第2話 「次はあなたが鬼」と言われた
夢の中。
優衣は大学の図書館にいた。
見慣れた場所だ。いつも勉強する三階の閲覧室。窓から差し込む光が、埃を照らしている。
でも、誰もいない。
静かすぎる。
足音だけが、床に響く。
優衣は本棚の間を歩く。何かを探している気がする。でも、何を探しているのか思い出せない。
タイトルを読もうとするが、文字がぼやけて読めない。
夢あるあるだ。夢の中では、細かい文字が読めない。
その時、後ろから気配を感じる。
振り返る。
誰もいない。
でも確かに、誰かがいる。
足音。
ゆっくりと、近づいてくる。
本棚の影から、人影が見える。
小さい。子供だ。
ランドセルを背負った、女の子。
──私だ。
十歳くらいの自分が、本棚の向こうからこちらを見ている。
「...」
声を出そうとするが、出ない。
子供の私は、歩き始める。
こちらに向かって。
優衣は逃げようとする。足が動かない。いや、動くけど、ゆっくりだ。まるでスローモーションのように。
走ろうとしても、体が重い。
廊下に出る。階段を降りようとする。
でも、いくら降りても、同じ階段が続く。
後ろを振り返る。
子供の私は、変わらず歩いてくる。急いでいる様子もなく、ただ静かに。
不思議だ。怖くない。
むしろ、追いかけられているという感覚よりも、遊んでいる感じ。
鬼ごっこ、みたいな。
その時──
目が覚めた。
---
翌朝。
優衣は夢日記に書き込む。
『図書館。子供の私。追いかけられた。でも怖くない。鬼ごっこ?』
スマホを開く。
タイムラインに、また同じような投稿が増えている。
『二日連続で同じ夢見た。子供の自分に追いかけられる』
『夢の中で鬼ごっこしてる感じ。不思議』
『これって何か意味あるのかな』
優衣はコメント欄を読む。
みんな、同じことを言っている。
「怖くない」「楽しい感じ」「鬼ごっこみたい」
そして、新しい投稿を見つける。
『夢の中で捕まった。肩を叩かれて、「次はあなたが鬼」って言われた。これ、なんなの?』
優衣は画面を見つめる。
「次はあなたが鬼」──?
---
大学に着くと、美優が興奮した様子で駆け寄ってくる。
「優衣!聞いて聞いて!」
「どうしたの?」
「昨日また夢見たんだけど、今度は捕まったの!」
「捕まった?」
「うん!」美優が目を輝かせる。「夢の中で追いかけられて、で、肩をポンって叩かれたの」
「それで?」
「そしたら、子供の私が笑って、『次はあなたが鬼ね』って言ったの!」
優衣は驚く。さっきSNSで見た投稿と、全く同じだ。
「鬼...?」
「そう。で、今朝の夢では、私が誰かを追いかけてたの」
「誰を?」
「分かんない」美優が首を傾げる。「知らない人。でも、なんか追いかけたくなるの。不思議なんだけど」
そこへ、拓海と大樹が合流する。
「おはよう」
「おはよー。二人も昨日夢見た?」美優が尋ねる。
「見た」拓海が頷く。「また自分に追いかけられた」
「俺も」大樹が言う。「でもさ、前より動けるようになった気がする」
「動けるって?」
「夢の中で、体が。前はスローモーションみたいだったけど、昨日は結構ちゃんと走れた」
優衣も思い返す。確かに、最初の夢より、昨日の方が体が動いた気がする。
「私も」優衣が言う。「最初より、思い通りに動ける感じだった」
「夢に慣れたのかな」拓海が分析する。
香織も教室に入ってくる。いつもより少し疲れた顔をしている。
「香織、大丈夫?」優衣が声をかける。
「うん...ちょっと、夢見すぎて」香織が小さく笑う。「毎晩同じ夢」
「香織も?」
「昨日は、三回も見た。目が覚めて、また寝て、また同じ夢」
「三回も?」美優が驚く。
「頻度、上がってるのかな」拓海が言う。
優衣は自分のスマホを取り出す。
「SNS見て。同じこと言ってる人、もっと増えてる」
五人でスマホを覗き込む。
投稿が溢れている。
『毎晩同じ夢見るようになった』
『捕まって、鬼になった。今度は自分が追いかける側』
『夢の頻度がヤバい。一晩に何回も』
『これって何か意味あるの?』
そして、ある投稿に目が留まる。
『夢の中で思い通りに体が動くようになってきた。これって、いいこと?』
優衣は画面をスクロールする。
コメント欄には、様々な意見が並んでいる。
『俺も。前より夢がリアルになった』
『夢なのに、現実と同じくらいはっきりしてる』
『これ、明晰夢ってやつじゃない?』
「明晰夢?」美優が首を傾げる。
「夢の中で、『これは夢だ』って気づく状態」拓海が説明する。「心理学の授業で習った」
「それって、できるものなの?」大樹が興味津々。
「訓練すればできるらしい。夢をコントロールできるようになる」
「じゃあ、私たち、それになってるってこと?」美優が目を丸くする。
「分からないけど...」優衣は考える。「確かに、最初より夢がはっきりしてる」
香織が小さく頷く。
「私も。夢だって、分かってる気がする。でも、追いかけられる」
「夢だって分かってるのに?」
「うん。不思議なんだけど、止められない」
その時、教授が教室に入ってきて、授業が始まる。
今日のテーマは「意識と無意識」。人間の行動の大部分は、無意識によって支配されている。意識はほんの一部に過ぎない。
授業を聞きながら、優衣は考える。
夢は無意識の表れだ。でも、明晰夢は意識が介入している状態。
矛盾しているような、でも繋がっているような。
授業が終わって、五人で図書館に向かう。
「ちょっと調べてみない?」優衣が提案する。「明晰夢のこと」
「いいね」大樹が賛成する。
図書館の検索端末で「明晰夢」と入力する。
何冊か本が出てくる。
『明晰夢入門』『夢のコントロール技術』『意識と夢の心理学』
一冊手に取って、パラパラとめくる。
明晰夢とは、夢を見ながら、それが夢であると自覚している状態。訓練によって誰でも習得可能。夢の中で自由に行動でき、空を飛んだり、好きな場所に行ったりできる。
「すごい」美優が目を輝かせる。「夢でなんでもできるんだ」
でも、次のページにはこう書かれていた。
『注意:明晰夢にはリスクも存在する。夢と現実の境界が曖昧になる可能性。悪夢が鮮明になることも』
優衣は少し不安になる。
「リスク...」
「でも、別に悪いことじゃないよね」大樹が言う。「怖い夢じゃないし」
「そうだね」拓海も頷く。「むしろ、面白い体験だと思う」
香織は黙って本を読んでいる。
「香織は?」優衣が聞く。
「...分からない」香織が小さく答える。「でも、なんか...変な感じがする」
「変な感じって?」
「うまく言えないけど」香織が本を閉じる。「この夢、ただの夢じゃない気がする」
沈黙。
「考えすぎじゃない?」美優が明るく言う。「みんな楽しんでるみたいだし」
「そうかもしれない」香織が小さく笑う。
でも、優衣も同じことを感じていた。
ただの夢じゃない。
何か、違う。
その日の夜。
優衣はベッドに入る前に、もう一度SNSを確認する。
投稿は増え続けている。
そして、ある投稿を見つける。
『これ、誰か最初に始めた人がいるんじゃない?元ネタ探してる人いる?』
コメント欄には、
『確かに。急に増えたよね』
『でも誰が最初か分からない』
『都市伝説みたいになってきた』
優衣は考える。
本当に、誰が最初なんだろう。
そして──誰が最初に、「次はあなたが鬼」と言ったんだろう。
スマホを置いて、電気を消す。
目を閉じる。
また、夢を見るんだろうか。
意識が沈んでいく。
そして──
夢が、始まった。
今度は、小学校の体育館。
薄暗い。窓から月明かりが差し込んでいる。
優衣は一人で立っている。
足音。
後ろから。
振り返る。
子供の私が、バスケットボールを持って立っている。
そして、笑う。
「鬼ごっこ、しよ」
声が、初めて聞こえた。
子供の私の声。
優衣は走る。
今度は、ちゃんと走れる。
体が軽い。思い通りに動く。
夢なのに、現実みたいだ。
体育館を横切って、出口に向かう。
でも、どこにも扉がない。
後ろを振り返る。
子供の私が、こちらに向かって走ってくる。
今度は、ゆっくりじゃない。
速い。
優衣は必死で走る。
──これ、夢だ。
そう思った瞬間。
視界がクリアになる。
音がはっきり聞こえる。
自分の足音。呼吸。心臓の鼓動。
全部、リアルだ。
明晰夢、だ。
夢だと分かっている。でも、体は現実と同じように動く。
子供の私との距離が縮まる。
もうすぐ、捕まる──
その時、目が覚めた。
優衣は息を切らしながら、ベッドで目を覚ます。
心臓がバクバクしている。
夢だった。でも、あまりにもリアルだった。
スマホを見る。午前三時。
また眠れるだろうか。
でも、疲れている。
目を閉じる。
そして──また、夢が始まる。
【第2話 終】
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