空っぽ男と死にたい女とヴィッセル神戸
うまっしー
序章
目が覚めると、気持ちは随分落ち着いていた。
四肢が縛られている。
私は看護師を呼ぶ。
「すいませーん」
見知った看護師が飛んでくる。
「正気になりましたか?」
「はい」
「よかったです」
看護師が心底安心した声を出す。
神戸こころのホスピタルへの入院も、5回目になると慣れたものだ。
「中城先生は何時に来ますか?」
「あと2時間くらいですね」
「それまで拘束を外すことは・・・」
「できません」
「ですよね」
「まあ、村田さんはもう症状安定しているようなので、もう少し我慢してもらえますか」
「了解です。とりあえず水をもらえますか」
「はーい」
看護師がステーションに戻り、水を持ってくる。
水を飲ませてもらう。四肢を縛られた状態で飲む水は美味い。
中城先生が来るまでの間、今後のことを考える。まずは仕事のことだ。これまで入院しながらも与えられた休職期間を使い、騙し騙し働いてきたが、これで休職期間を使い果たした。解雇が待っている。
ただ、そのかわり十分な貯金はしている。
「なんとかなるか」
独り言を呟く。ただ、もう仕事にやりがいを見出し、仕事に依存することはできない。
何か、新しいものに生きがいを見出さなきゃな。何があるかな。
そんなことを考えていると、中城先生が現れる。
「村田さーん。こんにちは」
「こんにちは。すいません毎度のことで」
「いえいえ。村田さんが悪いわけではないので、気にする必要は何もないですよ」
「今回も暴れてましたか」
かすかに覚えているが再確認をする。
「はい。なかなかに暴れてました」
中城先生が苦笑する。
「もう、症状安定しているようなので、拘束外しますね」
「はい。ありがとうございます」
「村田さんには言わずもがなかと思いますが、最短でも、1ヶ月半は入院していただくので」
「了解です」
私は統合失調症だが、普段は幻聴や幻覚も妄想もない。
ただ、興奮状態が継続すると徐々に錯乱状態へ陥っていく。
それでも、統合失調症の中ではマシな方だと思っている。
両親に荷物を持ってきてもらい、取り掛かったのは当面の暇つぶしだ。
この精神病院では、スマートフォンはとりあげられる。そして、本を読むのも飽きて来る。
そんな時に大事なのが会話だ。
過去4回の入院で、人間というのは、つくづく他の人がいないと生きていけないことを、思い知らされた。
喋る人がいないと気が狂いそうになる。だから、まず喋れる人を探すのだ。
病棟内を歩き、喋れる人を探す。だが、ここは精神病院の閉鎖病棟だ。
『おかしな人』に捕まる可能性もある。
慎重に話しかけないと、面倒なことになることもまた、過去4回の入院で学んだことだ。
私が話しかけることにしたのは、はたちくらいの女性だった。ボブカットで身長は160センチくらいだろうか。少し面長のつりめでいつも不安げな顔で、一人でポツンとソファーに座っている。
話しかける決め手は、不安げな顔だった。病院の中で明るい人間は避けた方がいい。
若い女性に話しかけるのは勇気がいるが、他に選択肢は少なかった。背に腹は変えられない。
「こんにちは」
私が声をかける。
「こんにちは」
少しの怯えと緊張を含みながらも、挨拶を返してくれる。
これは大丈夫そうだと思い、過去の成功例にならい不安ながらも道化を演じる。
「僕、入院してきた村田、36歳です。んで、暇なんですよー。ちょっとお話しません?あっ、ナンパとかではないんで。頭は問題ありますけど、ここでナンパするほど、気は狂ってないんで」
できる限りおどけて話す。すると、くすりと笑いながら、女性が言葉を返す。
「私、小林って言います。私も一人で不安だったんで、ちょっとホッとしてます」
「そうでしたか。僕も小林さんがまともそうなかたで安心してます」
小林さんはくすくす笑ってくれる。
私は安心する。当面の話相手が得られた。
入院して1ヶ月ほどが経ち、退院の日程も決まった。
中城先生から、開放病棟に移ることを提案されたが断っていた。
今から喋る人を探すのがめんどくさい。
36歳のおっさんが、はたちくらいの女性と喋ることの、気持ち悪さは自覚している。
実際、他の入院患者から「若い子と話せてええのう」などと、声をかけられることもあった。
おそらく、彼にはエリートらしきものから転落した、36歳無職独身の統合失調患者の自暴自棄感など、想像もつかないのだろう。
もう、恋愛や結婚など、無駄金使いで自分の足を引っ張る要素でしかない。
「今日のご飯はなんだろうね」
小林さんと話すのもだいぶ慣れ、私は標準語のタメ口で喋っていた。小林さんが標準語だったからと、タメ口の方が年齢差的に自然だと思ったからだ。
「食事表、見に行きます?」
「行こうか」
食事表の場所に向けて歩き出す。
「それにしても、初めて会った時はびっくりしましたよ」
1ヶ月も一緒にいると、同じ会話が繰り返される。
今日も、小林さんは初対面の時のことをいじってくる。
「ごめんね。何度も言うけどあの時はまだ軽く躁だったんだよ」
「でも、本来は落ち着いた方だとわかって良かったです」
食事表を見ながら、ふと、ずっと気になっていたことが頭をよぎる。
小林さんは、精神病院にくるには『まとも』すぎる。
嫌がられたら、開放病棟に移ればいい。そんな軽い感覚で、入院した理由を尋ねる。
「僕は統合失調症で入院してるんだけど、小林さんはなんで入院してるの?あっ、言いたくなければ大丈夫だよ」
小林さんは少し逡巡し、喋り出した。
「私、自殺しようとしてたところを見つかって、連れてこられたんです」
自殺という、センシティブなキーワードに、びくりとしながら言葉を返す。
「なんで死のうと思ったの?」
「辛いとかじゃないんです。でも、生きている意味が見当たらないんです」
私の目をまっすぐとみて尋ねられた。
「村田さんは、何のために生きてるんですか?」
私は、そのまっすぐな瞳に思わず、その場しのぎの答えをした。
「ヴィッセル神戸かなぁ」
「ヴィッセル神戸?」
小林さんがきょとんとする。おそらく、彼女はその問いを自分や、さまざまな人にしたんだと。そして、その問いに対し、今まで得られた答えとは遠くかけ離れた答えを聞いて、びっくりしたのであろうことを感じる。
「サッカーのチームなんだけど、このチームを応援することが生きがいだね」
本当は、仕事が生きがいだった。仕事のために生きてきた。そして、今、病気で仕事を失い、空っぽになっていた。
新たな生きがいを探そうとしていた矢先に、聞かれたものだから大嘘をついてしまった。
「盛り上がるんだよ。一番よかったのは何年か前の鹿島戦かな。開始早々に点をとってその後ずっとハラハラして、勝ち越したまま終了直前になった時はスタジアム中で大騒ぎして」
「へぇー」
小林さんが興味深そうに頷く。
「だから、退院したら1年間ヴィッセル神戸を追っかけようと思ってるんだ」
嘘である。ただ、目の前の女性に自殺以外の選択肢があることを、知ってほしかっただけである。
自殺は、周囲の全ての人を傷つける。私はそのことを、大学1年の冬に知っていた。
でも、自殺してはいけないなどと諭しても、意味がないことはわかってる。散々小林さんはそんなことを、諭されているであろうから。
だが、私は小林さんに自殺してほしくなくて、必死だった。
「お金はどうするんですか?」
「わりといい企業に勤めてたから貯金がたんまりあるんだよ」
次に出た言葉は、自分でも信じられないものだった。
「小林さんも一緒に行く?お金は出すよ」
小林さんは迷わずに、思わぬ回答をする。
「面白そう!」
小林さんの目が光る。
「行きたいです!」
その答えに少し戸惑いながらも、答える。
「じゃあ行こう!」
これで、おそらく小林さんの寿命は1年は伸びるだろう。そんなことを考える。
そうして、私たちは不思議な旅をすることになった。
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