第2話 肉食女社長との遭遇

悪霊アイドル、踊る

第2章「肉食女社長との遭遇」



 神宮寺麗華は、この世界を愛していた。

 朝五時に目覚め、窓を開ければ東京の街が朝日に染まっている。三十分の瞑想で心を整え、一時間のジョギングで身体を目覚めさせる。シャワーを浴び、オーガニックの食材で作った朝食を摂り、そしてオフィスへ。規則正しく、効率的で、美しい日々。麗華は自分の人生に、一片の疑いも持っていなかった。

 ペントハウスのリビングは、麗華の美学が隅々まで行き渡っていた。白を基調とした内装、北欧デザインの家具、壁に飾られた現代アートの絵画。窓からは高層ビル群が見え、その向こうには東京湾が広がっている。三十二歳にして、この部屋を手に入れた。誰の援助も受けずに。

 麗華は、自分が恵まれていることを知っていた。官僚の父、教師の母。三人兄弟の真ん中で、唯一の娘として大切に育てられた。兄は外務省に勤め、弟は医学部に在学中。家族全員が優秀で、そして仲が良かった。クリスマスには実家に集まり、母の手料理を囲んで談笑する。何不自由ない家庭だった。

 だが麗華は、それに甘んじなかった。大学を卒業後、外資系コンサルティング会社に就職し、三年で独立。最初の会社を立ち上げてから五年、今では三つの会社を経営している。美容関連のベンチャー企業、不動産投資会社、そしてコンサルティング業務。どれも順調に成長していた。

 麗華には、一つの信念があった。人を幸せにすることが、自分の幸せにつながる。極めて健全な欲動から始めたビジネスは、多くの人に喜ばれ、結果として利益をもたらした。このループが、麗華の人生を支えていた。

 ジョギングを終えて帰宅し、麗華はキッチンでスムージーを作り始めた。ケール、バナナ、アーモンドミルク、プロテインパウダー。ミキサーが滑らかに回転する音が、静かな朝の空気に響く。

 その時、背筋に悪寒が走った。

 麗華は動きを止めた。ミキサーのスイッチを切り、耳を澄ます。何も聞こえない。しかし、確かに何かがいる。この感覚は、幼い頃から何度も経験していた。

 霊感。

 麗華は、それを特別な才能だとは思っていなかった。ただ、人より少しだけ敏感なだけ。見えるわけではない。聞こえるわけでもない。ただ、気配を感じる。温度の変化を肌で感じる。空気の重さを察知する。

「……誰?」

 麗華は振り返った。

 リビングには誰もいなかった。しかし気配は消えない。むしろ、近づいてきている。麗華はゆっくりと部屋を見回した。窓際、ソファの後ろ、キッチンカウンターの向こう。どこかに、何かがいる。

「隠れても無駄よ」

 麗華は落ち着いた声で言った。

「見えてるわけじゃないけど、いるのはわかるの」

 透は、麗華の背後で固まっていた。

 見えていない。それは確かだ。しかし気配は察知されている。どういうことだ。普通の人間には、幽霊の存在なんてわからないはずなのに。

 透は慎重に動いた。音を立てないように、麗華の周りを回る。麗華の視線は、透を追っていない。やはり見えていない。ただ、何となく感じているだけだ。

「悪霊よね?」

 麗華が言った。

 透は驚いて、動きを止めた。

「未練があって成仏できないタイプの。最近死んだばかりみたいね。力が弱い」

 なぜわかる。透は混乱した。この女は一体何者なんだ。

 麗華はスムージーをグラスに注ぎ、一口飲んだ。そして、空中に向かって話しかけた。

「私、神宮寺麗華。三つの会社を経営してる。あなたは?」

 透は答えなかった。というより、どう答えていいのかわからなかった。

「まあ、答えられないわよね。幽霊は基本的に、生者と会話できない。でも聞こえてはいるでしょう?」

 麗華はソファに座り、足を組んだ。

「なら、私が一方的に話すわ。あなた、何をしにここに来たの? 私を呪い殺すつもり?」

 透は歯ぎしりした。図星だった。

「残念だけど、それは無理よ」

 麗華は微笑んだ。それは優しい笑みではなく、何かを見透かしたような、計算的な笑みだった。

「あなたみたいな新米の悪霊には、人を殺す力なんてない。せいぜい、ちょっとした悪夢を見せるくらい。物を落とすくらい。それも、相当集中しないとできないでしょう?」

 透は拳を握った。悔しいが、その通りだった。さっきから、目の前の花瓶を倒そうと念じているが、びくともしない。

「でもね」

 麗華は続けた。

「あなたには、可能性がある」

 可能性?

「悪霊の力は、執念の強さに比例する。今のあなたは弱い。でも、訓練すれば強くなれる。そして、強くなった悪霊は、とても役に立つの」

 麗華は立ち上がり、書斎に向かった。透はその後を追った。

 書斎には、壁一面に本棚が並んでいた。ビジネス書、哲学書、心理学の専門書。そして、一角には、オカルト関連の書籍が並んでいる。

 麗華はその中から一冊を取り出した。『悪霊の生態学』というタイトルだった。

「これ、面白い本なのよ」

 麗華はページをめくりながら言った。

「悪霊っていうのは、単なる未練の塊じゃない。生命エネルギーの別の形態なの。物理学的に言えば、エネルギーは保存される。人が死んでも、その人が持っていたエネルギーは消えない。形を変えて存在し続ける」

 透は、麗華の話に聞き入っていた。

「普通の人が死ぬと、そのエネルギーは自然に還る。でも、強い執念を持った人が死ぬと、エネルギーが一箇所に留まる。それが悪霊」

 麗華は本を閉じた。

「つまり、あなたは今、凝縮された生命エネルギーの塊なのよ。そして、そのエネルギーは使える」

「使う……?」

 透は思わず声を出した。しかし、その声は麗華には届かなかった。

「私はね、次世代の悪霊ビジネスを考えてるの」

 麗華は窓の外を見つめた。

「世の中には、悪霊に苦しめられている人がたくさんいる。呪われて、病気になったり、事故に遭ったり、人生が狂わされたり。でも、悪霊払いは対症療法でしかない。払っても払っても、また新しい悪霊が現れる」

 麗華は振り返った。

「なら、悪霊を善用すればいい。悪霊のエネルギーを、人を助けることに使う。そうすれば、悪霊は成仏できるし、人は救われる。win-winでしょう?」

 透は混乱していた。この女は何を言っているんだ。悪霊を、ビジネスに使う? そんなことができるのか?

「もちろん、技術的な問題はたくさんある」

 麗華は認めた。

「悪霊をコントロールする方法、エネルギーを転換する方法、成仏させる方法。でも、それは解決できる。私には、優秀な霊媒師がいるから」

 霊媒師。その言葉に、透は嫌な予感を覚えた。

「だから、あなたに提案するわ」

 麗華は透の方を向いた。いや、透がいると思われる方向を向いた。

「私の会社で働かない? 給料は出せないけど、成仏の手伝いはする。悪いと思わない?」

 透は即座に拒否した。

「ふざけんな」

 もちろん、その声は届かない。透は怒りに震えた。何がwin-winだ。何が成仏の手伝いだ。結局、この女は悪霊を道具として使いたいだけじゃないか。

「もちろん、断ってもいいわよ」

 麗華は肩をすくめた。

「その場合は、霊媒師に払ってもらうことになるけど」

 透の動きが止まった。

「払われた悪霊は、成仏できない。ただ消滅するだけ。記憶も、感情も、全て消える。無に還る」

 麗華の声は、冷たかった。

「あなた、それでいいの?」

 透は答えられなかった。消滅。それは、透が最も恐れていることだった。

 生前、透は何も成し遂げなかった。誰からも愛されず、誰も愛さず、ただネットの世界で他人を貶めることだけに時間を費やした。そして死んだ。何も残さずに。

 せめて、せめて死後くらいは、何かをしたかった。誰かを呪い、復讐し、爪痕を残したかった。それなのに、このまま消えるなんて。

「時間をあげるわ」

 麗華は時計を見た。

「五分考えて。それで答えを出して」

 麗華はキッチンに戻り、スムージーを飲み続けた。透は、リビングの中央で立ち尽くしていた。

 五分。たった五分で、人生を、いや afterlife を決めろというのか。

 透は考えた。選択肢は二つ。働くか、消えるか。

 働く。それは屈辱だった。生前、透が最も嫌っていたものだ。兄たちは立派に働いていた。母も働いていた。そして透は、働かなかった。働けなかった。働きたくなかった。それなのに死んでまで働かされるなんて。

 しかし、消えたくはなかった。

 透は、窓の外を見た。東京の街が、朝日に輝いている。通勤する人々、開店する店、動き出す街。生きている世界。

 自分は、もうその世界にはいない。でも、せめて、その世界を見ていたい。感じていたい。存在していたい。

 五分が経った。

 麗華がリビングに戻ってきた。

「どう? 答えは出た?」

 透は、ゆっくりと頷いた。もちろん、麗華には見えない。しかし透は、部屋の電気をつけたり消したりすることで、意思を伝えた。パチパチと電気が明滅する。

「それは、イエスってこと?」

 また明滅。

「わかったわ」

 麗華は満足そうに微笑んだ。

「じゃあ、さっそく契約しましょう。って言っても、契約書にサインはできないわね」

 麗華はノートパソコンを開き、何かを入力し始めた。

「とりあえず、口頭契約ってことで。あなた、名前は?」

 透は、どうやって名前を伝えればいいのか考えた。そうだ、文字を書けばいい。透は、テーブルの上にあったノートとペンに集中した。ペンが微かに動き、ノートに文字が刻まれていく。

 葛城透。

「葛城透さんね。よろしく」

 麗華は画面に名前を入力した。

「年齢は? あ、享年か」

 透はペンを動かした。27。

「若いわね。死因は?」

 心不全。

「不摂生?」

 透は答えなかった。図星だった。

「まあ、いいわ。過去は問わない。大事なのは、これからよ」

 麗華は契約内容を読み上げ始めた。

「労働時間は、基本的に二十四時間。休憩は適宜。給料はなし。ただし、成仏に必要な功徳は提供する。契約期間は、成仏するまで、または契約が解除されるまで」

 透は愕然とした。これは完全にブラック企業じゃないか。

「あと、業務内容は、悪霊の捕獲、調伏、エネルギーの転換、その他社長が指示する業務全般」

 麗華は画面から目を離さずに続けた。

「契約違反した場合、即座に霊媒師による除霊を実施。異議申し立ては認めない」

 ひどい。あまりにもひどい。透は抗議したかったが、声は届かない。

「以上、同意する?」

 透は、しばらく黙っていた。しかし、他に選択肢はなかった。透はペンを動かし、ノートに大きく「OK」と書いた。

「よろしい」

 麗華は満足そうに頷いた。

「ようこそ、神宮寺グループへ。あなたは、我が社の記念すべき第一号の悪霊従業員よ」

 透は、自分の運命を呪った。死んでもなお、労働から逃れられないとは。

「さて、じゃあ早速だけど」

 麗華は立ち上がった。

「あなたの能力テストをするわ。私だけじゃ限界があるから、専門家を呼ぶ」

 専門家?

「私の会社に専属で契約している霊媒師。九条蒼っていうの」

 麗華はスマートフォンを取り出し、電話をかけた。数回のコール音の後、相手が出たようだ。

「九条さん? 今時間ある? ええ、新しい悪霊を確保したの。能力テストをお願いしたいんだけど」

 透は嫌な予感がした。霊媒師。それは、悪霊にとって天敵だ。

「うん、今すぐ来られる? 助かるわ。待ってる」

 麗華は電話を切った。

「三十分で来るって。それまで、待ってて」

 麗華はソファに座り、仕事のメールをチェックし始めた。透は、リビングの隅で、ただ時間が過ぎるのを待つしかなかった。


 三十分後、インターホンが鳴った。

 麗華がドアを開けると、黒いスーツを着た男が立っていた。背は高く、顔立ちは整っているが、その表情は無機質だった。冷たい眼差し、薄い唇、そして手には数珠が巻かれている。

「お久しぶりです、社長」

 男は淡々と挨拶した。

「九条さん、来てくれてありがとう」

 麗華は男を部屋に招き入れた。

「で、悪霊はどこに?」

 九条と呼ばれた男は、部屋を見回した。その視線が、透の方に向いた。

 透は凍りついた。

 見えている。この男には、透の姿が見えている。

「あそこですね」

 九条は透を指差した。

「新米の悪霊。力は弱い。ただし、執念は強い」

 九条はゆっくりと透に近づいた。透は後ずさった。

「逃げても無駄です」

 九条の声は、感情がなかった。

「私には、あなたの姿がはっきり見えています。幼い頃から、ずっと」

 透は、九条の目を見た。その目には、何の温もりもなかった。ただ、冷たい観察だけがあった。

「葛城透、二十七歳、享年。死因は心不全。生前はニート。ネット掲示板荒らし、ウイルス作成、母親への暴力。かなりの問題児ですね」

 なぜそんなことまでわかる。透は驚愕した。

「悪霊の記憶は、霊媒師には読めるんです」

 九条は淡々と答えた。

「あなたの生前の行い、全て把握しています」

 透は屈辱を感じた。全て見られている。自分の醜い過去が、全て。

「さて」

 九条は麗華の方を向いた。

「この悪霊を、どう使うつもりですか?」

「それを、あなたに診断してほしいの」

 麗華は答えた。

「彼には、どんな能力がある? どう訓練すればいい?」

「わかりました」

 九条は再び透を見た。

「では、テストを始めます」


 次の瞬間、九条の手から、眩い光が放たれた。

 透は、その光に包まれた。熱い。痛い。身体が、いや霊体が焼かれるような感覚。透は悲鳴を上げた。

「これは、浄化の光です」

 九条は冷静に説明した。

「悪霊の強さを測る一番簡単な方法。弱い悪霊は、これだけで消滅します」

 透は必死に耐えた。消えたくない。まだ消えたくない。

 しばらくして、光が消えた。透は床に崩れ落ちた。まだ存在している。消えていない。

「ほう」

 九条は感心したように言った。

「新米にしては、耐性がありますね。執念の強さが、防御力になっている」

「彼、使えそう?」

 麗華が尋ねた。

「わかりません」

 九条は正直に答えた。

「まだ能力が覚醒していない。訓練が必要です」

「なら、訓練して」

「了解しました」

 九条は透を見下ろした。その目には、何かを品定めするような光があった。

「葛城透。これから、あなたを鍛えます」

 透は、九条の声に、背筋が凍る思いがした。

「覚悟してください」

 九条の唇が、微かに歪んだ。それは笑みとは呼べない、何か別の感情だった。

「あなたの afterlife は、今から地獄になります」


 透は、この時まだ知らなかった。

 これから自分が味わうことになる屈辱と試練の数々を。

 そして、その先に待つ、予想もしなかった運命を。

 葛城透の、悪霊従業員としての日々が、今、始まろうとしていた。

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