第6話 東宮武官の旦那さま(6)

 古いけれど掃除が行き届いており、空いている部屋もいくつか見受けられる。露草は住み込みだそうだが、それ以外の使用人は通いの者で、それも最低限の人数といったところであった。


「こちらがあなたのお部屋です」


 案内された座敷ざしきに、大量の書物が積まれているのを見て、撫子は目を丸くした。


「あの、これは……」

「女官に必要な知識をまとめた本です。当然文字は読めますね。目を通して、ひと月以内に全て覚えてもらいます」


 当然のように露草はそう言って、下がって行った。

 撫子は冷や汗を流しながら、書物の一冊を手に取った。どうやらこの本は和歌集のようだ。


(お寺でしっかり文字を学んでいて良かった……)


 撫子は書物の山を見ながら思った。

 当時は体調も悪くて、尋常小学校にもほとんど通うことの出来なかった撫子の楽しみは、寺の書庫の書物を読むことだった。

 経典の他に和歌集や昔話を集めた蔵書もあり、それらを読むのは好きだったのだ。

 時折、近くの学校の教師が寺に来て、基礎教養は教えてもらい、十三歳になると体調も以前より改善したため、寺の檀家だんかに女中見習いとして奉公に出た。そのため勉学はご無沙汰となっていたが、やはり幼い頃に学んだ経験は今も息づいている。


 宮中勤めを思うと撫子の教養など微々たるものだが、ないよりはましのはずだ。

 早速一生懸命目を通していると、しばらくしてから露草に再び声をかけられた。


「撫子さん。優雅さまがお呼びです」



 一旦本を閉じて優雅のいる部屋を訪れると、彼はかしこまった居住まいで座っていた。

 床の間のある質素だが広々とした座敷で、彼の側にはお銚子ちょうしさかずきが盆に載せた状態で置かれている。

 座るように促されて、撫子は正面に腰を下ろした。


「契約婚とはいえ、けじめとして祝言を行おうと思う。世間一般の夫婦とはまったく違うが、俺は誠実でありたいと思う」

「祝言……?」


 撫子は室内を見回した。二人しかいない。


「三婚の儀、いわゆる三々九度を執り行う。……知らないか?」

「あまり詳しくは……」

「共に歩む者が同じ酒を飲むことで、夫婦になる決意を表す」


 東宮のために結ばれる訳ありの夫婦だが、きちんと取り組む、という優雅の姿勢に撫子は素直に好感を持った。

 撫子としても、宮家の子息とご縁を結ぶのだから、何もせずにいたら罰が当たってしまう気がする。


「わかりました。けじめとして、私も行いたいと思います」


 説明を受けて、撫子は黄色の花びらが入った紅塗りの盃を手に取った。お銚子もそうだが、年季は入っているが上等そうな器だった。

 酒を注がれて、花びらが浮き上がる。一枚一枚が細く、菊の花のようだ。


「菊は不老長寿の薬であると共に、皇家を象徴する花だ。綺麗きれいだろう?」


 説明を受けて撫子はこくりと頷いた。

 特別な酒なのだと実感して、これを飲んだらもう後戻りは出来ないのだと自覚する。

 情けないことに手が震えてしまいそうになった。

 ちらりと優雅を見ると、彼は綺麗な所作で盃に唇をつけた。

 それを見て、撫子も教えてもらった通りに口をつける。


 飲む振りだけでよいと言われたので、本当に唇をつけただけ。

 けれどふわっとしたこうじと菊の香りと、唇からかすかに伝った酒特有の熱さに、撫子は一瞬だけ酩酊めいていしそうになった。

 酒を交わし、これで二人は夫婦となった。先程、東宮侍従長じじゅうちょう室で契約婚のあかしとして紙に名を記したが、またそれとは違った感覚があった。


「では俺はこれから、軍の官舎へ向かう。夏の間は東宮さまが御用邸で過ごされるので、供奉ぐぶの準備もあるから、しばらくはあちらで過ごすことになる。君はしっかり休んで、ここで修業に励むように」

「はい。お世話になります」


 いかにも軍人と女中らしいあいさつだが、契約夫婦なのだから仕方ない。


(夫婦、か……)


 その感覚がわからないまま、撫子は自室へと戻った。

 このぐらいの年になると、女性は親や親戚が決めた縁組をするのが普通であるが、撫子のような一人身には幸運や良縁に恵まれない限りなかなか難しいだろう。


(ちゃんと一人で生きていく方法を考えよう)


 勘違いしないように、という露草の言葉を思い出し、本当にその通りだとしっかり自戒した。

 にゃーん、と小さな鳴き声が聞こえて、撫子は顔を上げた。聞こえてきたのは庭の方からだ。

 そわそわとした様子で縁側に出て、辺りを見回すと。


「あ」


 撫子は目を輝かせた。

 期待通り、庭には白い毛並みの猫がいた。そっと縁側から下り立って、目線を合わせるようにしゃがみ込む。


「本日からお世話になる撫子と申します。よろしくお願いします」


 律儀にあいさつをすると、猫はそばに寄って来た。撫子はその背中をでさせてもらった。

 飼い猫ではなさそうだが、ふわふわとした撫で心地のい毛並みだ。

 猫を撫でていると、自分の心も落ち着く気がする。


(お猫さま、ありがとう……)


 感謝の意を込めて、そっと両手を合わせて拝むと、猫もくつろいだ様子でその場で丸くなったのだった。


***


「あら、もう行かれるのですか」


 優雅が廊下を歩いていると、露草にそう声をかけられた。彼女はにこりと微笑んだ。


「それにしても驚きました。優雅さま、本当に可愛い子を連れて来られましたわねえ」

「その嫌み、多分彼女は気付いていない」

「あらあら。こんなの、年嵩としかさの女官の間では、当たり前に使われていますわ」


 ほほほ、と露草は笑った。彼女は宮中勤めの経験からか、独特の言い回しで悪口は言わないものの、気に入らないことに対しては遠回しに伝える。

 おそらく彼女の言う〝可愛い〞には物事を知らない、垢抜あかぬけていない、という意味合いも込められているのだろう。


「狭い世界では関係性を壊さずに、やんわりと指摘しないといけませんからね。今は生まれも帝都の新しい人も多いし、どうなってはるかわかりませんけども」


 彼女の口調に、ほんのりと帝都では珍しい言葉遣いがにじむ。


「露草の時代は、旧都出身の者が多かったからな」

「旧都、という言い方はおやめください。あそこは今でも立派な都です。天子さまがこちらへお出ましになっているだけです」


 旧都とは、帝都以前に都があった土地のことを指す。

 彼女の言葉遣いも元はそちらの話し方であり、宮中でかつて使用されていた言葉だ。

 都が今の帝都に移ってから久しく、あまり聞かれなくなったが、それでも旧都出身の上の世代の者たちが集まると、使われていることもままあるのだ。


「とはいえ、予想していたより、ましではありました。めげずに人の話をよく聞いて、一回言われたことはきちんとやり遂げるのなら、言葉遣いや立ち振る舞いぐらいはなんとかなるでしょう。学や芸事などはどうしても難しいでしょうが、女官にょかんとして最低限お仕えできる域にまでは仕上げましょう。宮中でも、元お公家くげさんの娘というても、何も出来ない子はたくさんいてはりましたし」

「よろしく頼む。こちらも東宮さまへの供奉ぐぶでしばらく屋敷やしきを空けるので、任せることになるが……」

「優雅さまのお願いですもの。ですが、お約束の期間が終わったら、即刻離縁してくださりませ。私は優雅さまにはもっとふさわしい方がいらっしゃると思っております」


 露草の言葉に、優雅は視線を落とす。


「俺は、東宮さまとみかどにお仕え出来ればそれでいい」

「優雅さまの人生ですからねぇ。私が色々言い過ぎて、反発させてしまったら、それこそ八方塞がりになってしまうので、これ以上は申し上げません。色んなことを見て、知って、考えてくれはったらええと思います。そのうえで、幸せになってください。今までおつらいこともあった分、幸せになってもらいたいんです」


 露草は息子の成長を見る母のように微笑ほほえんだ。


「色々申し上げましたが、素直が一番です。あの子も、女官として育てるのであれば、本当に可愛かわいらしく優雅さまも見る目はあると、私は思いますよ」


 その可愛いには先程のような裏の意味はなく、素直に温かい言葉であるように優雅は感じた。

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