どうか、あの夏をもう一度
秋霧 翠雨
Prologue
満天の星々は、塩素の匂いをかすかに孕んだ湖面の上で、ゆるやかに身じろぎしながら揺らめいていた。はるかな昔、幾万年も幾億年も前に放たれた光が、いまようやく僕らの瞳へ辿り着く──そんな途方もない時間の旅路を思うだけで、胸の奥がひそやかに震えた。
その幻想は、夜気の冷たさより深く僕らの心の柔らかいところへそっと染み込んでくる。気づけば誰もが言葉を失い、静かな感傷の底へ沈んでいた。
僕も、そして隣で星を見上げるふたりも。学生最後の夏休み、どこか取りこぼしたくない一瞬。けれどそれ以上にこの夜は──、僕ら四人組の中心で笑い続けてきた僕の幼馴染・
藍花が余命を告げられてから、僕らは彼女の望みを叶えるためなら、どんな無茶でも、どんな奇策でも差し出してきた。彼女が指さす先には必ず風が吹き、僕らはその風に押されながら走った。笑い、泣き、時に立ち止まり、それでもまた走った。
テレビを見た藍花が計画も無く、急に僕らを連れ出して海に連れ言った時。
深夜に全員で集まって学校に侵入して、馬鹿みたいにはしゃいだあの日。
屋台の匂いと人の海、そして夜空に打ち上げられた火の花を全員で見たあの瞬間。
全てが楽しく、この時が終わらないでほしいと皆が思っただろう。
──そして今日。
湖に映る星々のように儚い、藍花に残された最後の一日が、静かに、けれど確かに、僕らだけの時間の中で終わろうとしていた。
「藍花....やり残したことはないか?」
「ん~、無いかな。強いて言えばもっと生きてたかったかな....」
藍花の表情には悲しみだけでなく、諦めと呼べる冷徹な感情が混じっていた。それが僕らの心をさらにかき乱し、深い感傷に沈ませた。彼女が口を開くと、その言葉はまるで無音の嵐のように、静かに僕らの中に響いた。
「.....ごめん。」
儚瀬が発したその言葉の裏に潜んでいたのは、悔いからなのか、後悔からなのか、それとも自身への怒りだったのか、僕には分からなかった。ただひとつ確かなことはこれがどうしようもないことだったということ。長い長い人生には、手の届かない現実がたくさんあるのだと頭では理解している。けれど、それはあくまで論理の話でしかない。胸の中では感情がどうしても渦巻いて、涙が溢れそうになる。
それでも、僕は泣けなかった。今ここで涙を流すことが、藍花に対して失礼だと思ったからだ。一番つらいのは彼女自身なのに、僕が泣いてどうするというのだろう。藍花がどんな思いでその一言を紡いだのかを考えると、僕はただ黙って、彼女の隣で、その時を共にするしかなかった。
「ねぇ....私のこと見えてる?」
そう言う藍花の声はかすかに震えていた。僕にはそれが全員で過ごす最後の瞬間に涙を流さないように堪えているようにも見えた。ここに居る各々が各自の捉え方をしたのだろう。
「うん、見えてる。」
「ちゃんと皆ここに居る」
「私たちは藍花ちゃんの側にいる。」
「....ありがと。楽しかったよ。」
「まだ終わってないじゃん!!」
そう言った凪沙の瞳には涙が浮かんでいた。だが、その涙は頬を撫でることなくその場に留まっている。ここで泣いたら全部が終わってしまう気がすると思ったのだろう。必死に涙をこぼさないようにしていた。
「なぁ...私は一足先に次の夏に行ってるからさ。また全員でこうやって星空を見ようよ...」
「..絶対見よう」
「また、来年」
「...約束...だよ...絶対だからね.........」
そうして僕らの夏は終わった。
たった一つのかげがいのない命を奪い去って。
―――、夏霧 藍花。
彼女は確かにここに居た。決して忘れない。忘れてはならない。
いつの日か、また全員でこの群星を見るために。
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