、革の外套の擦れる音すらしなかった。もし事情を知らぬ者が見れば──魂を喰らう悪魔を描いたファンタジー小説の登場人物かと錯覚したであろう。だが、それは馬鹿げた想像だ。今のマーカスに冗談を楽しむ余裕はなかった。


「さっさとしろ。二分以内に彼女を車に乗せぬなら、反逆の遅延として報告してやるぞ」


 スターリング公爵は娘から手を放し、深く息を吸って心を落ち着けた。


「務めを果たすのだ、わが娘よ」


 泣き腫らした顔を紅潮させたまま、レミーは涙を拭い、しっかりと頷いた。

 公爵は片手を振り上げ、使用人たちに命じる。


「レンブラティアの荷をホーキンス卿の車へ運べ」


 そのとき、マーカスの目にはヴァンジェロがほくそ笑んだように見えた。人を追い詰め、混乱に陥れることに歪んだ快楽を見いだしているかのごとく。


 それでも、メイフラワー家の使用人たちはすぐに本来のきちんとした立ち居振る舞いへと戻った。わずかな時間で、彼らはレミーの荷物を徴用官のけばけばしい赤い車に積み込み、車寄せにあったものをすべて片づけてしまった。


「玄関前の柱のそばでお待ちしてはどうでしょう。そうすれば、皆様そろってお嬢様をお見送りできるはずです」


 エドがマーカスとスターリング公爵らに提案した。

 公爵はうなずき、皆とともに坂道を下っていく。だが、マーカスだけはその後に続く気になれなかった。


「ルーカスター殿?」


 エドは足を止め、マーカスの方を見た。


「いや……俺には向いてねえ」


 マーカスは首を振った。


「ふむ……残念です。ですが、お嬢様のご出立をどう受け止めるかは、それぞれのやり方で決めるべきことですから」


 エドはそう言ってうなずくと、急いで他の者たちに追いついた。

 そのころ、ヴァンジェロから電子署名パッドを手渡されたホーキンスは、ほっとしたように見えた。敬礼を終えると彼は車に戻り、レミーを席に座らせる。エンジンがかかる。窓の向こうで、レミーがマーカスを見た。


 その瞬間、時間は引き延ばされたかのようにゆっくりと流れる。彼女はできる限りの笑顔を浮かべていた。頬を赤らめ、瞳を輝かせながら──必死に痛みを隠そうとしているのは明らかだった。演技めいた部分もある。


 だが、偽りは一つもなかった。声は届かない。それでもマーカスには、彼女が何を伝えようとしているのか分かっていた。


(ああ、分かってる。お前はもう泣き虫なんかじゃねえよ。もっとも、俺はお前のそういうところも嫌いじゃなかったけどな。──ただ、もう新しいお前を見ることはできねえ。……それでも──お前の付き添いでいるのも、悪くなかったさ)


 レミーは両手をぶんぶんと振り、車が敷地を離れていくまで別れの挨拶を続けていた。


「元気でな、レミー」


 マーカスは逆ピースの仕草を掲げ、友に応えた。


 その背後で、低く唸るようなため息が響いた。


「やっと終わったか。……貴族ってやつはいつも厄介だな。とくに役立たずの甘ったれ小娘はな。……そう思わねえか、小僧?」


 ヴァンジェロの声を聞いた瞬間、マーカスの体を電流が走った。指先から足の先まで、全身が一斉に硬直する。


「……今なんつった、クソ野郎?」


 マーカスは勢いよく振り返った。


 少佐は眉をひそめる。


「フン……メイフラワー家も、飼い犬にはもっとしっかり首輪を付けるべきだな」


 そのとき、運転席の窓から無関心そうな顔が覗いた。シビルである。まるで暇つぶしに店先の商品を眺めるかのような表情で、彼女はマーカスを見定めた。


「ふーん……眠そうで、いかにも信用できなさそう。絶対に王子様には見えないわね。……あっ!」


 シビルは眼鏡を押し上げた。


「ひょっとして、お嬢様のヒモなんじゃない?お金持ちの女の子って、『危険な男』に惹かれるって聞いたことあるわよ!」


 マーカスの髪が総毛立つ。あからさまに挑発されている──そう感じずにはいられなかった。だが、それが何のためなのかは分からない。真意を探ろうにも、血が炎のように沸き立ち、理性はどんどん滑り落ちていく。その炎は、どれほど抑えようとしても消すことができなかった。抑えようとすればするほど、理性は指の間から零れ落ちていった。


「聞けよ、このクソども」


 マーカスは頭を傾けて吐き捨てた。かつて捨てたはずの癖が、再び顔を出していた。

「軍人だろうがなんだろうが、ぶっ飛ばしてやる!来週いっぱい寝込ませてやるからな!」

「ハハハハ!」


 ヴァンジェロが初めて声をあげて笑った。その笑いは不快で、吐き気すら催すものだった。


「あきらめろ。お前のささやかな火遊びはもう終わりだ。それでも未練があるなら、嬢ちゃんがフィアスコに八つ裂きにされた後の残骸を送ってやる。……他の貴族のガキどもに先に食われなければ、だがな」


 その言葉を聞いた瞬間、マーカスは地を蹴った。ヴァンジェロめがけて一直線に駆け出す。


 ──一発でいい。


 この軍犬に言葉を食わせられるなら、勝ち負けなどどうでもよかった。


 彼は低く速く身を沈め、一瞬の反撃を予期する。だが、反撃は来なかった。そこで一気に体を伸ばし、腰を利かせたストレートを放つ。拳はヴァンジェロの顎を真正面からとらえた。


 しかし──何かがおかしい。衝撃が返ってこない。まるで岩の壁に拳を叩きつけたかのようだった。


 骨にまで響く痺れるような痛みが走る。


「ぐっ……な、なんだ……?」


 その刹那、マーカスはヴァンジェロの侮蔑に満ちた眼差しと視線を交わした。そして悟る。これまでの喧嘩の経験など、ここでは何の意味も持たないと。どれほど屈強な体格の相手でも、拳を入れればよろめき、時には昏倒した。


 だが、ヴァンジェロは違った。


 戦慄の思いが脳裏をかすめる──こいつは、本当に人間なのか?燃え立つような双眸を覗き込むうちに、マーカスの決意は音を立てて崩れ落ちていった。少佐の顔に浮かんだ笑みは、異様で、歪んでいた。


 狂気に染まった子供のように愉悦に満ちた、ぞっとする笑みだった。


「くそっ!」


 マーカスは前足を踏み込んで後退しようとした。だが、万力のような力が腕を掴み、逃走の芽を摘んだ。瞬間、激しい衝撃が右肩を襲い、関節が外れる。


「うああっ!」


 よろめく彼の胸を、じわじわと恐怖が侵食していく。ヴァンジェロの握力は、人の常識を逸していた。痛みに抗いながら、マーカスは左の拳を必死に振るった。だが拳が叩きつけられた先は、まるで濡れた海綿を石壁に投げつけたかのような、鈍い音を返すばかりだった。


「跪け」


 ヴァンジェロの掌からは熱が放たれ、その手がマーカスの左肩に圧し掛かると、重力そのものが倍加したかのように彼の膝は大地に沈んだ。


「ヴァンジェロ少佐、おやめください!」


 遠くからスターリングの怒声と、駆け寄る足音が響いた。


 死の瀬戸際でなければ、その心配に胸を打たれたかもしれない。だが、殺意を剥き出しに笑うヴァンジェロの貌を見た瞬間、止める気など毛頭ないことを悟る。


 ──バキッ


 肩の奥で、爆竹のような音が弾けた。直後、灼けた釘が肉を裂き骨を穿つかのごとき激痛が走る。


 ──ゴォッ!


 炎の閃光が左半身を駆け抜け、骨も筋肉も焦がしながら腿を突き破った。本能は叫びを求めた。しかし喉から出たのは、かすれた嗚咽にすぎなかった。


 恐怖の極みは痛みではなく、死の影ではない──まだ思考が鮮明であるという残酷な事実であった。臓腑が煮え滾るような、あの決定的な感覚──それは、体の奥で何か不可欠なものが破壊された証であった。


 左肺が沈黙したことを彼は悟る。咳をしたくても、肺が機能せず痙攣だけが残った。やがてヴァンジェロが手を離すと、その手袋には炭化した肉片が張り付いていた。


 マーカスは膝から崩れ落ちた。両膝をついたその身は、もはや生気の欠片もない骸のように沈み、広がり続ける灼けた血の水溜りに沈み込んでいった。そのとき、彼は真実に辿り着いた。


(奴はエニグマだ)


 その思念が胸中で反響する。死を待ちながら座り込む彼の頭に、繰り返し木霊した。視界は揺らぎ、やがて大地そのものが灰色の霞へと溶けていく。それでも、失血で視界が閉ざされつつある彼の耳には、ヴァンジェロとシビルの声が届いた。落胆を隠そうともしない、実に気の抜けた調子で。


「ちっ……つまんねぇな?時間のムダだった」

「時間の無駄でしたね、ボス。本当にただの一般人だったみたいです」

「じゃあ、情報……は……ガセか?」


 声は途切れがちに濁音となり、やがて意味を失った雑音へと変わっていった。残されたのはマーカスと、彼の思考、そして苛烈な憤りである。


 彼は怒っていた。


 ヴァンジェロの声音が落胆こそあれ、勝利の喜びすら帯びていなかったことに。そして、自分自身に。エニグマ──人ならざる怪物に殺される羽目になった己の無力さに。そもそも、軍がそんな存在を雇用しているなど、誰が想像できただろうか。


 だが、それ以上に耐え難いのは、自分が自分を制御できなかったことだった。


 レミーが強制的に連れ去られた一件。彼女が浴びせられた数々の侮辱。それらすべてが、自分の内奥を思っていた以上に苛んでいたのだ。その怒りは、いまや乾いた笑いへと変じる。結局のところ、誰を責めることもできない。責めるべきは常に己である。


 そして最後に訪れたのは、深い悲しみだった。


(ネイヤ、グラミー、みんな……すまない。また俺はやらかした。もう償うこともできないだろう。メリル……本当に、すまない)

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