「死人の話なんて聞きたくない」と僕を裏切った彼女が、浮気相手を物理的に燃えるゴミとして処理するまで。家族を失った僕に残されたのは美しい思い出ではなく、紅蓮の炎と圧倒的な虚無だけだった。
ネムノキ
第1話 腐敗
骨を拾う、という行為がこれほど無機質なものだとは知らなかった。
あるいは、私の感性がとうに焼き切れてしまっていたからかもしれない。
火葬場の炉前で、職員が淡々とした口調で説明をする。
「こちらが喉仏です。仏様が座禅を組んでいるお姿に見えることから、そう呼ばれております」
「こちらが頭蓋骨の一部です」
業務的で、抑揚のない声。
それはスーパーのレジ打ちが商品の値段を読み上げるのと、何ら変わりがないように聞こえた。
私はそれを、まるで理科の標本でも眺めるような気持ちで見ていた。
箸でつまみ上げた白い欠片は、驚くほど軽く、脆かった。
カサリ、と骨壺に収まる乾いた音が、広い空間に虚しく響く。
涙は出なかった。
悲しみという感情は、あまりに巨大な喪失の前では機能不全を起こすらしい。ただ、目の前にある白い灰の山が、数時間前までは温かい血の通った家族だったという事実が、うまく脳に定着しなかった。
家族全員が死んだ。
交通事故だった。
対向車線から飛び出してきた大型トラック。逃げ場のない正面衝突。
即死だったという警察の説明だけが、唯一の救いだったのかもしれない。痛みを感じる暇もなかったのだとしたら。
唐突で、理不尽で、そしてあっけない幕切れ。
そこからの数日間は、悪夢の中を泳いでいるようだった。
通夜、告別式、初七日。
黒い服を着た人々が、波のように押し寄せては引いていく。
「ご愁傷様です」
「お悔やみ申し上げます」
「大変だったね」
定型文のような慰めの言葉たち。彼らの瞳の奥にあるのは、純粋な同情というよりも、他人の不幸に対する好奇心や、自分ではなくてよかったという安堵の色に見えた。
私は喪主として、ただひたすらに頭を下げ続けた。
保険会社との無機質なやり取り。加害者側の弁護士の事務的な謝罪。警察署での調書作成。
ここ数日の記憶は、まるで低画質の古い映画のようにノイズが走り、断片的だ。
食事の味などしなかった。コンビニのおにぎりを口に押し込み、水で流し込む。それは「生きる」というよりも、単なる「生物的な維持活動」に過ぎなかった。
心臓が動いているから呼吸をし、胃袋が空になるから食物を流し込む。そこに意志はなく、ただ惰性だけがあった。
すべてが終わった三日目の夜。
私は自分のアパートの部屋で、独り、膝を抱えていた。
電気もつけず、カーテンも閉め切った暗い部屋。
静寂が耳に痛い。
時計の秒針の音だけが、チク、タク、と不規則に脈打つ私の鼓動と重なり、部屋の隅々まで響き渡っている。
家族の声はもう聞こえない。母の笑い声も、父の咳払いも、妹のふざけた歌声も。この世界から永遠に失われてしまった。
その事実が、遅効性の毒のように、じわりと全身に回り始めていた。
ふと、強烈な渇きを覚えた。
喉の渇きではない。もっと根本的な、魂の空洞が悲鳴を上げているような欠乏感。内臓をごっそりと抉り取られたような喪失感が、冷たい風となって胸の中を吹き荒れる。
穴を埋めたい。
何でもよかった。泥でも、セメントでも、汚泥でもいい。この胸にぽっかりと開いた風穴を塞いでくれるパテが必要だった。
その時、脳裏に浮かんだのが恋人である
彼女に会いたい、と思った。
いや、正確には違う。
彼女の体温に触れて、自分がまだ生きていることを確認したかった。彼女の柔らかい肉体に縋りつき、子供のように泣きじゃくり、慰められ、憐れまれ、この重苦しい現実からほんの数時間でも逃避したかったのだ。
映奈なら、きっと受け入れてくれる。
彼女は、いつだって私の聖域だった。
付き合って三年になる彼女は、少し潔癖なところがあるけれど、その分、人一倍他人を思いやれる優しい女性だ。
以前、私が酷いインフルエンザにかかった時のことを思い出す。
高熱にうなされる私の部屋に、彼女は毎日通ってくれた。マスクを二重にし、アルコールスプレーを常備して、部屋中を消毒しながらも、私の汗を丁寧に拭いてくれた。
「ほんと、手のかかる人。……私がいないと、西田くんはすぐ死んじゃいそうだね」
そう言って、まるで迷子をあやすように優しく、けれど逃げ場を与えないような響きを含ませて彼女は笑った。
フーフーと冷ましてくれた熱いお粥。彼女の指先からは、いつも石鹸のような清潔な香りがした。
彼女の部屋もそうだ。いつ訪ねても塵一つ落ちていないフローリング。完璧に整頓された本棚。日当たりの良いベランダで干されたシーツの匂い。
あの清潔で、温かくて、秩序のある場所に行けば、この泥のような絶望も洗い流せるかもしれない。
それは愛と呼ぶにはあまりに身勝手で、利己的な衝動だった。
家族の死をダシにして、女に甘えようとしている。そんな自嘲が胸をかすめたが、今の私にはそれを振り払うだけの倫理観さえ残っていなかった。
私はのろのろと立ち上がり、コートを羽織った。
スマートフォンを見る。
通知はない。映奈からの連絡は、一件も入っていなかった。
彼女には、家族のことは伝えてあったはずだ。事故の直後、パニックになりながら送ったLINE。「家族が死んだ」「これから警察に行く」と。
既読はついている。
葬儀の日取りも、場所も送った。けれど、彼女は現れなかった。
仕事が忙しいのだろうか。それとも、あまりに重い不幸に見舞われた恋人に、どう言葉をかけていいか迷っているのだろうか。繊細な彼女のことだ、下手な慰めが私を傷つけると思って、身動きが取れなくなっているのかもしれない。
普段の彼女なら、「大丈夫?」「何かできることある?」と気遣うメッセージの一つや二つ、すぐに寄越してくれてもいいはずだ。
だが、今の私にはその違和感を深く追求する気力もなかった。むしろ、連絡がないことを好意的に解釈しようとした。そっとしておいてくれているのだと。
ただ、彼女の部屋に行けば会える。その事実だけが、今の私を動かす唯一の動力源だった。
アパートを出ると、二月の寒風が容赦なく吹き付けてきた。
肌を刺すような冷気。
街灯が寒々しくアスファルトを照らし、時折通り過ぎる車のヘッドライトが、網膜に残像を焼き付けていく。
世界はこんなにも普通に回っている。私が家族を失っても、信号は変わり、コンビニは明かりを灯し、人々は眠りにつく。
その無関心さが、今はありがたくもあり、同時にひどく残酷にも思えた。
途中、駅前のコンビニに立ち寄った。
深夜の店内は、蛍光灯の白々しい光に満ちていた。
私は機械的に棚を巡り、安っぽいシュークリームを二つと、缶コーヒーを二本カゴに入れた。
映奈は甘いものが好きだ。特にカスタードクリームには目がない。「太っちゃうよ」と言いながら、幸せそうに頬張る顔が見たかった。
お土産、というにはあまりに貧相だ。だが、手ぶらで行くわけにはいかないという、辛うじて残った社会性が私にそうさせた。
レジの店員は、死人のような顔をした私を見ても、眉一つ動かさなかった。マニュアル通りの接客。バーコードを読み取る電子音だけが響く。それが逆に心地よかった。
コンビニ袋をぶら下げて、再び夜の街を歩く。
映奈のアパートまでは徒歩で十五分ほど。
彼女の部屋は、古い木造アパートの二階にある。築年数は古いが、彼女なりに工夫して可愛らしく飾り付けていた部屋だ。
パステルカラーのカーテン、観葉植物、ほのかに香るラベンダーのアロマ。
かつての私にとって、そこは世界で一番安心できるシェルターだった。
階段を上る足音が、カツ、カツ、と鉄板に響く。
深夜二時を回っている。住人たちは皆、眠りについている時間だ。
彼女の部屋、二〇三号室の前に立つ。
インターホンのボタンに指を伸ばしかけて、私は手を止めた。
深夜だ。もし眠っていたら、起こしてしまうかもしれない。
合鍵は持っている。付き合って一年の記念日に、彼女が照れくさそうに渡してくれたスペアキーだ。『いつでも来ていいからね』という言葉と共に。
静かに入って、寝顔を見るだけでもいい。もし起きてくれたら、その時は……ただ、抱きしめてもらおう。何も言わずに、朝が来るまで。
私はポケットから鍵束を取り出した。
冷え切った金属の感触が指先に伝わる。
鍵を鍵穴に差し込もうとして――私は動きを止めた。
違和感があった。
鍵穴に差し込むまでもなく、視界の端で何かがおかしかった。
ドアノブが、わずかに半回転しているように見えたのだ。
まさか。
心臓がドクリと嫌な音を立てる。
私は恐る恐る、ドアノブに手をかけ、回してみた。
ガチャリ。
抵抗なく、ノブが回った。
開いている。
「……開いてる?」
思わず、疑問形の独り言が漏れた。
背筋に冷たいものが走る。同時に、頭の中で警報が鳴り響いた。
ありえない。
映奈は、極度の心配性だったはずだ。
「ちゃんと閉めてよ。知らない人が入ってくるの、想像するだけで気持ち悪いじゃない」
そう言って眉をひそめ、彼女は在宅中でも必ずチェーンロックをかけていた。
ゴミ出しの数分間でさえ、鍵をかけ忘れることはなかった。私が部屋を訪ねた時も、インターホン越しに声を確認し、さらにドアスコープで覗いてからでないと開けようとしなかったほどだ。
その彼女が、深夜に鍵を開けっ放しにしている?
コンビニにでも行った直後なのだろうか。
いや、部屋の電気は消えている。窓から漏れる明かりはない。
泥酔して帰ってきて、そのまま鍵をかけ忘れたのか?
だとしたら、あまりに無防備すぎる。彼女はお酒には弱くないが、理性を失うほど飲むようなタイプではない。いつも「明日の仕事に響くから」と、グラス一杯で止めるような慎重さを持っていたはずだ。
あるいは――もっと悪い予感。
空き巣? 強盗?
家族を失ったばかりの私に、さらなる不幸が追い打ちをかけているのか? もし彼女の身に何かあったら。
心臓の鼓動が早鐘を打つ。嫌な汗が背中を伝う。
引き返すべきか? 警察を呼ぶべきか?
いや、もし単なるかけ忘れだったら、大騒ぎして彼女を怖がらせてしまう。まずは確認しなければ。
私はシュークリームの入ったビニール袋を握りしめ直すと、ゆっくりと、音を立てないようにドアを押し開けた。
重い鉄の扉が、錆びついた
数センチの隙間ができた瞬間。
そこから漏れ出してきたのは、光ではなかった。
空気だった。
それも、外の冷たく乾燥した空気とはあまりに異質な、生暖かく湿った空気。
そして、臭い。
鼻孔を突いたのは、甘ったるいような、それでいて何かが腐敗したような、鼻の奥にねっとりと張り付くような不快な臭気だった。
私の知っている、あのラベンダーの香りではない。
腐った果実。
安物のアルコール。
そして、濃厚な獣の臭い。
私は思わず顔をしかめた。
これは、生活の臭いではない。もっと動物的な、理性を排除した場所でしか発生しない種類の
チェーンロックは掛かっていなかった。
完全に無防備な状態で、その部屋は暗闇に向かって口を開けていた。
私は息を殺して、玄関へと足を踏み入れた。
足元のセンサーライトが反応しない。電球が切れているのか、あるいは意図的に外されているのか。
廊下の常夜灯の薄明かりだけが、頼りだった。
その微かな光が、玄関のたたきを照らし出す。
そこで私は、最初の「異常」を目撃した。
靴の山だ。
整頓好きだった映奈の玄関とは到底思えない。いつもなら靴箱にしまわれているはずの靴が、乱雑に脱ぎ散らかされている。
その中で、一際異彩を放つものが一足あった。
黒い、エンジニアブーツ。
泥と油にまみれた、巨大な男物のブーツだ。先端には鉄板が入っているのだろうか、無骨で攻撃的なフォルムをしている。
それが、玄関の中央に鎮座しているのではない。
そのブーツは、無造作に、暴力的に、あるものの上に乗り上げていた。
映奈のお気に入りの、ベージュのパンプス。
先月、彼女と一緒にデパートで買ったものだ。
「ね、これ。……春になったら履こうと思って。桜を見に行くとき、これで行きたいな」
そう言って、大事そうに箱にしまっていたはずの、あの繊細な靴。
それが今、泥だらけのブーツの下敷きになり、ヒールがひしゃげて踏みつけられている。革の表面には、ブーツのソールの跡がくっきりと刻まれていた。
その光景だけで、ここで何が起きたのか、雄弁に物語っていた。
男が来たのだ。
そして二人は、靴を揃える余裕すらなかった。
玄関に入った瞬間から、理性のタガが外れ、獣のように貪り合いながら、もつれ込むようにして奥へとなだれ込んだ。
泥だらけのブーツが、彼女の大切なものを踏みにじることさえ気にも留めずに。
いや、あるいはその「踏みにじる」行為すらも、彼らの興奮の一部だったのかもしれない。
私は立ち尽くした。
手の中のコンビニ袋が、カサリと乾いた音を立てる。
引き返すべきだ。
本能がそう告げていた。この先を見てはいけない。見れば、私は決定的に何かを失う。家族だけでなく、私がこの世に繋ぎ止められていた最後の細い糸さえも、プツリと断ち切られてしまう。
だが、足は動かなかった。
代わりに、奇妙なほどの冷静さが頭をもたげていた。
「……ああ、やっぱり」
吐息と共に、乾いた言葉が漏れた。
心のどこかで、そう呟く自分がいた。
私の人生は、いつだってこうだ。
大切なものは、指の隙間から砂のように零れ落ちていく。幸福の総量は決まっていて、私は今、その負債を一括で支払わされているに過ぎない。
私は靴を脱いだ。
なぜか、自分の靴だけは綺麗に揃えた。この混沌とした空間で、自分だけは理性的でありたいと願う、哀れな抵抗だったのかもしれない。
そして、音もなく廊下を進む。
一歩進むごとに、あの「生暖かく甘腐った臭い」が濃くなっていく。
廊下の床には、脱ぎ捨てられた衣服が点々と落ちていた。
知らない男のジーンズ。
映奈のカーディガン。
裏返しになったブラウス。
黒いボクサーパンツ。
そして、無惨に引きちぎられたストッキング。
それらはまるで、ヘンゼルとグレーテルのパン屑のように、あるいは地獄への道しるべのように、奥の部屋へと続いていた。
そこは、かつてリビングと呼ばれていた場所だ。
ドアは開け放たれている。
私はその入り口に立ち、部屋の中を見渡した。
そこは、ゴミの迷宮だった。
床が見えないほどに、物が散乱している。
飲みかけのストロング系チューハイのロング缶が、墓標のように何本も転がっている。中身がこぼれ、カーペットにどす黒い染みを作っていた。
食べ散らかされたコンビニ弁当の空き殻。
汁の残ったカップ麺の容器。
丸められた大量のティッシュペーパー。
吸い殻が山のように溢れかえった灰皿。
そのすべてが、渾然一体となって床を埋め尽くしている。
ここは本当に、あの潔癖な映奈の部屋なのか?
週に一度は掃除機をかけ、フローリングワイパーで磨き上げていた彼女の聖域。
それがたった数日で、いや、あるいは私の知らない間に、こんな掃き溜めに変わってしまったのか。
これは「だらしなさ」のレベルを超えている。これは自暴自棄だ。生活すること、人間らしくあることを放棄した、一種の緩慢な自殺現場のようにも見えた。
そして、そのゴミの山の中心に、万年床があった。
かつては清潔な生成り色だった布団は、今は薄汚れ、黄ばんだシミが無数に付着している。
そこに、二つの肉塊があった。
一つは、見知らぬ男。
筋肉質で、背中に龍のような刺青が彫られた広い背中。短く刈り込まれた髪。浅黒い肌。
男はうつ伏せになり、ズズー、ズズー、と重苦しいいびきをかいている。
その男の下敷きになるようにして、映奈がいた。
白い肌が、闇の中でぼんやりと浮かび上がっている。
二人は全裸だった。
掛け布団はめくれ上がり、そのあられもない姿を隠そうともしていない。
男の太い腕が、映奈の細い首元に所有印のように巻き付いている。
映奈の顔が、男の脇腹に埋もれている。
それは、愛し合う恋人たちの穏やかな睡眠とは程遠かった。
まるで、泥沼の中で絡み合い、共食いをした果てに力尽きた、二匹の獣。あるいは、廃棄物処理場に打ち捨てられたマネキンの山。
情事の残り香。
汗と、精液と、愛液と、そしてアルコールの混ざった、むせ返るような熱気。
さらに、その中に混じる、ツンとした酸っぱい臭い。
枕元を見ると、黄色い液体が飛び散った跡があった。
吐瀉物だ。
誰かが吐き、それを拭き取りもせずに、そのすぐ横で眠っているのだ。
あの綺麗好きだった彼女が。
少しでも服にシミがついたら、すぐに染み抜きをしていた彼女が。
汚い。
不潔だ。
けれど、不思議と怒りは湧いてこなかった。
ただ、圧倒的な「事実」として、その光景が眼球に焼き付けられていく。
これが、現実だ。
私が家族の骨を拾い、灰色の空を見上げていた時、彼女はこの部屋で、この見知らぬ男と、酒を浴び、吐瀉物にまみれながら、獣のように交わっていたのだ。
私の悲しみなど、彼女にとっては重荷でしかなかったのだろう。
あるいは、私の不幸につけこむ隙間もないほど、彼女自身が別の快楽に溺れていたのか。
ズキン、と頭の奥が痛んだ。
手の中のシュークリームが、ひどく場違いな重さに感じられた。カスタードの甘い匂いを想像するだけで、胃液がせり上がってくる。
私は動けない。
声をかけることも、殴りかかることも、逃げ出すこともできない。
ただ、幽霊のように入り口に立ち尽くし、この地獄のような光景を「観察」することしかできなかった。
その時。
男のいびきが、ふっと止まった。
ドサリ、と布団が動く音がする。
男が寝返りを打ち、のっそりと半身を起こした。
充血した濁った目が、闇の中で私を捉える。
目が合った。
心臓が跳ね上がる。
怒鳴られるか。
それとも、「誰だお前は」と詰め寄られるか。ナイフでも持っているかもしれない。
私は身構えた。
しかし、その男は私を見ても動じなかった。
まるで、そこに置いてあるタンスか観葉植物でも見るような、無関心な目で私を一瞥すると、口の端を歪めてニヤリと笑った。
その笑顔には、罪悪感も驚きもなかった。
あるのは、圧倒的な余裕と、他者を踏みにじることに慣れきった者の傲慢さだけ。
「……あァ?」
男が掠れた、しかし太い声で呟く。
「……誰や、自分」
威圧感というよりも、心底どうでもいいゴミを見るような視線。
男は何も言わずに、全裸のままあぐらをかいた。その男の股間には、まだ生々しい情事の痕跡が残っている。
隣で、映奈が小さく呻いた。
「んぅ……」
彼女もまた、目を覚まそうとしている。
その寝息は、私の隣で眠っていた時の穏やかなものではなく、何かに溺れているような苦しげなものだった。
境界線は、完全に消失していた。
日常と非日常。
聖域と汚濁。
被害者と加害者。
かつて私が大切にしていた「彼女の部屋」はもうどこにもない。
ここにあるのは、見知らぬ男の吐瀉物と、情事の残り香だけだった。
怒ろうとした。叫ぼうとした。
だが、感情の回路が強制的に遮断されるのを感じた。
今ここで感情を爆発させれば、私は完全に壊れてしまう。家族を失い、さらに恋人まで失った事実を直視すれば、精神が崩壊してしまう。
だから私の心は、防衛本能として「諦め」を選んだのだ。
私はただ、立ち尽くしていた。
手の中のコンビニ袋を、指が白くなるほど強く握りしめたまま。
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