第7話
サイレンが鳴っている。
街の奥から、低く長い音が夜気を震わせていた。
避難誘導のアナウンスが繰り返され、
人々が肩を寄せ合って交差点を渡っていく。
誰もが、できるだけ“反対側”へ向かおうとしていた。
少し離れた空の上。
ビルの陰に身を隠すようにして、私はその流れを見下ろしていた。
鎖が、足元でゆっくりとたゆたう。
風は冷たくない。けれど、変身すると、肌の奥だけがざらつくような気配に包まれる。
「……あのへん、かな」
逃げていく人たちの向きと、アナウンスの内容を重ねて、
だいたいの出現地点を頭の中でなぞる。
夜の街を俯瞰しながら、その方向へと体を傾けた。
浮遊には、いまだに慣れない。
風を切っている感覚はほとんどなくて、
ただ空気の上に置かれて、じわじわ押されて進んでいるだけのような、妙な感じ。
速くもなく、遅くもなく——。
「飛ぶ」というより、「漂う」という言葉の方がしっくりくる。
そんなことをぼんやり考えながら、地上の明かりをなぞるように進んでいくと、
暗がりの中に、動く影が見えた。
「——みつけた」
黒煙と肉が混ざったような質感。
背骨のあたりからは、白く硬い棘が何本も突き出している。
ハイエナを無理やり鉄線で縫い止めたみたいな、そんな異形のシルエット。
その魔災獣が向いている先を追うと、
崩れかけた建物の壁際に、ひとりの男性がいた。
逃げ遅れたのだろう。
怪我をしたのか足を引きずり、背中を壁に押しつけるようにして、
目の前の異形を見上げている。
「や……やめろ……来るなっ!」
掠れた声。
男は何かを投げつけようと腕を振るが、手にしているのはただの鞄だった。
魔災獣の濁った目が、その動きに反応してさらに低く唸る。
地面を踏み鳴らすたび、アスファルトが軋んだ。
獲物を弄ぶように距離を詰めていた魔災獣だったが、低く身を沈める。
背中の棘がぎらりと光り、筋肉が一瞬だけたわむ——。
飛ぶ前の予備動作。
私は咄嗟に裾に意識を向け、鎖を走らせた。
金属の悲鳴みたいな音を立てて、
鎖の先端が空気を裂きながら魔災獣の胴を目がけて伸びる。
「……っ」
だが、獣はその気配に気づき、咄嗟に横へ跳ねた。
鎖は空を切り、地面に叩きつけられる。
アスファルトが抉れ、粉塵が白く舞い上がった。
——避けられた。
けれど、それで十分だった。
魔災獣の視線が、男から、こちらへとゆっくり移る。
裂けたような顎が、音もなく開く。
その奥で、どろりとした黒い液体が泡立っていた。
私は空中で体勢を整え、
鎖の先端を牽制するように魔災獣へ向けながら、
正面からその視線を受け止める。
「こっち見てて、ハイエナさん」
目を逸らさずに、ゆっくりと降下した。
足の裏に、ひやりとしたコンクリートの感触が伝わる。
気づけば私は、魔災獣と男のあいだに立っていた。
振り向くと、男の目が驚きと恐怖で大きく見開かれている。
何かを言いかけて口が動くが、声にはならなかった。
「——あぶないから、下がって」
そう告げるのと同時に、鎖の一本を背後へ伸ばす。
壁に叩きつけると、鈍い音とともに亀裂が走った。
さらに力を込めると、コンクリートが砕けて、小さな穴が開く。
人がひとり、なんとか通れそうな隙間。
「……はやく、行って」
振り返らずに、そう言った。
少しの沈黙。
やがて、男が息を呑む音がした。
「……あ、あんた……魔法少女、か……?」
戸惑いと安堵が入り混じった声。
いつもの“魔法少女”のイメージとは違う姿に、言葉を探しているようだった。
けれど、何かを思い出したかのように、
男は背後の穴へ向かって足をもつれさせながら走り出す。
遠ざかっていく足音を、背中で聞きながら、
私はようやく、長く息を吐いた。
——これで、周りを気にせずに動ける。
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