第7話 紅蓮
燃え盛る炎が、冬の夜空を焦がしていた。
乾いた木材が爆ぜる音。窓ガラスが熱で砕け散る甲高い響き。そして、それらを飲み込むように轟く、ごうごうという紅蓮の咆哮。
アパートの屋根から火の粉が舞い上がり、無数の蛍火のように雪の降る空へと吸い込まれていく。
降り注ぐ雪片は、炎の熱気に煽られて地上に届く前に水滴へと変わり、あるいは舞い上がった煤と混じって黒い涙となって降り注いだ。
西田は、熱波に顔を炙られながら立ち尽くしていた。
寒さは感じない。家族の死を知った瞬間から、体の芯まで凍りついていたはずなのに、目の前の巨大な熱量が皮膚の感覚を麻痺させている。
それとも、内側から湧き上がる得体の知れないどす黒い感情が、神経を焼き切っているのだろうか。
少し離れた場所には、野次馬の人垣ができている。スマホを掲げて動画を撮る若者、口元を押さえて悲鳴を上げる女性、パジャマ姿で呆然とする近隣住民たち。
彼らの作り出す喧騒は、どこか遠い世界の出来事のように鼓膜を滑り落ちていく。
西田の視線は、ただ一点に吸い寄せられていた。
その喧騒の死角。建物の植え込みの影に、彼女はいた。
映奈だ。
薄手のニットに、裸足でサンダルを突っ掛けただけの格好。色白だった頬には黒い煤がこびりつき、丁寧に手入れされていた亜麻色の髪は乱れ、かつての清楚で几帳面だった彼女の面影はない。
だが、その瞳だけが異様に輝いていた。
彼女は燃え落ちる自分の部屋を、まるでテーマパークのパレードでも見上げるかのような、うっとりとした表情で見つめていたのだ。口元には、無邪気ですらある微かな笑みさえ浮かんでいる。
その瞳の輝きの中では、二階の角部屋で逃げ遅れた男――串本が、今まさに焼かれているはずなのに。
西田は、鉛を詰め込まれたような重い足取りで彼女に近づいた。
雪を踏みしめる音が、ザクリ、ザクリと脳内に直接響く。
「……映奈」
声をかけると、彼女はゆっくりとこちらを向いた。
焦点の定まらない瞳が西田を捉えるまでに、数秒の時間を要した。まるで、夢の中から現実へ浮上するのを拒んでいるかのように。
「あ……西田くん」
その声は、驚くほど平坦だった。
まるで、コンビニの前で偶然会った知人に挨拶するような、日常のトーン。
背後で自宅が炎上し、中に浮気相手の死体があるというのに、彼女の纏う空気には切迫感が完全に欠落している。
西田は、喉の奥に詰まっていた、錆びついた鉄塊のような言葉を吐き出した。
「あいつは……串本は、どうした」
映奈は再び炎の方へ視線を戻し、小首を傾げた。その仕草は、かつて西田が「可愛い」と愛でたものと同じだったが、今は背筋が凍るほど不気味に見えた。
「中で、寝てる」
寝ている。
その単語のあまりの場違いさに、西田は目眩を覚えた。視界がぐらりと揺れ、炎の赤色が滲む。
「寝てるって……お前、助けなかったのか? あいつ、頭を打って倒れてたんだぞ。気絶してただけだろ? 引きずってでも連れ出せば、まだ間に合ったはずだ」
西田の問い詰めに対し、映奈はふと視線を落とした。自分の汚れた足先を見つめる。
かつて彼女は、靴を揃えることに執着していた。玄関の靴はミリ単位で整えられ、少しでも乱れていると嫌な顔をした。そんな彼女が今は、片方のサンダルが脱げかけていることにも気づいていない。
彼女は、叱られた子供のように唇を尖らせた。
「だって、なんかヌルヌルしてたんだもん」
西田は息を呑んだ。
「……は?」
「吐いたものでベトベトしてて、触りたくなかったし……それに、すごいイビキかいてて。あ、これもう起きないなって思ったら、運ぶの面倒になっちゃった」
面倒になった。
それは物理的な困難さの話ではない。小柄な映奈にとって大柄な男を運ぶのが無理だとしても、助けを呼ぶことすら放棄した理由が「汚いから」「面倒だから」だと言うのか。
「だからって、置いてきたのか。火がついたのに」
「……うん」
映奈は小さく頷いた。その横顔には、後悔の色も、焦燥の色もない。ただ、やるべき宿題を忘れてきてしまった時の言い訳のような、軽薄な響きだけがあった。
彼女は自分の指先についた煤を、爪でカリカリと削り始めた。
「なんかね、もういいかなって思ったの」
「いいかなって……」
「タバコ、手が震えてて落としちゃったの。そしたら、床にこぼれてた灯油がジュッて鳴ってね。わあーって花火みたいに広がったの」
彼女は両手を広げて、炎が広がる様子をジェスチャーで示した。無邪気なパントマイムのようだ。その瞳は、思い出の中の光景に陶酔している。
「……すごくきれいだった。だから、消すのもったいないなって。そう思ったら、体が勝手に外に出てた」
未必の故意。
あるいは、快楽的な不作為による殺人。
彼女は積極的に彼を殺したわけではないかもしれない。だが、助かる可能性のあった人間を、美しい花火の一部として消費することを選んだのだ。生ゴミや空き缶と一緒に焼却処分することを選んだのだ。
西田は彼女の顔を凝視した。
そこにあるのは、狂気というよりも、もっと根源的な「欠落」だった。善悪の判断や、他者の生命に対する尊厳、そういった社会的な装飾がすべて焼け落ちて、剥き出しになった幼児性。
背後のアパートで、ドスン、と何かが崩落する音がした。火の粉が激しく舞い上がる。
あの中で、串本の肉体が炭化している。あの尊大で、西田を嘲笑い、映奈の体を貪っていた男が、今はただの燃えるタンパク質となって消滅しようとしている。
ざまあみろ、という感情は湧かなかった。ただ、圧倒的な虚無感と、寒気だけが西田を襲う。
「……なあ、映奈」
西田は、ずっと聞きたかったことを口にした。いや、聞くのが怖くて目を逸らしていた核心を。
「お前、知ってたんだよな。俺の家族が死んだこと」
映奈の肩が、ピクリと震えた。
彼女は炎を見つめたまま、何も答えない。オレンジ色の照り返しが、彼女の横顔に明暗のコントラストを描いている。
「あいつ、笑いながら言ってたぞ。『こいつ、彼氏の不幸話で濡れる変態や』ってな」
西田の声が、次第に震えを帯びていく。
腹の底から、マグマのような熱いものがせり上がってくる。それは純粋な殺意に近い怒りだった。
「お前が話したんだろ? 俺の家族が死んで、俺が泣いてるところを……あいつに犯されながら、笑い話にしたんだろ?」
西田の脳裏に、幸せだった頃の記憶が走馬灯のように駆け巡る。
彼女の笑顔。手作りの弁当。二人で選んだ家具。
それら全てが、目の前の炎の中で黒く焼け焦げていく。
「俺たちが付き合って三年だぞ? 結婚の話だって出てたじゃないか。毎週末、お前の好きな料理を作って……大切にしてきたつもりだ。それなのに」
そこまで言って、西田は言葉を詰まらせた。
脳裏に蘇るのは、あの部屋の惨状だ。散乱したカップ麺の容器、ストロング缶の山、そして万年床で絡み合っていた二人の肢体。
あの「生暖かく湿った、甘腐った臭い」が、鼻の奥で生々しく蘇る。
映奈はゆっくりと顔を上げた。
その瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。だが、それは同情や懺悔の涙には見えなかった。
「……怖かったの」
彼女はぽつりと呟いた。
「怖かった?」
「西田くんの不幸が。あまりにも大きすぎて、重すぎて……私には支えきれないって思ったの」
映奈は自分の両腕を抱くようにして、体を小さく震わせた。
「電話がかかってきた時、西田くんの声、死んでた。中身が空っぽみたいだった。それ聞いてたら、私まで吸い込まれそうで……。私まで不幸になりそうで、息ができなくなった」
西田は呆然とした。
確かに、事故の直後、彼は錯乱していたかもしれない。だが、恋人なら、そこで支えてくれるものではないのか。
「だから、逃げたのか? 俺から逃げるために、串本みたいな男に抱かれたのか」
「逃げたかった。何もかも忘れて、頭の中を真っ白にしたかった」
映奈の声が熱を帯び始める。彼女は両手で自分の顔を覆ったが、指の隙間から覗く瞳は、やはり奇妙に光っていた。
「西田くんとセックスする時、いつも『幸せそうな顔』しなきゃいけないのがしんどかったの。愛されてる演技、疲れちゃって」
西田の心臓が早鐘を打つ。愛だと思っていたものが、彼女にとってはただの演技であり、枷だったというのか。
「だから、汚くなりたかったの」
彼女は、燃え盛るアパートを指差した。
「あんな汚い部屋で、どうしようもない男の人と、お酒飲んで、めちゃくちゃになって……そうすれば、西田くんのことも、死んだ家族のことも、全部どうでもよくなる気がして」
「……串本のこと、好きだったのか?」
西田の問いに、映奈は即座に首を横に振った。
「ううん。全然」
あまりにも即物的な否定に、西田は串本に対して奇妙な憐れみさえ感じた。
「好きじゃない。名前もよく覚えてないし、何してる人かも知らない」
映奈はうっすらと笑みを浮かべた。回想に浸るように、遠くを見る目をする。
「でも、あの人は私のこと、ただの穴としか見てなかったから。トイレでするみたいに、中に出して、拭いて、終わり。……そういう、ゴミみたいな扱いのほうが、今の私にはお似合いでしょ?」
西田の中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。それは、彼が映奈に対して抱いていた最後の幻想だった。
彼女は清楚な聖女でもなければ、無理やり手籠めにされた被害者でもなかった。
彼女は自ら望んで、あの汚泥の中に身を沈めていたのだ。西田という「重荷」から逃れるために、串本という「安易な快楽」を選び、自らの尊厳ごとドブに捨てていたのだ。
思考停止できる安楽さ。獣のように喘ぎ、涎まみれになって、頭の中を空っぽにするためだけの排泄行為。
あの男は、自分が西田から女を奪った勝者だと思い込んでいた。西田を見下し、あぐらをかいて優越感に浸っていた。
だが実際は、映奈という壊れた少女の、現実逃避のための使い捨てカイロに過ぎなかった。用が済めば、冷たくなったままゴミと一緒に捨てられる運命だったのだ。
そして今、彼は文字通り燃やされている。
西田の拳が固く握りしめられた。爪が食い込み、血が滲むほどの強さで。
怒りが沸点を超えようとしていた。こんな理不尽が許されていいはずがない。彼女の首を絞めてやりたい衝動に駆られる。
だが、次の瞬間。
映奈がふと、燃えカスの舞う空に向かって手を伸ばした。まるで雪を掴む子供のように、無防備な仕草で。
「きれいだね、西田くん」
彼女は呟いた。
「何もかも燃えて、真っ赤になって……すごくきれい」
その言葉を聞いた途端、西田の中の怒りが、急速に冷えていくのを感じた。
熱が奪われていく。
怒る気力すら失せてしまったのだ。
この女に何を言っても無駄だ。彼女には「責任」という概念が存在しない。善悪の天秤が存在しない。彼女の世界では、自分は常に「か弱い被害者」であり、悪いのは「重すぎる現実」なのだから。
西田は、深く息を吐いた。白い呼気が、炎の熱気ですぐに消える。
殺意すらもったいない。この空っぽの器に対して感情を向けること自体が、徒労に思えた。
「……そうか」
西田は静かに呟いた。独り言のように。
「お前は、悪魔ですらないんだな。ただの、壊れた子供か」
もっと高尚で、恐ろしい存在だと思っていた。男を狂わせ、破滅に導くファム・ファタールだと。
だが、目の前にいるのは、嫌なことから目を逸らし、おもちゃを壊して「壊れちゃった」と泣く、精神的に未成熟な子供でしかない。
「え? なに?」
映奈が不思議そうにこちらを見る。その表情には罪悪感のかけらもなく、ただの純粋な疑問があるだけだった。
アパートの窓から、ひときわ大きな炎が吹き出した。
遠くから、ウゥゥゥゥ……というサイレンの音が聞こえ始めた。最初は微かに、しかし確実に音量を増して近づいてくる。
「……もういい」
「え?」
「もういいよ、映奈。全部」
西田は彼女から視線を外し、燃え落ちるアパートを見上げた。
あの中には、西田が映奈にプレゼントしたアクセサリーもあったはずだ。二人の思い出の品も、写真も、手紙も。
そして、西田が今日コンビニで買ってきた、安っぽいシュークリームも。
全てが灰になる。
西田の家族が骨になったように、彼と映奈の三年間の歴史も、串本という男の人生も、この炎の中で等しく炭化していく。
「全部、燃えてしまえばいい」
西田の口から、ふとそんな言葉が漏れた。
それは奇妙なことに、映奈の望みとシンクロしていた。
だが、意味は決定的に違う。
映奈は現実から逃げるために燃やした。
西田は、現実を受け入れるために、この炎を見届けている。
「……西田くん?」
映奈が不安そうに彼の顔を覗き込んだ。
西田は彼女を見なかった。もう、彼女を見る必要はないと感じていた。彼女は過去の遺物だ。美しい思い出の中で死んだ恋人の抜け殻だ。
ここにいるのは、放火と殺人の嫌疑がかかるであろう、見知らぬ犯罪者でしかない。
「さよなら、映奈」
西田は静かに、しかし明確に告げた。
映奈は目を見開いた。その瞳に、初めて明確な動揺が走る。
「え……?」
彼女は言葉の意味を理解できていないようだった。あるいは、理解することを拒絶しているのか。
「待ってよ、どういうこと?」
彼女は西田のコートの袖を掴もうとした。その手は煤で黒く汚れ、微かに震えていた。
「私、お財布もスマホも燃えちゃったんだよ? 今日どこに泊まればいいの? ねえ、西田くん、なんとかしてよ」
彼女の声には、当然助けてもらえると信じて疑わない、底なしの寄生心が滲んでいた。自分が何をしても、西田だけは自分を受け入れてくれるという、傲慢な甘え。
西田は、その手を避けるように一歩下がった。
サイレンの音が、もうすぐそこまで迫っていた。赤い回転灯の光が、建物の壁を舐めるように照らし始めている。
日常を切り裂く警告音が、二人の間の決定的な断絶を告げていた。
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