第4話 いつもと同じ

「ただいまー」


 玄関を開けると、ふわっと温かい空気が流れ込んできた。

 結衣とは病院の前で別れ、そのまま電車で帰ってきたから、いつもより少し遅い時間だ。


 靴を脱ぎながら深く息を吸うと、家の中から美味しそうな匂いが漂ってくる。炒め物と出汁の香りが混ざった、ほっとするような夕飯の匂い。


 廊下をまっすぐ進むと、リビング。一般的なマンションの田の字プランだけど、私には一番落ち着く空間だ。


「おかえりなさい」


 キッチンから顔を出したお母さんが、いつもの笑顔で迎えてくれた。その一言だけで、胸の奥がすっと軽くなる。


 今日は本当に色々ありすぎた。

 意味不明な男子から意味不明なことを言われ、翠と結衣には変な誤解でいじられ、生々しすぎる夢は見るし、結衣のお母さんの病室では気持ちが押しつぶされそうになったし……。


 放課後からずっと、心が追いつかないような出来事ばかりだった。


 でも、この夕食の時間だけは変わらない。

 その普通さが、何より嬉しかった。


「今日は遅かったじゃない。結衣ちゃんの付き添い?」


「そう。大変そうだったけど……なんとか回復傾向にはあるらしいよ」


 手を洗いながら返事をすると、母はほっとしたように息をつく。


「よかったじゃない。でも、やっぱり原因は分からないんでしょ?」


「らしいよ。よく分からんないって」


 私は椅子に座り、料理を並べ終えた母が向かいに座るのを待つ。二人で「いただきます」と手を合わせ、箸を取った。


 あたたかい味噌汁の香りに、ようやく肩の力が抜ける。


「そうみたい……ほんと、なんだろうね、『眠れる森の美女症候群』ってさ」


 自分でも驚くほど、小さな声になった。

 お母さんは箸を置き、静かに頷く。


「そうね……ウイルスでもないし、ケガでもない。原因が分からないっていうのが一番怖いわよね。誰が、いつ、どうなるか……本当に見当がつかないもの」


 お母さんは苦笑するように息を吐き、続ける。


「ネットじゃ呪いだとか言われてるけど……それくらい非科学的なことに頼らないと説明できないのかもしれないね」


 非科学的──。

 普段なら笑い飛ばせる言葉なのに、今日は胸の奥に重く沈んだ。


 お母さんはラノベやゲームにハマってるわけじゃない。そんなお母さんですら“呪い”なんて言葉を口にするなんて、本当にこの世界はどうしちゃったんだろう。


『眠れる森の美女症候群』だけじゃない。世界中で、説明できない出来事がじわじわ増えている。


 争いを続けてきた国も、権力を振りかざしてきた人たちも、今はそれどころじゃないらしい。戦争が減り、人類全体が“原因不明の課題”に立ち向かわざるを得なくなった。


 なんて皮肉。

 人間が団結する理由が“希望”じゃなくて“恐怖”だなんて。


 ……争いなんて、ゲームの中だけで十分なのにね。この平和が続けばいいのに。


 いや、こんなめちゃくちゃな世界だからだろうね、創作の世界において“異世界ファンタジー”がこんなにも流行るのは。


 私は……自分が置かれた日常には恵まれてるほうだと思う。でも、世の中には“どうあがいても手に入らない幸せ”を抱えた人もいる。


 そんな人たちが「異世界」に憧れ、転生を願い、新しく生き直したいと思う気持ち……分からないでもない。


 異世界ファンタジーの主人公は、いつだって輝いてる。誰もが一度は妄想した「理想の自分」を体現して、無双する。

 そりゃあ憧れる。

 私だってその眩しさに惹かれた一人だ。


 ──日本では、今、自殺者が過去最高なんだって。置き手紙に「異世界に転生する」って残してる人もいるらしい。


 ……ああ、うちのお父さんも、異世界に転生できたのかな。


「ご馳走様!」


 私はそう言って、自分の分の食器を持って台所へと持っていく。軽く水洗いした後、食洗機の中に突っ込んだ。


「部屋にいるね!」


 お母さんはそれに笑顔で頷いた。



 ♢♢♢



 ──3年前。


 私の高校生活は、孤立から始まった。


 特別な特技もなく、胸を張れるような性格でもなく、ただゲームが好きなだけの、地味で内気なオタク。そんな私がクラスに馴染めるはずもなかった。


 入学式が終わったばかりの教室は、まだどこかぎこちなく、それでも周りは少しずつ自己紹介まじりの会話が始まっていた。新しい環境に慣れようと、みんなが自然と動き出していた。


 私も何人かに話しかけられた。

 せっかく向こうが勇気を出してくれたのに──


「えっ……あ……」

「えっと……その……」


 喉の奥に蓋でもついたみたいに、言葉が出てこない。気まずさに耐えられなくなって、目をそらしてしまう。


 その瞬間、自分でも気づかないうちに“話しかけんなオーラ” が全開になっていたと思う。


 ……そんな私に、友達ができるはずがなかった。


 数日も経てば、クラスは自然とグループができていく。明るい子たちの輪、スポーツ系の輪、オタク同士の輪、悩みながらも誰かと繋がっていこうとする輪──。


 でも、そのどれにも私は入れなかった。


 最初は、私と同じように馴染めない子が何人かいた。だけど、その子たちも時間が経つにつれて少しずつ話せる相手を見つけて、小さくても輪を作っていった。


 そして気づけば──孤立しているのは、私ひとりだけになっていた。


 その日も例外ではなかった。私はイヤホンを耳に差し込み、外界とのつながりを自ら切り離すようにして席に座った。机の端にスマホを置き、好きなゲームの、好きな実況系配信者の動画を流しながら、お母さんが作ってくれたお弁当を広げる。


 これがここ数日の“お昼のルーティーン”だった。


 この時間が、一番の救いだった。

 好きな動画に意識を沈めている間だけは、誰にも干渉されず、誰にも気を遣わずに済む。画面の向こうの声と、お母さんの料理だけが私を満たしてくれる──そう、満たされていた……と、思い込むようにしていた。


 典型的な高校デビュー失敗組。

 笑えないけど、否定もできない。


 そんな時、突然──

 耳に触れたイヤホンが、スッと引き抜かれた。


 動画の声が途切れ、私の“幸せ空間”が無情にも遮断される。


「えっ……?」


 驚いて振り返ると、そこには見知らぬ二人組の女の子が立っていた。


 一人は、落ち着いた雰囲気の上品な子。

 もう一人は、少し小柄で、メガネ越しに好奇心がキラキラしている、子供っぽい雰囲気の子。


「あー! そのゲーム、好きなの!?」


 小柄なメガネの子が、ぴょんぴょん跳ねるように身を乗り出してきた。


「こら、結衣ちゃん。びっくりしてるじゃない」


「しょうがないじゃん、翠。この女子校風味の共学で、こんな同士なかまに会えるなんて奇跡だよ? ボクと同じ絶滅危惧種なんだから!」


 なんなんだ、この二人。突然ズカズカと私の世界に踏み込んできて、当たり前のように距離を詰めてくる。でも、これはチャンスかもしれない。最後のチャンス。私の高校生活の未来が──


「え、あ……あの……」


 ああ……まただ。また、声がうまく出ない。

 喉の奥につっかえたまま、気まずさに耐えきれず目をそらしてしまう。


 すると、二人はまるでそんな私を気にする様子もなく──


「ボクは朝比奈あさひな結衣ゆい! で、こっちが篠原しのはらみどり! 君の名前は? そのゲームやってる? 一緒にやろうよ!」


「ちょっと結衣ちゃん、落ち着いて。……えっと、ごめんなさい、あなたは──」


「──天城あまぎみお、です」


 気づけば私は、思わず食い気味に名乗っていた。また失敗しただろうか、と胸がざわつく。


 だが──にっこりと笑った二人は、迷い一つなく言った。


「澪! 一緒にゲームしよう!」


「澪ちゃん、よろしくね。よかったら、お昼も一緒に食べよ?」


 その笑顔があまりにもまっすぐで、思わず胸の奥がじんわり温かくなった。


 これが私と結衣、そして翠の出会い。

 私の“高校デビュー失敗”は──この日、ひっくり返った。

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