第10話 仮面舞踏会と一夜の夢
国境の街は、年に一度の「仮面舞踏会」で賑わっていた。
身分も素性も隠し、ただ一夜の夢に酔いしれる祭り。
私は露店で買った安物の仮面をつけ、人混みに紛れ込んでいた。
(……ここ、懐かしい)
三百年前、新婚旅行の途中で、私たちはお忍びでこの祭りに参加した。
カイゼルは王子の身分を隠すために、私は聖女の重圧を忘れるために。
仮面の下で、私たちはただの「恋人同士」になれた。
あの夜だけは、国も、使命も、迫りくる別れも忘れて、朝まで踊り明かしたのだ。
「……踊っていただけますか?」
不意に、手が差し出された。
黒い燕尾服。銀色の仮面。
長身の男が、無言で私を誘っていた。
断ろうとした。
でも、その手のひらにある無数の古傷を見た瞬間、言葉が喉に詰まった。
どこかで見た傷だ。
雨の路地裏で、私に傘を差し出してくれた、あの手の傷に似ている。
「……ええ、喜んで」
私は彼の手を取った。
その手は冷たかったけれど、芯の部分に懐かしい熱を帯びていた。
†
音楽が流れる。
ワルツ。三百年前と同じ曲だ。
彼は何も言わずにステップを踏み出した。
驚くほど、息が合った。
私が右へ行こうとすれば、彼が道を空ける。
彼が回ろうとすれば、私の体が自然についていく。
言葉なんていらなかった。
呼吸だけで、視線だけで、全てが通じ合っているような感覚。
(……誰? )
心臓が早鐘を打つ。
このステップを知っている。
この、少し強引で、でも壊れ物を扱うような優しい手の感触を知っている。
まさか、カイゼル?
いいえ、違う。彼は今頃、宿でふて寝しているはずだ。
それに、今の彼がこんな風に私と踊ってくれるはずがない。
彼は私を拒絶し、私も彼を拒絶しているのだから。
でも、もし。
もしこれが、仮面の魔法だとしたら?
素顔を隠しているからこそ、素直になれるのだとしたら?
「……貴方は、誰?」
私は小声で尋ねた。
彼は答えなかった。
ただ、仮面の奥の瞳が、切なげに細められただけだった。
その瞳の色は、私が世界で一番愛し、そして憎んだ色だった。
†
「たーまやー!」
ドーン!
夜空に巨大な花火が打ち上がった。
いや、花火じゃない。火を吹く龍神だ。
「祭りじゃ祭りじゃ! 踊れや歌え! 今夜は無礼講じゃ!」
龍神が空中でとぐろを巻き、キラキラした鱗を撒き散らす。
会場は歓声に包まれた。
「龍神様の祝福だ!」と人々が騒ぎ出す。
その喧騒の中で、仮面の男の手が離れた。
「……魔法が解ける時間だ」
彼は低く呟いた。
その声は、花火の音にかき消されて、よく聞こえなかった。
でも、唇の動きでわかった。
「愛している」と、そう言ったように見えた。
「待って!」
私は彼の手を掴もうとした。
けれど、人混みが私たちを分断する。
仮面の男は、群衆の中に紛れ、煙のように消えてしまった。
†
宿に戻った私は、バルコニーで夜風に当たっていた。
隣の部屋のバルコニーに、カイゼルが出てきた。
彼はいつもの夜会服ではなく、ラフなシャツ姿だった。
「……騒がしい夜だったな」
「ええ。……あんた、どこに行ってたの?」
「寝ていた。……龍神の騒ぎで起こされたがな」
彼は欠伸(あくび)をした。
嘘だ。
彼の髪からは、微かに火薬の匂いがした。花火の匂いだ。
そして、シャツの袖から覗く手首には、ダンスでついたと思われる赤い跡があった。
(……やっぱり、あんただったのね)
私は何も言わなかった。
問い詰めても、彼は否定するだろう。
「仮面の下の素顔」を見せることを、彼は頑なに拒んでいるのだから。
でも、あの手の温もりだけは、嘘じゃない。
言葉のないダンスの中で、彼は確かに私を愛していた。
「……おやすみ、カイゼル」
「ああ。……いい夢を見ろ」
私は部屋に戻った。
胸の奥が温かい。
三百年前の恋は終わったと思っていた。
でも、もしかしたら。
仮面を被ったまま、形を変えて、まだ続いているのかもしれない。
夜が明ければ、また旅が始まる。
王都へ近づくほど、仮面は剥がれ、真実が露わになっていくだろう。
その時、私たちはどんな顔で向き合うことになるのだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます