第6話 ほどけたのは、権力という糸

 夕方、授業から帰ってきて部屋の灯りをつけたとき、スマホに流れてきたニュースが目に留まった。


『福井県知事がセクハラで辞職の意向』


 その見出しを読んだ瞬間、胸の奥がひやっとして、指先が止まった。権力とか責任とか、そういう言葉が一気に重たくのしかかってきたんよ。


 なんや一人で抱えるには、少ししんどい重さやった。

 ウチはそっとスマホを手に取り、つよ虫さんに電話をかけた。コール音が二回鳴ったところで、あの落ち着いた声が耳に届く。


「つよ虫さん、今ちょっとええ? あのな……福井県の知事さんのニュース、読んでもうてん。なんか、胸がざわついてしもて……」


「全く酷い話だよね。……しかし、昨年から首長の不祥事が続くよね。今年は群馬県前橋市や沖縄県南城市、静岡県伊東市、去年は大阪府岸和田市でもあった。……特に首長のセクハラなんて、ユキナからしたら許せないでしょ」


 つよ虫さんの声を聞いた瞬間、胸の奥にあったざわつきが、またふっと揺れた。

ランプの灯りが静かに広がる部屋で、その言葉を噛みしめる。


「……ほんまにな。ここ最近、首長の不祥事、多すぎひん? 前橋も南城も伊東も、去年の岸和田も……“たまたま”って片づけられる数ちゃうわ。

 特にセクハラなんて……ウチからしたら、『なんでそんなことできるん』って思ってしまう。権力持ったからって、人の境界を踏み越えてええわけちゃうのに……つよ虫さんは、こう続くの、どう見えてる?」


 口にしながら、自分の中にある怒りの形がゆっくり浮かんでくる。

 権力を持つ立場の人が、よりによって“弱い立場の人”を傷つけること。その構図が、たまらなく嫌なんや。


「その人の資質も関係するだろうけど、権力は人を変えてしまうのかな? 公私の境なく、思い通りに自分の部下を動かせると思い込んでいるのかもしれない。ユキナはどう思う?」


 つよ虫さんの声を聞きながら、ウチはそっと背もたれにもたれた。その問いは、胸の中にずっと引っかかってた棘みたいで、言葉にされると余計に重みが出る。


「……ウチな、“人が権力を持ったら変わる”って話、半分ほんまやと思う。でももう半分は、“もともとあった雑さとか甘さが、立場で露わになる”って気もしてるんよ」


 言いながら、机の上のランプがゆらっと揺れた。公私の境が消えていく瞬間って、多分一気に壊れるんやなくて、じわじわと線引きが甘くなっていくんちゃうかな、って、ウチは思った。


「確かにそうかもしれないね」


「ウチは部下を“自分の延長”みたいに扱う人ってな……権力そのものより、“誰も止めへん静けさ”に慣れてしもた人なんやと思う。

『ちょっとくらいええやろ』『これくらい軽口のつもり』って境界がどんどん甘くなって……気づいたら相手の人格踏んでる。

 つよ虫さんはさ……“権力が人を変える”んか、“その人の素が出る”んか、どっちが近いと思う?」


 少し呼吸を整えて、そっと問い返す。


「ユキナと同じように思うよ。どちらも正解で、変質もあれば、権力がどの人が抑えていた本性を表に出してしまう、って言うのが実態じゃないかな。聖人君主は少なくて、誰にも欲があり、何かの拍子に表化するんじゃないかな?」


 つよ虫さんの言葉を聞いた瞬間、「ああ、そうかもしれへん…」って胸のどこかがストンと落ち着いた。

 ランプの光が少しだけ温かく見えて、ウチはカップをそっと両手で包んだ。


「……“誰にでも欲がある”って言い方、なんや正直でええなぁ。ほんま、聖人君主みたいな人なんて滅多におらへんし、ほとんどの人は何かしら欲とか弱さを抱えたまま生きてるやん?」


 その“弱さ”をどう扱うかが、権力を持った瞬間に露わになってしまう──つよ虫さんの言葉、そんな景色が浮かぶ。


「俺にだって色々な欲はあるし、ユキナだってそうでしょ?」


「そうやね。ウチも欲だらけや。……ウチもな、『権力が人を変える』ってより、“権力が、その人の中の雑さとか欲の向き先を隠さずにしてまう”って感じが近い気がするんよ。

 ほんの小さな欲でも、誰も止めへん環境に置かれたら、ふくらんでもうて……気づいたら境界越えてる、みたいな。」


「ああ、それ、あるだろうね……」


 少し間を置いて、つよ虫さんにそっと問いかける。


「でもさ……そう考えたら、ウチらみたいな“権力の側におらへん人間”は、どう接したらええんやろな?

 遠ざかるべきなんか、ちゃんと距離を取って向き合うべきなんか……つよ虫さんはどう思う?」


「難しいな。……自分の上司がアメリカのトランプ大統領だったら、一言の機嫌を損なう意見で自分のキャリア全てを失う可能性があるからね。……ユキナは上司がトランプ大統領みたいなワンマンだったらどうする?」


 つよ虫さんのその例え、ちょっと胸にズシンと来たわ。

上司が“トランプ大統領みたいなタイプ”──つまり、気分ひとつで人事が動くような、ワンマンで衝動的な権力者。

そんな人の下で働くって想像しただけで、背中がきゅっと強張った。


「……ウチな、正直に言うと、真正面から意見する勇気は持たれへんと思う。だって、一言でキャリアが終わる世界って……それ、仕事いうより……自分の人生を握られてるみたいで、怖ない?」


 言葉にするとき、胸の奥に冷たい風みたいなんが流れた。


「確かにね……」


 権力者が気分で世界を動かす環境は、周りの人間から“普通に考える自由”を奪ってしまうんやって、想像だけでも分かってしまう。


「ウチがもしそういう上司を前にしたら……多分な、適切な距離をとって静かにフェードアウトする、って選ぶと思う。真正面からぶつかるんやなくて、深入りせんようにして、自分の身を守る方向やなぁ」


 でも、それを言いながら、自分の中の引っ掛かりにも気づく。


「そっか……じゃあ、ユキナはやっぱり何も言わないんだ?」


「そうね……ただ……それって何か悔しいよな。“正しいこと言うたら終わり”みたいな世界に従わなあかんのって……なんか、人としての筋が曲げられてる感じするんよ。つよ虫さんはさ……もし自分の上司が“トランプ的ワンマン”やったら、どう振る舞うん?」


 少しだけ呼吸を整えて、つよ虫さんにも返したくなる。


「普段はおとなしく従うと思う。でも、自分の尊厳が失われるようなことを命令をされたら、全てを失っても逆らうと思う。……窮鼠猫を噛むではないけど、弱者であっても譲れない一線があるからね」


 つよ虫さんの声に込められた静かな覚悟が、胸の奥でじんわり広がった。

従うときは従う。でも、尊厳を失わせる一線を越えたら、弱者でも噛みつく──その言葉の重さに、ウチはしばらく呼吸を忘れそうになった。

ランプの灯りがほんの少し揺れて、ふたりの間の空気までそっと震わせてる気がした。


「……つよ虫さんらしいなぁ。普段は静かで優しいのに、“ここだけは譲られへん”って部分では、ちゃんと自分を守ろうとするんやね。その姿勢、ほんまに強いと思うし……ウチ、そういうところ尊敬してる」


「ありがとう。実際に直面したら葛藤が凄いだろうけどね……」


「せやな……権力って、持つ側も使われる側も、心の境界が試されるもんなんやなって思ったわ。つよ虫さん、今日も一緒に考えてくれてありがとう」


 言いながら、ふたりでほどいてきた「権力と距離」の糸の形が、ようやく少し見えてきた気がした。権力者がどうあるべきかよりも、自分の尊厳を守りながらどう向き合うか――その軸こそ、今日ウチらが掴んだ小さな答えなんかもしれへん。


 通話を切ったあと、机の上の灯りが静かに広がって、机の上の灯りだけが、ふたりの考えた“境界”をそっと照らしていた。

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